いやな感じ 或いは、楳図かずお新居問題 | もずくスープね

いやな感じ 或いは、楳図かずお新居問題

吉祥寺に建築中の楳図かずおの新居に対し、「紅白ストライプ模様の建物が、高級住宅街の景観を損ねる」として近隣住民が建築工事差し止めを東京地裁に申し立てている件は、すでに皆さんもご存知のことであろう。2chによると、猛反対している近隣住民というのはたった2名だけなのだそうだが、そのうちの1人と思われる老婦人が、テレビの取材に対して「これは色彩の暴力であり形の暴力。生活を破壊し、精神を破壊するもの」と大袈裟に話しているのは、私も確認した。

また、建物の一角に、まことちゃん(というより、実は、マッチョメマンなのだが)の目をイメージした丸窓が設置される計画に対して、「あの丸窓から、毎日あの方の顔が見えるのは、耐えられません」と老婦人は別のテレビ局の取材で話していたらしい。よほどの、楳図かずお嫌いと見受けられる。

なお、楳図かずおは既に長野県にも同様の別荘を建てているが、テレビ取材によると、そちらのほうの近隣住民は、別荘に対して誰も異を唱えていないし、むしろ「けっこうではないか」とまで述べている。私もテレビで見て、どうして景観を破壊するほどの建物であるものか、と思った。

かくいう私は、その昔、マッチョメマンやまこと虫のグッズを少年サンデーの懸賞で当てて喜んだり、楳図かずおライブに足を運び「エム、エイ、ケイ、オー、ティー、オー、まことちゃん!」などと一緒に盛り上がっていたほどの、わりかしポジティヴな楳図ファンであり、「吉祥寺が駄目なら、ぜひうちの近所に引っ越してきて欲しい」とまで願う者であるから、とてもニュートラルな立場で物を言える立場にはないことは重々承知ではある…が…そのことを差し引いて考えても、吉祥寺の“近隣住民”のエゴの暴走ぶりというか、暴力的なまでの非寛容には、なんとも“いやな感じ”(by高見順)がするのである。加藤紘一代議士が実家を放火で燃やされた時に漏らした感想「とてもいやな気がしました」にも通じる、その、まさに、いや~な感じが。

その“いやな感じ”の源泉とは、表現とか創作とか思想に対して、強硬手段で弾圧を加えようとする非寛容さね。あるいは、そうした非寛容な動きに同調したり、深く物を考えぬまま妥協したり屈してしまう安易な人々が、この世の中に少なからずいるという事実ね。けっこう、私の身の回りにも、そういうこと、よくある。ま、現実的には「とかく人生しち面倒くさい」もんだからって、自分に直接的に害毒が降り注ぐこと以外の物事になんざいちいち深く係わっていられないっちゅーもんだろうけど。自分とて概ねそうだし…。しかし、そういう風潮が、ますます非寛容という名のエゴをのさばらせるってことを、反省的に常に意識しておきたいものです。

ときに、そんな騒動の起こっている吉祥寺市のお隣なり、三鷹市に一昨年作られた「三鷹天命反転住宅」に、先日行ってまいりました。2005年10月に完成したこの“分譲マンション”は、現代美術の大家・荒川修作とマドリン・ギンズが、「身体の知覚を呼び覚ます」ことを目指してデザインした、奇抜きわまる前衛建築です。
http://www.architectural-body.com/ja/  参照)。
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その一室で7/25~8/5「モーフィング展」なる服飾美術の展示会が開催され、その関連企画としてダンス公演が行われるということを「REALTOKYO」での乗越たかお氏の文章で知ったのだった。「これは天命反転住宅を味わうには最良のチャンスだ」と考え、慌てて駆けつけたという次第。私が行った日には、JOUさんというダンサーが、起伏が激しく一筋縄ではゆかない室内空間をフルに使って「ボレロ」を踊ってました。
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それにしても、原色に塗られた円筒形や球体や立方体が積み重ねられた外観は、並外れたインパクト。件の楳図かずお邸など、これに比べれば全然おとなしい。もし、これが吉祥寺の高級住宅街とやらに建てられようものなら、楳図かずおを訴えた老婦人などは卒倒しかねないね。しかも、作り手が天下無双の前衛芸術家・荒川修作っつーことで、粗雑な既成常識なんかで「景観を壊す」などと攻撃したら、それに対する理屈の反撃も怖そう…。

私は、岐阜県養老郡にある「養老天命反転地」という、これまた、荒川修作+マドリン・ギンズによって作られた公園に、行ったこともあります。不意をつく非予定調和的な刺戟に満ち溢れたアヴァンギャルド空間は、実際に怪我人を続出させながらも、生きることを前向きに考えさせてくるエネルギーが与えられると、非常に評判がよろしい。このスリリングでユーモラスな遊戯空間の成果を、居住空間として凝縮させたように見えるのが、「三鷹天命反転住宅」の室内空間なのです。室内があちこちデコボコだったり、球体ルームでは足をすべらせて頭を打ちそうだったり、トイレにドアが無かったり、などなど合理に反した室内設計なのだが、だからこそ「老人もボケない」ということだ。
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私は、そういう環境思想を大いに支持する。現実の空間・環境・建築においても、常にある種の違和感、ある種のノイズが、非寛容で暴力的な「平板化」=「管理強化」に抗っている状態が望ましいと思っている。もともと、ガウディーだとか、郵便配達夫フェルディナン・シュヴァルが築いた「理想宮」だとか、日本の幻想建築家・梵寿鋼(http://www.vonjourcaux.org/ )なんかも大好きな私であればこそ、そうした考えが脳内に根付いていることは至極当然なのであるが、なんといっても、その原点というか原風景にあるのは、こども時代に読んだ『天才バカボン』で、パパの作ったヘンテコな家である。皆さんも読んだことがあるであろう、近代的合理性とは真逆の、狂気の建築。そういえばホラー漫画家・伊藤潤二(楳図かずお賞受賞作家!)に『四十壁の部屋』(恐怖の双一シリーズ)という傑作もありまして、互須さんという謎の大工による恐怖の(狂気じみた)リフォームぶりも、痛快無比でした。もちろん、こうしたものを100%現実化してくれ、とまでは言わない。

ただ、そんな、幼心を甦らせるような、ちょっとした逸脱的建築物が時おり現実の生活空間に闖入してくることの楽しみを、強硬に拒絶する非寛容な官僚主義的社会へと世の中が進んでしまうのだとしたら、人々はどんどん生気を失い、ある者はボケてゆき、ある者はキレるという、殺伐とした時代になってゆくしかないような気がする。そんな時代の街並みは、それこそ景観としてどうなのか。息苦しく、ときめきのない、退屈な「美しさ」に支配されるだけなのではないか。