実は、十日ほど、中国の田舎に出張に出ていて、帰ってからもいろいろ忙しく、また明後日から韓国に行く、という具合で、ブログが更新できていなかった。ところが驚いたことに、かなりの数の人が毎日読んでくださっている。

それでなぜ忙しいかというと、

(1)論文集の編集。
東洋文化研究所『東洋文化』89号
東洋文化研究所『東洋文化』90号
に続いて、92号が私の推進している「魂の脱植民地化」特集号となることになって、これの論文を自分で書いたり、他人に書かせたりしている。この編集室なるにあから購入もできるので、来年の三月くらいには興味の有る方は、買ってください。結構、高いのですが。。。

(2)本の執筆。
これは、「原発危機を生きる~日本社会の構造と進路~(仮題)」というもので、このブログで書いてきたことを中心に、書いています。【はじめに】の案を以下に公開します。これもまだ第一稿で、おそらく、書きなおすはずです。


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『原発危機を生きる~日本社会の構造と進路~(仮題)』
安冨歩

【はじめに】

 こんな日が、いつかはやってくるのではないか、と私はずっと怯えていました。しかし、まさか自分が生きているうちには起こるまい、とタカをくくっておりました。実に愚かであった、と思わざるを得ません。しかしその日が来てしまいました。日本で原子力発電所の爆発する日が。
 最初にそういう怯えを抱いたのは、銀行をやめて大学院に戻り、チェルノブイリ事故に関する本を読み始めた頃でした。それは1989年のことです。というのも、事故が起きた
1986年4月26日 には、私は住友銀行に入社したばかりで、各種の下らないことに忙殺されており、とてもじゃありませんが、事故について真剣に考える暇がありませんでした。
 バブルが起きる直前の銀行に二年半働くということは、じつに精神にも身体にも悪影響を与えることでした。それは人々が急速に集団発狂していく過程で、自分自身もまた発狂してく過程のように私には思えました。そういうすさまじい過程にどっぷりと浸かって、とうとう阿呆らしくなって、銀行をやめたのが1988年でした。そして大学院に入ってしばらくしてから、私は、チェルノブイリ関係の書物に手を出したのです。
 それは信じられないくらい、恐ろしい話でした。心臓がバクバクして、目の玉がでんぐり返りそうになりました。いくつかの本を手当たりしだいに読んで、日本の原発もまた、全く変わらない状況にある、と考えました。そして私は、日本が原発にのめり込んでいく過程が、私の経験したバブルへの突入過程と類似しているばかりか、私の研究テーマであった満洲事変以降の社会状況と、構造的に非常に近い、ということに気づきました。そしてなんとかそれを止める方法はないか、と考えました。というよりも、私の研究全体が、こういった暴走の本質を解明し、それを解除する方法の探求に向けられていきました。
 しかし、驚くべきことに、やがて京都議定書というものが採択されると、二酸化炭素が悪玉に、プルトニウムが善玉にされました。そして世間は「原発やむなし」論で統一されていきました。これはまったく私には、唖然とする過程でした。そして唖然としてしまった私は、卑怯にも原発について考えるのをやめてしまいました。
 そしてついに、2011年3月12日がやってきました。枝野官房長官が「原子力緊急事態宣言」を発するのを聞いて、私は「エッ」と叫びました。全身から血の気が引いて、ソファーの上にへたりこんでしまいました。そこから先は、信じられないことが、次々と起きていきました。
 私は事故の経緯にはさほど驚きませんでした。原発について少しでも知識があれば、電源を喪失して冷却できなくなった原発がどうなるかは、だいたい見当がつくからです。私は、大規模な水蒸気爆発を恐れていましたので、そこまで行かなかった不幸中の幸いにむしろ驚いていました。
 それよりも私が驚いたのは、東京電力や日本政府の対応でした。彼らの楽観主義と無策ぶりは、私にとって「想定外」でした。事態がここまで至っているというのに、彼ら特有の「原子力安全欺瞞言語」を放棄しないことに驚いたのです。しかし考えてみれば、スリーマイルやチェルノブイリの現場担当者もまた、非常に楽観的でしたから、これも「想定内」というべきであったかもしれません。
 私が一番驚いたのは、一般の人々の対応でした。原子炉が爆発しているのを見た私は、果たして日本から脱出すべきや否やを考えていました。ところが、原子炉の数十キロ範囲内にいる人々が、しかも大量の放射性物質が降り注いたことが明らかになったあとでも、平然と日常生活を継続しているのを見たときには、心底驚きました。そのころ、ある意味で福島原発から世界で最も離れている中国ではパニックが起きており、ヨウ素入りの塩はおろか、普通の塩でさえも、売り場から消え去る始末でした。ところが日本列島の人々は、平然としており、普通に暮らしているのです。
 この一連の姿を見て、私は、かつて考えたことを思い出しました。現代日本人と原発との関係は、戦前の日本人と戦争との関係に非常によく似ているのです。そしてまた、この行動パターンは、江戸時代に形成された日本社会の有様とも深い相同性を持っています。
 本書はこの問題を考えたいと思います。これは、原発危機に関する議論であると同時に、原発危機を通してみた日本社会についての議論でもあります。そしてこの議論を踏まえた上で、日本社会は今後、どのような道を進むべきなのか、そのなかで我々はどのように生きていけば良いのか、を考えていきたいと思います。
 私の職業は学者ですが、この危機のなかでは、学者ぶった議論をチマチマ展開している余裕はありません。それよりも私自身が、この危機をどのように生きるべきかを、考えざるを得ない状態です。本書は、そのために考えたことのまとめです。その意味で、私がこれまでに蓄積した経験と知識とを総動員した、私一人のための学問です。
 それゆえこの考察の結論は、読者の皆様にそのままお役に立つものではありません。というのも、人それぞれ、事情も違えば感じ方も違うからです。しかし、私がこの拙い思考を開陳することで、みなさんがこの状況を生きるためにものごとを考え、判断する上で、お役に立つのではないかと考えております。少なくとも、何をどう考えてよいやらわからず、呆然としながらも、惰性的に生きることには嫌悪感を抱かれる方には、何らかのお役に立つに違いないと考えます。