「汽笛が響く」 南部樹未子 | 手当たり次第の読書日記

手当たり次第の読書日記

新旧は全くお構いなく、読んだ本・好きな本について書いていきます。ジャンルはミステリに相当偏りつつ、児童文学やマンガ、司馬遼太郎なども混ざるでしょう。
新選組と北海道日本ハムファイターズとコンサドーレ札幌のファンブログでは断じてありません(笑)。

にぎやかな殺意 (講談社文庫―ミステリー傑作選)/日本推理作家協会
¥693
Amazon.co.jp


毒きのこで連想したミステリその2、日本編(←続けるな!)。

いろんなアンソロジーに収録されているようですが、私が読んだのがこの本だったので、この画像で。

ミステリとはいっても、謎解きタイプの作品ではないのでネタを割ってしまいますが(ご容赦!)、これも「父はなんでも知っている」と同じく家庭内の殺人です。

5年前に夫をなくし、息子・国夫の一家と同居している64歳のハル。これまでの生涯は苦労の連続でした。貧家に生まれ育って小学校も卒業できず、女中奉公に行った先の長男と「身分違い」の恋に落ちて17歳で結婚したものの、生まれた息子・春彦が乳離れするのを待っていたかのように婚家から追い出されてしまいます。数年後に再婚しますが、その夫にとって彼女は、ただ単に「子供の母親役」「農作業の働き手」として必要とされていただけでした。

誰も手をつけなかった荒地を開墾してリンゴ畑と野菜畑に変えたハルでしたが、夫は後妻の彼女に財産を残すことを嫌い、野菜畑の名義を黙って国夫に変えてしまいます。ハルが遺産を相続すれば、それはやがては春彦のものになる訳ですから。夫がそういう気で妻に接していれば、当然それは子供達にもうつります。実の親子でありながら、国夫には母をいたわるという気持ちはこれっぽっちもありません。足音がうるさいからスリッパは履くなと、冷たい廊下を裸足で歩かせて平気でいるような息子です。そして彼がそうであるなら、嫁や孫達もまたそうなるのは自明のことでした。

愛し愛された最初の夫と引き裂かれた日、駅で聞いた汽笛の音をずっと心の奥にしまっていたハル。ある日デパートで見かけた玩具の汽車の汽笛に昔を思い出し、思い切ってそれを買います。自分にあてがわれた四畳半の狭い部屋で汽車を走らせていると、春彦に会えるような気持ちになれたのです。しかし留守の間に孫達がそれを壊してしまい、しかも謝ろうともしない。嫁も国夫もすまなそうな顔のひとつもしません。国夫はハルをなじります。そもそも自分が子供の頃に玩具を買ってもらったことなどなかったし、孫の子守りもしたことがないくせに、と──。


 頭ごなしにきめつける彼の言葉を聞いているうちに、ハルの興奮は水をかけられたように鎮まった。貧乏で子供たちに人並みの暮らしをさせてやれないことが、かつてのハルにはどんなに辛かったかわからない。金にも物にも恵まれている現在の国夫たちには、子供に玩具を買ってやれない母親の悲しみなど察しがつくまい。そうした悲しみや辛さがこの世にあることさえ、彼らは知らないだろう。

 康子が嫁にきてからも、ハルは畑仕事に忙しくて、日中は孫の子守りどころではなかった。康子は畑へ出るのを嫌がったが、国造も国夫も、「いまどき農家へ嫁にきてくれる町の娘はめったにいない。せっかくきてくれた嫁に無理をさせてはかわいそうだ」と彼女をかばい、家事だけを委せた。家にいる康子が自分の子の子守りを自分でするのは当然であった。それに彼女は、ハルが孫をかわいがろうとしても、「おばあちゃん子は過保護になる」と、ハルを子供に近づけないようにした。ハルが孫を愛さなかったのではない。孫に玩具も買ってこられない立場へ、彼らから追いやられたのである。


息子夫婦はリンゴ畑を売り払い、農家をやめてドライブインを開業する計画を立てています。リンゴ畑の権利の三分の一はハルのものですが、勿論、彼女の意見など聞く気は最初からありません。

度重なる仕打ちに、とうとう覚悟をきめたハル。姑を軽蔑している嫁が、唯一認めているのは彼女のきのこ採りの腕前と、そうして採ってきたきのこで作る味噌汁です。その中に毒きのこをこっそり混ぜて家族皆で死のう、そうすれば自分の分のリンゴ畑の権利を生き別れの息子・春彦に残してやれる──。

しかしこの計画は土壇場で思わぬ邪魔が入り、ハルひとりだけが毒入りの味噌汁を飲むことなく生き残る、という結果を迎えます。

家庭内の殺人を扱っていて、しかもその殺人が成功してしまうという作品の場合、読者の共感をいかにして得るかというのが勘所です。多いのが、「父はなんでも知っている」やこの作品のように、被害者があまりにも無慈悲で横暴であり、加害者は長年それに耐え続けていた、という設定ですね。それから「父はなんでも知っている」では、横暴な父がもしも自分で毒きのこに気づいていれば死なずにすんだ筈でした。計画殺人ではあるものの、同時に被害者の「自業自得」の側面もあるのだということ。

家族に味噌汁を配り終え、最後に自分の分を椀に掬ったちょうどその時、入院中のハルの友人が危篤になったという知らせが入ります。息のあるうちに会ってあげてと懇願され、ハルは動揺するものの、まさかこれから一家無理心中するところだからと言うわけにもいきません。病院へ行って最期を看取り、帰宅してみると、息子達は既に朝食を終えてドライブに出かけたあとでした。


 ハルが裏口から家へ入ると、流しに汚れた食器が積み上げてあった。味噌汁の鍋はきれいに空になっている。康子は、お玉杓子一杯分の茸汁が入っていたハルの汁椀を、自分たちが使った茶碗類といっしょに空の鍋へ放り込んで、遊びに行ってしまったのである。

 自分のしたことに、いくらかは気が咎めていたハルだが、いまは良心の痛みも消えてしまった。

〈人間らしい気持ちが少しでもあったら、おらにたとえ一口でも茸汁を残しておくだろうに。おめえらなんか、死んで当たり前だ〉


この一件は、年寄りが間違えて毒きのこを採ってきてしまった、ということで片が付くのでしょう。結果として「完全犯罪」が成立してしまう訳ですが、「最初からそのつもりだったのではなかった」ということで、後味の悪いものにはなっていないと思います。