「このままだと、死んじゃうよ?」

公園の隅っこにランドセルが4つ、丸くならんでいる。
何年か前に新人の市会議員が受かった際に、新しくされた滑り台。登りははしごと縄でできた網。細くて急な滑り台と広くて緩やかな滑り台。カラフルで最新のものだ。滑り台が設置されると同時に、こちらは予算が足りなかったのか、ペンキで色を重ね塗りされた古い鉄棒。シンプルな作りなので古くてもさして問題がない。公園の中央にある砂場は1日中、網をかけられないので、掘り返すと猫の糞のでてくる。そんな砂場の周りに鳩が多く飛び、育児書やネットで情報を集める若い母親達は、砂場の砂や土を絶対に触らせない。滑り台の周りに敷かれた人工芝のみで遊ばせる。猫と鳩には寛容な公園も毎年安全面を点検し、ブランコには、小さな指が入ってしまわないように鎖にビニールが被せられた。木製のシーソーと鉄製のジャングルジムは撤去された。公園の周りある鉄の柵に沿って植えられた良く手入れされたツツジ。例年ピンクと薄い桃色の美しいツツジが咲き誇るが、その年は気候の崩れが影響しているのか花の姿はまだなかった。
早朝は老人達が体操し、お昼まではヨチヨチ歩きの幼児をつれた若い母親。そして今は集団下校もなくなり、親や大人なしに自由に帰れるようになった1年生たちがいる。
もちろん学校から家まで、寄り道はしてはいけない。ケイサツのオネーサンが奇妙な人形をもってきて、信号や横断歩道、シンセツに見えるフツーの人も怖いと熱心に説明していたから。

四つの小さな頭はピッタリ寄せ合い何かを熱心に見ている。その小さな背中にはつや消しの黒色、コーティングのされた焦げ茶色、手作り感のある1点ものの濃紺、大人服のブランドも展開されているマークの入った青みがかったピンクのランドセルが背負われている。どれも本革で傷ひとつなく、雨が降り出しそうな雲の下でもキラリ光っている。親や祖父母の愛情を形に変え、金額に変え、その小さな背中の未来に夢を背負わせている。そのランドセルは本人の希望とは関係なく決められたものだ。母親は息子の同級生と同じでなくそこそこよくて長く使えるもの、また好みが変われば買えばいいのだから孫の一番好きな物になさいとら嫁の思い通りだけにはしたくない姑。なんでもいいじゃないか、早く決めろと口に出せないがお金は出さされる舅。嫁と姑に挟まれ、折角の休日を百貨店に連れていかされる若い父親。
なぜ、ランドセルごときに一族総出でないといけないんだ?ランドセル何個背負わせて写真を撮れば気がすむんだ?何時間も見て、その後だらだら食事をし、あれが良かったこれがよかった。耐えろ。意見も言わずニコニコしていれば6時間ほどで解放されるじゃないか。若い父親やたくさんの大人の都合の詰まったランドセルは、小さな背中に背負われてやっとその役目を果たしている。

そのランドセルの主達は、そんな大人の想いなんて知らない。それでいいんだ。だって僕らは子供なんだから。
何でも知っているが、知らないフリをした方が世の中うまくいくんだ。

4人の真新しい靴の先に囲まれた真ん中には、タオルにくるまれている動く物体がある。多分僕らも6年前はこんな姿だったと思う。

でも、なぜこんなものが公園の隅っこに落ちているんの?ねえママ?僕らはどうすればいいの?