僕は人を尊敬しない。と以前言いました。
目上のものに敬意を払わないという意味ではありません。
このことについて少し論を展開したいと思います。

僕が、常に意識していることは「鵜呑みにしない」ということです。
どんなに素晴らしい考えも、自分で噛み砕き、消化しなければ、
本当の意味で自分のものになりえません。
噛み砕くことによって、本当は自分に必要のなかった考えや、
思っていたよりも有用であった考えに気付き、更に昇華させることが出来ます。

身の周りの経験においても同じです。
何かを経験した時、とにかくその因果を考える。
ただ、単純に法則化するのではなく、ああでもないこうでもないと悩みぬく。
そうしないと次につながらないのである。

よく自称「おえらいさん」で「○○は皆○○というものである」や
「もっと偉い人が○○といっていた」といった説教をすることがある。
すると、まわりの人間は「やっぱり、すごい」「あの人みたいになりたい」
などと言う。
この態度では、到底なり得ないであろう。
そもそも、そのおえらいさんは本当に有能な人なのか。
自分の少々長い経験則から、さもこの世の真理のように語ったりはしていないだろうか。
そこに納得のいく明快な論理的分析が入って初めて。有能さが伺える。
そして、僕達に考え咀嚼する猶予を与える。

「単なる事実」が不要なものというわけではない。
事実は、僕達の思考の材料になるし、確実である。
しかし、単なる事実を提供することは、脳みそが無くてもできる。

タチが悪いのは、人を説得する際に経験則しか述べないことである。
「いや、○○ってものは皆○○なんだって」
分析もなしに・・・・
この、主張は最強である。経験のない者には反論の余地がない。
同時に、昇華の余地もないのである。
時に経験則は危険である。例外もあれば、その経験自体が例外かもしれない。
そこに、分析が加われば、そこにあらゆる事態に対応しうる可能性が生まれる。
だから、経験則しか話さないおえらいさんは僕はアテにしない。

僕が、人を尊敬しないとはどういうことか。
逆に僕にとっての「尊敬する」とはどういうことか。
これも、少々普通と定義が違うかもしれない。
「ある人間を盲目的に信仰すること」。これが、僕にとっての尊敬である。
尊敬する人の言うことは何もかも正しく、尊く感じるであろう。
だが、そのまま受け入れてしまっては、ただの「自称おえらいさん」になってしまう。

全ての経験、人のアドバイスを受け入れ、自分で咀嚼し、自分のものにするために
僕は、人を尊敬しないのである。
もちろん、素晴らしい経験を持つ人、努力人、人徳のある人に敬意は払います。