以前、ご紹介した日下草加。
大阪・東大阪市日下のことです。
河内国草香邑と孔舎衛坂
読みはどちらも「くさか」。
日本書紀に出てきます。
三月丁卯朔丙子遡流而上径至河内国草香邑青雲白肩之津
夏四月丙申朔甲辰皇師勒兵歩趣竜田而其路狭嶮人不得並行乃還更欲東踰胆駒山而入中洲時長髄彦聞之曰夫天神子等所以来者必将奪我国則尽起属兵徼之於孔舍衛坂与之会戦有流矢中五瀬命肱脛皇師不能進戦天皇憂之乃運神策於沖衿曰今我是日神子孫而向日征虜此逆天道也不若退還示弱礼祭神祇背負日神之威随影圧躡如此則曾不血刃虜必自敗矣僉曰然於是令軍中曰且停勿復進乃引軍還虜亦不敢逼却至草香津植盾而為雄誥此云烏多鶏縻因改号其津曰盾津今云蓼津訛也初孔舍衛之戦有人隠於大樹而得兔難仍指其樹曰恩如母時人因号其地曰母木邑今云飫悶廼奇訛也
三月十日、川をさかのぼって、河内国草香村の青雲の白肩津に着いた。
夏四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことができなかった。そこで引返して、さらに東の方生駒山を越えて内つ国に入ろうとした。そのときに長髄彦がそれを聞き、「天神の子がやってくるわけは、きっとわが国を奪おうとするのだろう」といって、全軍を率いて孔舎衛坂で戦った。流れ矢が当たって五瀬命の肘脛に当たった。天皇の軍は進むことができなかった。天皇はこれを憂えて、はかりごとをめぐらされた。
神武東征のところです。
さて
日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。
日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。
旧唐書 巻199上 東夷伝 日本国の条
です。
関係あると思いませんか。