9年2ヶ月もの間監禁された新潟少女監禁事件 | 怒れる男の別館だった…。

怒れる男の別館だった…。

別館としてやってきましたが、紆余曲折あって、こうなりましたw

1990年11月、当時小学4年生だった被害児童が下校途中にナイフで脅かされて車のトランクに入れられて、犯人である佐藤宣行の家に運ばれます。
この佐藤宣行は当時28歳で、以前にも下校途中の少女を連れ去り、わいせつ行為をしようとしたが、それを見ていた同じ学校の少女が学校へ知らせ、全教師総動員で出向き、佐藤宣行を取り押さえた為に未遂でした。
この強制わいせつ未遂で懲役1年執行猶予3年の判決をうけた佐藤宣行は、その執行猶予中に新潟少女監禁事件を起こします。
佐藤宣行は父親が63歳、母親が36歳の時に出来た子供で、溺愛されて育てられたが、父親が年を取ってることや、父親の名前が古臭いことなどから、小学校でからかわれ、父親との関係が悪化します。
そんな中、父親は死亡し、母親と2人の生活が始まります。
高校を卒業して以来、仕事を3ヶ月しかしたことがなかった佐藤宣行は、母親と一緒では自立出来ないと考え、同じ家でも入り口を別々に改築してもらい、自分の部屋への立ち入りを禁じます。
これが9年2ヶ月もの間、母親に監禁が発覚しなかった原因となります。

そして少女と佐藤宣行の、2人の生活が始まりました。
初めは少女の両手両足を縛っていた佐藤宣行ですが、ナイフで脅したりすることを繰り返す中、少女が逃げ出さないと確信し、縛ることを止めます。
ちなみに、部屋に鍵をかけることもしませんでしたが、すでに少女は逃げる気力が失われてました。
そして何年か経ち、1日にコンビニ弁当をひとつしか貰えなくなり、40数キロあった体重も30キロ台まで落ち、体力も奪われます。
この点、検察側の主張は、逃げることを出来なくする為に食事を減らしたと主張しますが、佐藤宣行は否定しています。

佐藤宣行は父親から潔癖症という病気を遺伝していました。
人から触られることや、壁などを触ることを極端に嫌がり、そのうちトイレにも行かなくなり、部屋や風呂でビニール袋の中に用を足すようになります。
被害少女も同様に、部屋でビニール袋の中に用を足していました。
そしてその大便や小便の入ったビニール袋を、階段の端に並べていたのです。
後に少女を発見した保健所の職員は、佐藤宣行の家に入った時、目が痛くなるほどのアンモニア臭がしたと述べています。
しかし、人から触られるのも触るのも嫌いなはずの佐藤宣行は、被害少女を触ったり触られるのは平気だったようです。
この点、かなり矛盾しています。
佐藤宣行は、被害少女をベッドから下ろさないようにしていたのは、彼女を汚染させない為だと述べています。
しかし、9年2ヶ月の監禁の間、母親にばれる危険性がある為、僅か1回しかお風呂に入れてないのです。
本人自身も、1ヶ月に1回しか風呂に入っていなかったそうです。
そういう不潔な状態なのに、9年2ヶ月もの間、佐藤宣行は被害少女とずっと一緒に寝ていたのです。
つまり、人から触られるのも触るのも不潔で嫌だが、可愛い少女は別。
そして自分も別という考えなのでしょう。

監禁中は少女を殴ったり、スタンガンをあてたりすることを繰り返していました。
『おじさん』と言われただけで、鉄拳制裁を加えていたのです。
その理由は、同年代の人として扱ってほしかったからだと佐藤宣行は述べています。
なにを考えてるのでしょか。
当時で28歳と9歳という違いがあるのです。

佐藤宣行は、少女が保護される数年前から、母親への暴力をエスカレートさせていきました。
それに耐えかねた母親は、保健所に相談します。
そこで精神病院に強制入院させるという結論にいたります。
そして保健所の職員が、佐藤宣行の家に向かいました。

佐藤宣行の部屋に保健所の職員が入ると、佐藤宣行はベッドで寝ていました。
そして起こして連れていこうとしますが、佐藤宣行は暴れだします。
それをなんとか制圧して連れ出します。
この時、佐藤宣行は『もう終わりだ!うまくいってたのに!』と叫んでいます。
保健所の職員は、佐藤宣行を連れ出すと同時に、ベッドの上にある丸まった毛布が動いているのを見逃しませんでした。
そこで毛布を捲ると、被害少女がいたのです。
保健所が誰なのか尋ねても答えない為、佐藤宣行の母親を連れてきます。
そして母親が『あなたは誰?帰らないの?』と聞くと、少女は『ここにいてもいいですか?』と言うので、母親は『いいよ』と答えます。
しかし、保健所の職員はそんなんで納得せず、家は何処にあるのかと問いただします。
すると少女は、『もうないかもしれない』と答えたのです。
そこで名前など詳しく聞いたところ、9年2ヶ月前に行方不明になっていた少女だと分かったのです。
発見当時、少女はすでに19歳で、ひとりでは歩けない状態になってました。
ちなみに、毛布に包まっていたのは、佐藤宣行との約束の為です。
寝る時は、毛布に丸まり、髪の毛も出さないようにとのルールを9年2ヶ月もの間、守っていたのです。

少女の9年2ヶ月の生活は、テレビも見れない生活でした。
しかし、佐藤宣行はラジオを聞かせたり、新聞や漫画などを見せてたようです。
ちなみに、被害少女の行方不明の新聞報道なども見せていました。
佐藤宣行は、学校にも行かせられないので、知能の発達が遅れないように、新聞やラジオから流れるニュースのディスカッションを被害少女としていたようです。
保護された被害少女の趣味も、ある意味独特のものでした。
競馬、F1などのスポーツが好きだったのです。
これは、佐藤宣行の趣味でした。

そして裁判が始まります。
裁判中、取調べでも簡易鑑定の時にも言ってなかった、幻覚や幻聴が聞こえると言い出し、本鑑定をすることになります。
簡易鑑定と本鑑定は、精神鑑定のことです。
しかし、これによって分かったことといえば、佐藤宣行が人格障害であること、自己愛が強いこと、成人女性には興味がないペドフィリアであることでした。
当然、責任能力に問題はないとされました。
ちなみに検察側は、幻覚や幻聴は心神耗弱によって減刑を得る為の詐病だと切り捨てています。
実際、本鑑定での結論も似たようなものでした。

初めの時点で起訴された罪名は、逮捕監禁致傷と未成年者略取でした。
裁判において、加算方式はとれないことから、その中で1番重い罪の法定刑の範囲で刑が決まることになります。
それは逮捕監禁致傷で、当時は10年が最高刑でした。
そこで検察は追起訴を決断します。
それは窃盗罪です。
被害少女のキャミソールを、ある店から盗んでいたのです。
それはすでに弁償も済んでいて、不起訴が妥当なものですが、検察は起訴に踏み切りました。
それには理由があります。
最高刑が10年ではあまりにも軽い、ならどうするか。
そこで窃盗罪で追起訴することにより、併合罪で裁こうとしたのです。
併合罪とは、別々の罪を一緒に裁くことにより、その中で1番重い罪の最高刑の1.5倍、つまり、この件でいえば懲役15年の刑を科せるというものです。
ちなみに、未成年者略取と逮捕監禁致傷では併合罪になりません。
その説明はここでは省きますが、だからこそ窃盗罪での起訴が必要だったのです。

実際、検察官は論告でこう述べています。

『最高刑が懲役10年では、被害者の奪われた1日につき、僅か1日の服役で償うことになり、それではあまりにも正義に反する』

そして、この論告では異例の言葉も述べています。

『犯行の重大性に照らせば、未決勾留日数を1日たりとも算入するならば正義に反する』

未決勾留日数の算入について検察官が論告で言及するのは、非常に異例です。
実際、私は聞いたことがありません。

そして検察官は、併合罪での最高刑である、懲役15年を求刑しました。


新潟地裁での判決は懲役14年で、未決は約1年の算入でした。
これに対して佐藤宣行は、すぐに控訴を決めます。
ちなみに検察側は控訴していません。

そして東京高裁で判決が言い渡されます。
原判決を破棄し、被告人を懲役11年に処する。
なんと、3年間も刑が軽くなったのです。
この判決に対する東京高裁の判断は以下の通りです。

併合罪で罪を科す時、逮捕監禁致傷については懲役10年、窃盗については懲役5年と判断し、懲役15年に処することは出来るが、逮捕監禁致傷について懲役14年、窃盗については懲役1年として、懲役15年に処することは出来ない。
つまり、併合罪で裁く時にも、逮捕監禁致傷は10年が最高刑であるから、逮捕監禁致傷をその限度を超えて評価するのは違法であるという判断です。
今回の窃盗罪は微罪で、本来なら不起訴が妥当のものです。
だから、懲役14年を科すには、併合されてる罪が、少なくとも懲役4年に値するものでなくてはならないというのです。
実際、裁判長は佐藤宣行に、これは情状酌量とか、そういう理由ではないから勘違いしないようにと述べています。

これに対して検察側は、上告します。
そしてなんと、佐藤宣行もほぼ量刑不当と事実誤認の内容で上告しました。

そして最高裁ではまたも逆転します。
原判決を破棄し、一審での懲役14年を科したのです。
なお、この際に、約200日の未決もプラスされてます。
この判決に対する最高裁の判断は以下の通りです。

併合罪で罪を科す時、高裁はひとつひとつの罪で量刑を決め、それを加算するというやり方をとっているが、併合罪の目的はそうではなく、1.5倍の量刑の中で、総合的に量刑を決めることが目的と解するのが相当である。
つまり、併合罪とはひとつひとつの量刑を決めてそれを足すというやり方ではなく、2つの罪をひとつのものと考えて、総合的に1.5倍の中で量刑を決めるべきだというのです。

これによって、佐藤宣行の懲役14年は確定しました。
そして未決は約550日程度算入されました。


被害者の心の傷は一生消えないでしょう。
こんなクズが1年もすれば社会に出てくるなんて許せない思いです。
被害者には、恐れていた症状も出てしまったのです。
自分の父親を佐藤宣行と重ねてしまって、関係が上手くいかなかったそうです。
その父親は法廷の証言の中で、こう述べています。

『時間が…、時間が埋まりません!』

泣きながら、こう叫んだのです…。
娘さんがいる男性には痛いほど気持ちが分かると思います。
日焼けして凄い元気だった9歳の娘が、19歳になり肌が真っ白で痩せ細って帰ってきたのです。
そして男性不振になり、親子関係にも深い傷を残してしまったのです。
時間を返してほしいでしょう。
時間が埋まることはないでしょう。
佐藤宣行を殺してやりたいでしょう。

母親が法廷で証言する時、『今日、被告人に会いに行く』と母親から聞いた被害少女は、こう述べたそうです。

『あんな奴に会いに行くだなんて言わないで、見に行くと言って。あんな奴と同じ空気を吸うってだけでもお母さんが汚れる』

それを聞いた母親は、『大丈夫、裁判所に行った後、ちゃんとお風呂に入って、体をきちんと洗ってから○○(娘さんの名前)に会いにくるから』と言ったそうです。

ちなみに、損害賠償は一銭も支払われていません。
佐藤宣行の母親は土地も家も持ってますが、高齢なので、それを売ったら生きていけないとのことで、賠償しませんでした。

その後、佐藤宣行の母親は認知症になり、老人ホームに入りました。
その結果、賠償したのかは分かりません。
きっとしてないでしょう。
そうすると、佐藤宣行が出所しても、もう誰も彼を構ってあげられる人は存在しないことになります。
自分が刑務所に入っている間、母親を失うことになるのです。
その時、初めて佐藤宣行は気付くのではないでしょうか。
家族から強制的に引き離され、奪われる辛さというものを。




今では被害者も32,3歳ですかね。
元気で幸せに暮らしていることを祈ります。





もっと詳細を知りたい人の為の本↓
新潟少女監禁事件 密室の3364日 (朝日文庫)
14階段ー検証新潟少女9年2ヶ月監禁事件ー
新潟少女九年二ヵ月監禁事件―真相はこれだ!!