太田光代『太田光代流 売れっ子“爆笑問題”のつくりかた』
2005-12-16
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―― 今日は太田光さんの妻というより、芸能プロダクション「タイタン」社長としてのお話をうかがいたいと思います。 はい。何でも聞いてください。 ―― そもそも「タイタン」を作られたきっかけは何だったのですか? 爆笑問題は、私もタレントとして所属していた大手の事務所に以前はいたんです。でもそこを辞めてしまったんですよ。彼らは、自分たちがやりたいことを最初からやりたかったんですね。そこで「自分たちでやったほうが、楽にできるんじゃないか」と思ってしまった。もう、大きな勘違いです。 彼らは25歳くらいでちょっと注目を浴び始めた頃だったんですけど、何ができるというわけではない。私はすでに太田と付き合っていましたけど、「自分たちがやりたいことって何なんなの?」って聞いてもハッキリした答えが返ってこないんです。 ―― やりたいことがあったわけではなかったんですか? 「やりたくないこと」はいくらでもあるわけですよ。だけど、やりたいことのビジョンがない。なので、「当面苦労しないとダメだろう」と思って、しばらくほっといたんです。田中がコンビニで働いて、私がパチスロで稼いで、太田は家でファミコンやっている、みたいな時期がありました。でも、さすがに本人たちも身に沁みたところがあったんでしょう。仕事が減っていくばかりなので、ちゃんとしようと。 ―― そこで会社を作られることになったのですね。 まず、不義理をして辞めた状態だった前の事務所ときちんと話し合いをしました。それだけは、最低限の礼儀としてやっておかなくてはいけないと思いましたから。そこで許していただいて、「タイタン」を作ったんです。彼らはタレントで、他には誰もいませんから、私が社長兼マネージャーをやることになったんですけど、どうしたらいいのかわからない。「有限会社と株式会社の違い」とか「決済の方法」とか、そういうことが書いてある本を10数冊走り読みしましたね。 ―― マネージャーの仕事についてはご存じでしたか? 私もタレントだったのでタレントから見える部分はわかるんです。だけど、タレントから離れたところで何をしているかはまったくわかりませんでした。最初のうちは「マネージャーは何をするんだろう」という発想より「私は彼らに対して何ができるんだろう」という考えでやっていましたね。なので、よその方法論とはかなりズレていたところがあったと思います。私もずうずうしいほうなので、壁にぶつかったら前の大手事務所に相談させていただいたりして、なんとか助けてもらいながらやっていた感じです。 ―― 会社を立ち上げてから、爆笑問題の仕事は順調に増えていったんですか? いや、この頃はそうでもないですね。結局、私たちにはブレーンが決定的に足りなかったんです。いろんな人を紹介してもらってはいたんですけど、そうやってお会いしても限界があるんですよ。そこで私が考えたのが「単独ライブ」です。 単独ライブをやるとなると、案内状にきちんとした資料を添えて、知らない人にも送れるんですよ。案内を見て興味を持っていただければ、ご自身ではいらっしゃらなくても、上のほうの方が誰か行かせるでしょう、と。人を介して会っていくよりは、そうして人脈を作ったほうがはるかに効率がいい。でも、本人たちはかなりグズりましたね。 ―― なぜ乗り気ではなかったんですか? 単独ライブですから、最低でも1時間半から2時間やらなくちゃいけない。漫才を1時間半やるというのは、大変なことなんです。しかも私は7月にやったあとで翌年1月、もう1回やろうとしていた。さらに嫌がるわけですよ。「そんなの無理だ」と。 でも、これには私なりの計算があったんです。4月から始まるテレビの新番組って、下っ端の若手の出演者はだいたい1月頃に決まるんですよ。7月にやって「非常によかった」という方がいた場合、1月にもう1回やれば、おそらく現場で出演交渉権をもっている方を連れて来るだろうと。そうすると、そこですぐに出演が決まりますから、さらに効率がいいわけです。最後には「やれっつったらやるんだよ!」みたいに言って、彼らにやらせました。 ―― 結果はどうだったのでしょうか? 考えていたことが、ピタッとハマったんですよ。1回目でかなり手応えがあったんです。12月くらいに2回目の案内状を出したんですけど、若手の枠を空けておいてくれた感じで。2回目には上司を連れて見に来てくれて、4月からのレギュラーが取れました。 この2本のライブは、会社にとって大きかったですね。ものすごくよかった。彼らに信用してもらうきっかけにもなりましたし、何千通とワープロで案内状の住所を打ち込んだ甲斐がありました。あの作業はすごく地味だった(笑)。 ―― それからはいろいろ声がかかるようになったんですか? まだですね。ボキャブラブームが来てからです。爆笑問題は、社会的な時事ネタをやるところが特徴のひとつですよね。いろいろ声をかけていただくようになって「今度爆笑問題で何かやりましょう」というとき、時事ネタでバラエティというのがなかなか結びつかないんです。いいアイデアがなかなかなくて、制作の方は今まであったものにどうしてもはめていこうとする。でも「これはあの人がやっていたやつだなあ」とわかってしまうんです。 中途半端に流されていっちゃうのは怖い。でも、最初は私から頼んでいますから、なかなかお断りもできない。お付き合いのバランスを考えるのは難しかったですね。 ―― その後、爆笑問題は押しも押されもしない人気タレントになりましたが、売り出されるのに意識されたことは何ですか? 社会的なものをネタにするというのは、よっぽど力がないとやっていけない部分があるんです。社会的なニュースはすぐ新しいものに変わるので、ひとつネタを作ってそれをしばらくやっていくというわけにはいかない。ネタを作ってやっては捨て、やっては捨てなので、かなり本人たちの力が要求される。その中でどうやって効率的にやっていくかというのがまずひとつ。すり減っちゃいけませんからね。 あとは、ボケ方の意外性みたいなところでの差別化です。そこが爆笑問題の持ち味、最大の個性だと思いますから、前に見せるように努力しました。 ―― 現在は長井秀和さんなど所属タレントも増え、社長としての役割が大きくなってきたのでは? そうですね。私は社長になるなんて微塵も考えたことがなかった人間ですけど、でも実際にやってみて「私、こういうの好きだな」と気付かされました。もともと物を売るのは好きで、昔酒屋でバイトやっていた時に試飲会でワインをすごく売ったりしたことがあったんです。どうやったら相手に良さがわかってもらえるかを自分なりに探って、勉強して伝える。そういうのが好きだったんですね。それと経営の面白さは似ていて、いいところをわかってもらって買ってもらうという点では、タレントを売るのも同じなんです。 ―― 数字を見るのも苦にならないですか? 意外と楽しいですよ。「タイタンライブ」という事務所のライブを定期的にやっているんですけど、これは基本的には儲からないものなんです。1回でも儲からないのに、回数重ねたらもっと赤字が出る。ライブだけ見るとそうなんですけど、長い目で見ると「ここで誰と誰が見に来てくれて、それがこの仕事につながって、最終的にマイナスだったのがプラスに転換した」という流れがわかるんですね。次につながる流れも見えてくる。そういうのが面白いんです。 もちろんライブは若手発掘の意味もあって、長井も「タイタンライブ」から出てきたんですけど、タレントを増やして事務所をもっともっと大きくしたいとはあまり思っていません。私は自分が好きなものじゃないと「いいですよ」って言えない性格なんです。自分が「面白い」と思えるタレントがいれば、という感じですね。 ―― 今後やってみたいことは何ですか? 最終的には太田は映画を作りたいんです。「映画をやるのは一番の目標だったんだから、そこはきちんと進めているんでしょうね」とハッパをかけてます。いろいろ弁解してましたけど、今脚本を進めているようです。 映画は太田の夢ですけど、私は子どもの時から「レストランシアターを作りたい」と思っていて。大人が主体で、ちゃんとした食事が取れて、お笑いが見られるところですね。あと、現代社会はストレスをかかえていて今も鬱が蔓延しているでしょう。でも、日本には心療内科がほとんどない。全国でも200カ所くらいなんですよ。2003年にハーブ・アロマの専門店を開店したのも精神的なケアのことを考えてのことなんですけど、ハーブを取り入れた診療内科を作りたいなと思っているんです。 |