自分が働いている職場には10名ほどの講師がいる。
そのうち女性の講師は全部で4名おり、全員大学生である。
以前にも書いたことだが、自分は彼女らを見て、かわいいというより、大人の女性だなあと感じてしまう。
「お姉さん」という目で見てしまうのである。
自分の中での「女子」は中学3年で成長が止まっているため、45歳の今になっても女子大生を見ると「大人」と感じるのである。
しかしその反面、彼女らには、つい「年上の格好良さ」を見せようと演じてしまう。
彼女らの前では、格好良く見せようとしてしまうのだ。
自分の中での「女性」はクールでちょい悪な男性が好きなはずだから、彼女らの前ではいつも以上に孤高の人を演じて、彼女らに関心を抱かせようとするのだ。
ただ、45歳の今になってはいくらクールに振る舞っても、女性からまったく声はかからない。
かくして、そんな孤高の人は、彼女らといまだ一度もコミュニケーションをとることができない。
他方、男性講師も皆大学生だが、彼らを見ても女子大生と同じ感覚が湧かないのが不思議である。
もっとも普段彼らと会話することは全くないため、彼らがどういう人間かはほとんどわからないし、興味もわかない。
ただ、そのうち1人苦手な男性講師がいる。
彼もおそらく大学生である。
肌は黒く、茶髪のショートヘアーでヒゲを短く整えており、塾に来るときはサッカーの本田がかけているような金縁のサングラスをかけている。
女性講師からはエグザイルのなんとかに似ていると言われるなど、コワちゃらい感じである。
自分もちょい悪を演じているのだが彼は見た目だけのちょい悪である。
でも、彼はそれが「格好良い」といわれ、自分は言われたことがない。
彼はちょっとした服装の変化にもすぐ気付かれる。
自分は何をしても気づかれない。
これはいったい何の差なのか。
そんなちょい悪な彼でも仕事においてはフットワークが軽く、室長の言いたいことを即時に把握してすぐ行動に移すという行動力を持っている。
そのため、室長は彼に何かと仕事を任せることが多い。
最年長の自分は仕事を任せられたことはないが、20歳そこそこの彼には様々な仕事を任せるのである。
自分もパソコンについては、そこそこの知識はある。
ネットが主だが、もう10年以上使い続けているからだ。
だから、パソコンの仕事は彼にやらせるより自分が適任のはずである。
でも、パソコンを使った仕事でも、室長は自分ではなく彼に頼む。
そういうのを見ると、なんだかやるせなくなる。
また、これも自分と違って、生徒に面白い話をして楽しませることもできるため、生徒から人気があり、休み時間はいつも彼の周りに人だかりができている。
そして彼が話すときはいつも大声だ。
まるで吉本の芸人のように大声で話したり、笑ったりする。
そんな彼は、いつも講師室に入るなり、得意の大声で周りの講師をいじったり、馬鹿話をして場を和ませており、講師室ではムードメーカーとしての役割を果たしている。
自分が彼の話を聞いてもあまり面白いとは思わないが、同世代ではあれが面白いと感じるのだろう。
彼にいじられる方も、まんざら悪い気ではなさそうだ。
彼が講師室にいないときも講師の間ではよく彼の話をして笑っている。
要は憎まれないキャラなのである。
この辺は自分と正反対である。
その一方で、彼は目上の人間に対しては体育会系なノリで接する。
その体育会系なノリが、上司である室長からも気に入られているのか、室長としょっちゅう長話をしている。
自分は仕事中ほとんど講師室で室長のそばにいるが、室長と最初の面接以来、5分以上話したことはない。
何気ないコミュニケーションが取れないのだ。
彼はもはや室長からは単なるお気に入りから「特別な存在」として認識されている。
その証左として、彼は塾の駐車場に堂々と自分の車を止めている。
しかも、室長公認で止めているのだ。
学生のくせに車を持っていることだけで腹立たしいのに、塾に来るのにわざわざ車で来て、どや顔で駐車場に止めているのだ。
自分はそんな彼が好きになれない。
理由は単純な嫉妬以外何物でもない。
学生のくせに車に乗るなんて、運転免許も持っていない自分にとっては妬ましくて仕方がないし、あんなふざけた話ばかりしてて講師になれるのに、自分がいまだ研修生なことも納得がいかないし、妬ましい。
また、女性講師と笑いながら喋っているのも妬ましくて仕方がない。
そんな単純な嫉妬から、彼をあまり好きにはなれなかった。
しかし、一点だけ評価するところがある。
彼は周りの講師のほとんどをいじってきたが、自分だけに対しては、決していじろうとしないことである。
体育会系ならではの年上に対する敬意があるのだろうか、彼は自分を笑いのネタに使ったことは一度もなかった。
いくらボンボンのエグザイルでも、二回り以上も年上の人間には敬意を払っており、そこは意識的にきちんと線引きしているのである。
当然と言えば当然だが、自分も中学校時代の水泳部で上下関係を学んだからよくわかる。
年上の先輩をネタにすることなんて不謹慎極まりないのである。
このくらい、中学生でも知っている常識である。
さすがのエグザイルも、そこはきちんとわきまえていたのだった。
そこだけが唯一彼を評価できる点だった。
…はずだった。
その唯一の評価が覆る出来事が起こった。
数日前、天候が著しく悪く、さながら台風のような日があった。
その日は休んでいる生徒が多かったが、講師も電車の関係でいつもの半分くらいしか来ていなかった。
自分もすぐに帰ってよかったのだが、そのとき男性陣から一番人気のある女性講師も残っていたため、彼女とのコミュニケーションを作る絶好のチャンスと考え、自分も敢えて残った。
いつもクールに振る舞ってばかりでは会話の糸口を掴めない、ここでは二人きりのときに思い切って声をかけてみようと考えた。
彼女はハーフのような顔立ちをしており、顔だけでいうとおとぼけキャラのローラに似ている。
いつも笑顔で皆を和ませるため、、周りの職員にも人気がある。
彼女は大学でチアリーディングをしており、いつも黒髪をポニーテールのようにして後ろで結んでいる。
生徒からも人気があって何名も担任として抱えている。
だから、台風の日でも出勤せざるを得ないのだ。
彼女の情報はだいたい知っている。
というのも、以前室長が講師名簿を見ている隙に背後から覗き見し、彼女の通っている大学や生年月日、住所も覚えたのだ。
男性講師が何歳でどこの大学などまったく興味すらわかないが、女性に対しては別である。
勉強ではほとんど機能しない暗記力も、こういう時には20代に負けないくらいの力を発揮する。
その日、最後まで授業があったのはエグザイルとローラだけだった。
最後の授業をしている間、自分はひとり講師室に残って予習をする振りをしながら、彼女に話しかけるためのネタを考えていた。
しかし、彼女はエグザイルと一緒に講師室に入って、ずっとエグザイルと喋っていたため、結局チャンスは巡ってこなかった。
夜になると雨はほとんどやんでいたが、室長はエグザイルに、自分ら2人を車で送るよう提案した。
自分は、正直彼の車に乗りたくなどなかったが、これまた彼女と話せるかもしれないチャンスと考え、期待に胸を膨らませた。
エグザイルは「いいっすよ」みたいな返事をして、車に乗せることを快諾した。
これは絶好の機会だ、これを逃すわけにはいかないと思った。
しかし、そこで問題が起きた。
自分はかれこれ20年くらい車に乗ったことがない。
両親は車の免許を持っていなかったので、幼いころから数えるほどしか車に乗ったことないからだ。
だいたい、電車か自転車を利用していた。
最近乗った最も古い記憶は、20年くらい前に乗ったタクシーである。
そのため、車に乗る要領がいまいちわからない。
しかし、彼らの手前、ほとんど車に乗っていないことを知られたくなかった。
彼らの前では人生経験を積んだ大人でありたいのだ。
夜10時近くに、塾のシャッターを閉め、隣の駐車場に向かった。
そして、彼の車をはじめて目にしたとき、やはり戸惑ってしまった。
どういうタイミングで乗ればいいのかわからなかったのだ。
まず、彼は、車のキーをリモコンのように押すと、車のランプみたいなのが光ったが、それが何を意味するかわからず、呆然と立ち尽くしてしまった。
車からカチャという音が聞こえたような気もしたし、それが開錠を意味するものなのかもしれない。
しかし、はっきりわからない以上、ドアを開けるわけにもいかなかった。
すると、エグザイルは「開いてるよ」と言った。
ああ、さっきのはやはり開錠の音だったのか、最近の車は鍵を使わなくてもドアを開錠するのかと、科学の進歩はすさまじいなと思った。
そして同時に、エグザイルの言葉遣いに疑問を抱いた。
「開いてるよ」という言葉は、年上の先輩に使う言葉ではなく、同世代か年下に使う言葉である。
いわゆるタメ口である。
この疑問が自分の中で膨れ上がった。
なぜ彼はタメ口なのか、二回り以上年上の人間とわかっていて彼はタメ口を使ったのか、いやそれはない、そんなことは許されるはずがない。
そして逡巡した結果、なるほどこれはローラに向けて言ったのかと善解し、疑問に一応の決着をつけた。
そんないきなりのエグザイルのタメ口につまづいたが、いつもクールなちょい悪を振る舞う自分は、こんなことに取り乱したことを知られてはならないと思いつつ、先輩の威厳を改めて見せつけるように、車のドアを格好良く開けて挽回しようと試みた。
車のドアの開閉くらいはなんとなく知っているからだ。
そして、助手席のドアの取っ手に手を伸ばしたら、
「いや、後ろ行って」
と言われ、さらなるショックを受けた。
また、タメ口だ。
しかも、今回のは間違いなく自分に向けてだ。
おそらく、さっきのタメ口もローラではなく、自分に言っていたのだ。
しかし小心者の自分はこの2発を食らっても、すぐには信じることはできなかった。
待てよ、これは自分に対する親しみをこめて言っているに違いない、と良いほうに考えた。
しかし、体育会系なノリの彼にそんなはずはなく、自分を目下に見ている説のほうがかなり有力となり、一気に不快になった。
しかも、ローラを助手席に乗せて、自分を後部座席に座らせるつもりなのだ。
ただでさえ家まで近いのに、これではローラと全くコミュニケーションが取れないではないか。
自分の淡い期待はまたも絶望に変わった。
ただ、いまさら乗りたくないというわけにもいかず、つつがなくドアを開け、後部座席に乗り込んだ。
そして、久々の車に3度目のショックを受けた。
車の中はテレビで見た車と同じでカーナビがあって、革張りのシートに、いまどきの音楽が流れていた。
自転車しか乗らないので、車の内部構造はまったくわからなかったが、車の中はまさに異世界だ。
若者が車にあこがれる気持ちがよくわかる。
なんだか悔しかった。
自分は車の免許すら持っていないのに、たかだか20歳かそこらの糞ガキがこんな立派な車に毎日乗っていることに腹が立った。
自分が彼の年のときは、まだ浪人生だった。
車どころか、自転車に乗って、毎日必死にペダルをこぎながら図書館を往復し、図書館では向かいに座って勉強している女子高生を見て、悶々としていた。
そんな時期だった。
だから車を買うなど考えたこともなかった。
免許取得ですらおくびにも出たことがなかった。
しかし、彼はそんな自分の数歩先、いや何十㎞先の人生を歩んでいる。
それが悔しくて仕方がなかった。
車の中はオレンジかシトラスかわからないが、柑橘系の香りが車特有の独特の臭いを打ち消していた。
ローラも入るなり、「いい匂い」と言っていたが、自分はそうは思わなかった、いや思いたくなかった。
先のエグザイルのタメ口で一気に不快にな自分にとっては、ローラのエグザイルに対する肯定的な発言も許さなかった。
車の中でエグザイルの言動を何度も反芻し、怒りで発狂しそうだった。
仕事の上では彼のが立場が上だが、さすがに二回り上の人間に対する態度ではないだろう。
その怒りを感じつつも、やはり小心者の自分はつい自己弁護してしまう。
ひょっとすると彼のさっきの言葉は、とっさに一番言いやすい言葉が出てしまっただけではないか、体育会系にもかかわらず思わずタメ口になってしまったのは仕事がオフになってつい気が抜けてしまったからではないか、もしやエグザイルはローラの前で少し格好つけようとしただけではないか、と自分を落ち着けるため必死の善意解釈を繰り返していた。
そしてある決意をした。
自分の不安を打ち消すために、彼が車の中で助手席のローラとの話に、あえて後部座席から自分が入ろうと考えたのだ。
さっきは2発とも単純な一言に過ぎなかった。
だから、その2発で上下関係を判断するのは難しい。
彼と2語以上の会話をすれば上下関係がはっきりする。
そのときの彼の言葉遣いで、彼のなかでの上下関係を認識できると判断しようと試みた。
この試みには勝算があった、
2語以上の会話であれば、さすがのエグザイルもタメ口を使うことは憚られ、おそらく敬語を使ってくるだろうと確信した。
そして、ローラの前で自分の方がエグザイルより上であることを誇示するチャンスと思った。
そして、彼とローラがくだらない話をした後、相槌をうつように「○○ですよね~」と言った。
自分はエグザイルの先の言動で侮辱されて腹が立ってしょうがないため、本来自分はタメ口でもよかった。
しかし、そこは大人の余裕と見せかけた小心者の本音で、敢えて敬語を使って接した。
ローラはきちんと「ですねー」と反応したが、なんと、エグザイルは自分の相槌を無視したのだ。
20歳そこそこの若者に45歳の人生の先輩がわざわざ相槌を打ったのに、無視しやがったのだ。
よしんば運転中だとしても、ローラとの話は漏らさず反応していたのに、自分の初めての一言に対しては「無視」なのだ。
普段職場ではおふざけキャラとして同僚のちょっとした反応でも見逃さず拾うのに、彼らに比べ遥か遥か先輩の敬語による相槌に無視を決めたのだ。
怒りを超えて悲しくなってしまった。
そして、同時に、もしかして彼を怒らせてしまったのではないかという不安が頭をよぎった。
もし彼が怒っているならば、これ以上の彼の話への介入はさらなる刺激となり、本当に怒りだすかもしれない。
言葉の達者な彼が本気になって怒れば、自分は太刀打ちできない。
また、自分は車に乗せてもらっている立場上、完全に自分の分が悪い。
それを棚に上げて応戦すれば、間違いなく彼女の前で失態を晒すことになる。
普段全くコミュニケーションをとらなくクールなちょい悪を演じているのに、ちょっと喋ったら怒られたなど、恥の上塗りである。
それだけは避けなければと思った。
そして、そう思わざるを得ない自分が情けなくなり、悔しくて悔しくて仕方がなかった。
そんなこんなで2語以上の会話を交わすという当初の目的も暗礁に乗り上げてしまった。
しかし、年上のプライドからか、本当は不安でたまらないくせに、自分も先のエグザイルの言動で先輩の威厳を傷つけられたことは許さないぞという態度だけは示し、ローラにだけはわかってもらおうとした。
なぜなら、もしエグザイルに自分が不快な態度が知られてケンカを売られたら敵うはずがない。
だから、エグザイルには気づかれず、心優しいローラにだけは、この男のプライドが伝わるよう、細心の注意を払って仏頂面を決めた。
そして、自分の家の近くの信号で止まったので、彼に「この辺で大丈夫です」と伝えた。
すると、彼は「え?あー、はい」と答えて、やおらハンドルを切って車を止めた。
そのとき、彼の「え?」は明らかに不機嫌が8割入っていた。
おそらく車線変更をしなくてはならない関係で、もう少し早めに止めるべきことを伝えなければならなかったのだ。
それなのに、直前で止めるように言った自分に呆れと怒りを感じたのだろう。
ここで反省すべきなのに、楽観主義の自分はそうは考えず、あとのエグザイルの「はい」というどうでもよい返事に安堵してしまったのだ。
「はい」は年上に対する敬語であることから安堵したのだ。
自分に対して、一部ではあるがエグザイルが敬語を使った。
安心した、なんだ自分に対しても敬語じゃないかと思った。
もし、目下の人間なら「はい」と言わず、「うん」とか「ああ」だろう。
そこに一瞬の安堵をした。
その後、そんな一瞬の安堵も奈落の底に突き落とす出来事が起こる。
致命的なミスを犯してしまったのだ。
彼の底にくすぶっていた怒りの炉心を露呈させてしまうようなミス犯しててしまったのである。
原因は、突き詰めて言えば、人生経験不足だ。
自分は車の降り方を知らなかった。
通常車を降りるときは歩道側のドアを開けるのに、自分はそれすら知らなかった。
もちろんまったく何も知らなかったわけではない。
狭い歩道側から降りたら車のドアがガードレールに当たって傷つけてしまうかもしれないという、さしてどうでもいいことは気づいたのだが、肝心なことはわかっていなかったのだ。
そして、彼の不機嫌を察しているにもかかわらず、自分は先の仏頂面の延長でそんなの気にしていないような振りをしながら、さらにタメ口で上から目線で「おーありがと」と言って、思いっきり車道側のドアを開けたのだ。
するとエグザイルに「なにしてんだ、危ねーだろ!!」といきなり怒鳴られた。
耳を疑うような怒声に一瞬心臓が止まった。
さらに、同時に車の後ろから走ってきたバイクに急ブレーキを踏ませてしまったのだ。
バイクに乗っていた人に少し驚いた顔で「大丈夫ですか?」と言われたので、大丈夫ですと答えると、そのまま走り去って行った。
自分は彼に「すいません!」と謝ったが、もはや彼の怒りは頂点に達していた。
「ちょっと考えればわかるでしょ。なんで後ろ確認しないの?」と続けざまに怒られた。
完全にタメ口である。
しかもそれは明らかに目上の人間が使う言葉で自分を叱った。
先の一瞬の安堵は地獄の底に叩き落とされた。
恥ずかしくて憤死しそうだった。
よくよく考えなくても、自分のミスに対しての至極当然の怒りである。
あわや事故になるようなミスをしでかしたのは自分だから、怒られるのはもっともだ。
しかし、恥ずかしさはそこではない。
30近く年下の男に怒られたのだ。
しかもきつい言い方で怒られたことがショックだった。
今まで逡巡していた彼の自分に対する目線は明らかになった。
彼は自分に敬意を払うつもりなぞさらさらなかったのだ。
すべてが、この怒声で改めて思い知らされた。
もう自分のミスなどどうでもよかった。
そんな彼の怒っている顔を見て、申し訳ないという気持ちは生まれなかった。
ただただ自分が情けなくて情けなくて仕方がないという気持ちと、先輩に対するタメ口が許さないという気持ち、そして、なにより普段クールに演じている自分が、こんなことで怒られるのをローラに見られたことがつらかった。
そして怒られている最中、気になったのが彼女の顔である。
彼女が今どんな表情をしているか気になった。
たしかに怒られるべきミスをしてしまったのは自分である。
しかし、彼は人生の先輩に対してあるまじき怒声で怒鳴ったのであり、これは許されることではない。
そこはローラも自分に対して気の毒に思い、心配してくれるはずだと思い込んだ。
だから、彼女の顔がすごく気になった。
優しい心の持ち主の彼女なら、自分の些細なミスよりエグザイルの無礼な態度のほうが許せないと思うはずだし、自分に肩を持ってくれるはずだと信じた。
彼女はきっと、心配そうな顔で自分を見ているに違いないと、そう信じて、彼女の顔をちらっと見た。
この期待はあっさり崩れ去った。
彼女の顔はまったくの「無表情」だった。
今まで見たことがないくらいの「無表情」だった。
いつも笑顔の彼女の無表情など、見たことがなかった。
彼女の無表情は何を意味しているのだろう。
おそらく、いや、間違いなく「怒り」を表しているのだろう。
自分に対して怒っていたのはエグザイルだけではなかったのだ。
彼女も自分のどんくささと勘違いに怒っていたということに、やっと気が付いた。
そして、うなだれながら自宅に帰った。
そもそも彼は自分に対して敬意があったからいじらなかったのではなかったのだ。
ここが勘違いの始まりだった。
彼は自分を認識していなかったのだ。
だから、いじるほど関心すらなかったのだ。
無関心だったのだ。
そしてそれはローラも同じだった。
あそこの塾にいる人間みながそうなのかもしれない。
自分など、いてもいなくてもどっちでもいいのだ。
むしろいないほうがよいのだろう。
20年間、司法試験の勉強を続けたのは、皆を見返してやりたくて、女にもてたくて始めた。
しかし、20年頑張っても結果をだせなかったら、このざまである。
女にもてないどころか、関心すら寄せられない。
クールに気取っても、何の関心も抱かれなかったのだ。
そう思い、いつものように塞ぎ込んだ。