段の十八 双極性障害の診断に至るまで(その9)  その夏僕は地獄を見た | 双極性波動方程式の探求ー双極性障害と映画と音楽と by アンドレイ

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2000年5月からの、二十代の先生は、僕がおそらく軽躁状態にあるにもかかわらず、僕自身が全くそのことを主訴にしていなかったので、前の診断を引き継ぎ「適応障害」か、別の視点からみられたら「うつ病」の寛解に向かう時期と考えられていらっしゃったようである。よくあることだが、双極性障害2型の躁転は、これといいった極端な違和感を生じない。いつもと少し違う生き方をしていても調子がいいと本人は思っているし、診察室でも多弁や、観念奔走がみられなければ、寛解期になったのだと思われると思う。

しかも僕自身躁うつ病ですといわれてリーマス(=炭酸リチウム)をやりましょうと言われたら少し躊躇したと思うのだ。(病名には驚かない)感性がさえ渡っていたし、新しい論文もある雑誌の穴埋めに一ヶ月で書いていたし、これでいままでのうつ病期のできなかったことを取り返しできるのだと。リーマスの血中濃度が作用と中毒域が狭くて、血中濃度検査がしてもらえるにしても、気温の変動で汗をながしたりすることで血中濃度が上昇し中毒になるということはしばしば聞いていた、しかもそその症状が振戦や嘔吐、多飲水で、さらに自分の感性をそこねてしまうのではないかと恐れていたのである。(嘔吐だけはいやだ!モンクは、最終回に毒を盛られ、病院で検査した後、ドクターに告げられる。「嘔吐して、それから死に至ります」。それで、こう答えた。「できればその順番、逆にできないですか?」)

自分でいいうのも変だが、自分の仕事は多分に世に言う頭の良さではなくて、感性でやってきたところがあった。知的機能がそこなわれなくても感性がなくなったら自分は絶望だ。そうしたら音楽という趣味にも大きな影響が出るんじゃないかと…。詩ももう書けないんじゃないかと…。

前のブログで書いたように、2000年は映画「スペーストラベラーズ」にどっぷりはまり、ウイーン・フィルを大阪まで聴きに行き、そしていつもより元気に、子供たちともうまくチューニングがあって楽しく暮らしていた。いとおしいあの夏の思い出…。

しかし、一般に認識されているように、こういう軽躁状態はせいぜいもって6ヶ月だと思う。11月末にはまたいつもとおなじようにの頭がにぶり、外部に対応しづらくなり、いろいろなことを面白いと思う事ができなくなっていった。あの「スペーストラベラーズ」もすら醒めた気持ちでしか回想できなかった。一応年賀状とか年明けの卒論審査の怒濤の時期はだましだましで乗り切った。

このころは先生は「うつ病の再燃」と考えられていたようである。アモキサンがまた75mgで始められた。年は2001年になり、幸いそれほど重症化せずに3月を迎えた。しかし、このころの感じは何か離人感的で奇妙だった。子供を車で連れ出して遊びに行ったとき、日曜の午後6時にNHK FMで現代音楽の時間というのが当時あって、作曲家池部晋一郎さんが解説をしていたが、ブゾーニのピアノ後奏曲合唱着きという曲の日本初演が行われるということで、その曲の男声合唱が入る部分をながしていた。平野の彼方に陽が沈もうとしている。そこに奇妙な聴いたこともないような男性合唱の響きが自分をつつんだ。これは一種の離人体験だった。(ずっと後で放送されたのと同じ演奏のCDを買って聴いてみたが、あの時の感覚は再現されない。)

年度が空けて4月になると、改組した新しい学科の中で完全に配属も変わった。それまでは、卒論は8単位を講義8単位に変えられるというシステムで、卒業の絶対必要要件でjはなかったから、自分の分野の前の学科での特殊性も相まって、毎年一人か二人をみっちり見てやればよかった。しかし、今度からは卒論必修で、指導教員を学生さんが原則として自分で選んでいいというシステムになったのだ。4月にフタを空けたら12人いる(僕のの学科は、一人の教員あたり平均で3.3人の計算だ。)これには目の前が真っ暗になった。(もちろんもっと大人数の指導があたりまえの私立大学も多くあるということは承知している。)うちではかなり懇切丁寧に指導し、「書かせる」というカルチャーがあって、それを12人にすることは今のままでは不可能に思えた。自分が学生の頃は、本を借りたりいろいろお世話になったとはいえ、論文は自分で書くものというのが当たり前だった。しかし仕事である以上仕方がない。

それに加え、(ある種の陰謀だったと思っているのだが)これまでにない積極的な活動を開始した委員会に配属された。これも、もう自分の力ではどうしていいかわからない孤軍奮闘を強いられた。(またお話ししようと思うが僕は実務的な能力は極めて乏しい。)つまり自分の仕事をめぐる環境が激変したのである。

それでも5月は何とかやっていた。しかし6月が来て、雨の日が続いた中旬の頃、まったく自由に体が動けなくなってきた。仕事も休んだ。昼間も寝ていて、たまに本を手に取ってみた。もちろん専門書はだめだったので、小野不由美さんの『黒祀の島』というミステリの読みかけの続きを読もうとした。前は面白く読んでいたのだが、今回だけはもうたまらない。陰惨な殺人風景を読むのは苦痛以外の何者でもなかった。雨が屋根を打ち付ける音の中でやるかたない状態でうずくまっていた。うつ病相はだいたい冬にやってきたのにこの年は梅雨から始まったのだ。

もうじっとしていてもどうしょうもないと思い、雨の夜、車であてもなく外に出てみることにした。しかし気分はもうどうしようもない。喫茶店でコーヒーを飲んで、惨めな気持ちで帰ってきた。梅雨の晴れ間が来た。寝ていると悪いことばかり考えるので、無理にでも外にでようと思い、かつて訪ねた山間の鉱物を展示している少し変わった博物館に行った。それほど入れ込んでいるわけではないが、石を見るのは好きなのだ。しかしこれも全く面白く感じられなかった。

金曜日の夜に、これ以上はもうどうしようもないと思い、土曜日に受診した。土曜日は輪番の先生で主治医には見てもらえない。アモキサンを75mgから100mgに増やした。しかしいくら他の薬と比べて即効性があるとはいえ、この苦痛から救ってもらうことはできなかった。

週があけて、主治医の診察を飛び入りで受けた。主治医はもう、アモキサンは限界だから、新しい薬、つまりSSRIを使うしかありませんといわれた。僕はそのころSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤、パキシルはその代表格)に漠然とした疑問を持っていた。NHKで放映したアメリカのドキュメントでSSRIのプロザック(=フルオキセチン、日本では未発売)のことをやっていたが、これがかなり、うつ病患者に新しい光をもたらしている一方で、「自分が変わってしまうように思えて」飲むのを中止したという患者の感想もあったのである。僕は、抗うつ剤を使うのがいやではなかったが、新しい薬を、とくにSSRIを使うことに躊躇があった。それでアモキサンでやってきていたと思う。また、認識されていた病相から特に新しい薬を使う場面もなかった。(2001年というのがポイントかもしれない。日本でのSSRIの登場は1999年であり、このころはまだ三環系からSSRIへの移行期だったのだ。)しかし背に腹はかえられない。この苦しみから救ってくれるのならと、SSRIのデプロメール(=フルボキサミン)を飲むことを受け入れた。しかし悪あがきして、アモキサンと併用はできませんかと食い下がったりしたが、「そうすると何が効果があって、何が副作用をもたらしているのかわからなくなるから単剤が原則です」と断られてしまった。(これには今は若干疑問を持っている)ばっさりアモキサン100mgをやめてデプロメール100mg二分服に、それに眠られなかったり焦燥が強い場合に頓服としてレボトミン(=レボメプロマジン、メジャートランキラザーである)を処方された。

帰って、早速、食後デプロメール50mg錠を飲んだ。苦みのあるいやな後味に何か少しむかつくような気持ちがした。しかしである。僕の脳細胞には急に血が巡り始めたのだ。この日の夕方、妻の実家にいくために夜行フェリーを予約していた。フェリーに乗る頃にはかなり前の自分の感覚にもどった感じがした。しかしこれは妙なことである。元来、SSRIも含めて効果が現れるのには少なくとも1週間は必要なはずだ。まあ、効いてくれるなら問題ないとうれしくも思ったが、これには落ちがあった。今度は全く眠られないのである。レボトミンも効かない。前にもらっていたベゲタミンBもだめだ。そればかりではない。心拍数が上がって、胸がどきどきする。妻の実家から帰って早速受診し、その状況を訴えた。先生はは「そんなことはないと思うんですけどねぇ」と言われながら、デプロメールを減薬された。25mg×2 by dayだったように思う。

僕は10年以上前のこの出来事で、そのまだ若かった先生を糾弾しようとは思わない。しかし、素人考えかもしれないが、あれはセロトニン症候群一歩手前ではなかったかと思うのである。アモキサン100mgを一挙にデプロメールに変更したことに問題があるのではないだろうか。(ただアモキサンはノルアドレナリンに対して、セロトニン再取り込み阻害作用はそれほど大きくないはずだが。しかし通常使用量75mgを超えて100mgになっていた。)スタールの『処方ガイド」をみても三環系の中止は緩やかに行うことアモキサンの中止後2週間は他の抗うつ剤の開始には慎重であることが書かれている。おそらく先生は単剤処方の美しさを尊重するあまり、移行期の2剤併用を好まれなかったのだろう。

少ない量のデプロメールでは当然、またテンションが落ちてきた。焦燥感はなくなったが、どっとアパシーが出現した。この夏は一日寝ている日ばかりだった。「ごはんだよ」と呼ばれてしぶしぶ起きて来て、あまり味のわからない食事を取る、もちろん食欲はない。(体重も10キロほど減。)そしてまた寝に戻る。まだ5歳だった長男は、おばけの話を読むのをせがんだから、「たたり」にあってパパが変になったんだと言った。まだ小さな子供の目から見ても異常な事態だったのだろう。

この6月から夏のうつ状態はそれまでに経験したことのない苦しいものだった。逃げ場のない苦しさというのはこういうのをいうのだと思った。妻が言うには外から見ていて廃人のようだったという。今もあも真夏の悪夢をありありと覚えている。自分でも自殺する人の気持ちがよくわかった。でも自殺をしなくて本当に良かったと思う。

このつづきは、次の「双極性障害の診断に至るまで(その10)」でお話ししよう。