岡田嘉子さんのまばたき  涙 三十四年 | 俺の命はウルトラ・アイ

岡田嘉子さんのまばたき  涙 三十四年

 皆様、こんばんは。


 本日は女優岡田嘉子(1902ー1992)さんの

ご生涯を尋ねたいと思います。激動の20世紀

において、厳しい道程を選び、果敢に歩まれた

巨星の方です。



 岡田さんは、1902年(明治35年)4月21日、広

島に誕生されました。少女時代から知的な美貌

で評判だったそうです。新聞記者の父上の関わ

りで劇作家中村吉蔵氏の内弟子を経て、数多く

の舞台に出演されます。


 その後映画にも出演され、トップスターの地位を

確立されます。


 1931年(昭和6年)日中戦争が始まり、日本国内

においても軍国主義が広がり、戦争協力しない者

は非国民と罵られる時代となりました。「天皇陛下

の為に死ぬ」ことが国民にとって最も大事な義務と

して強調されていた時代でした。

 当時岡田さんは、共産主義者の演出家杉本良

吉(本名吉田好正)氏と愛し合っていました。


 岡田さんは、1972年11月6日放映のNHK『海外特

派員報告 旅路 岡田嘉子の帰国』において、当時

のことを次のように回顧されています。


 岡田さん

 「もう舞台なんかでも幕が終わって、『どこそこが

が勝った、万歳!』と言わされるような。なんか、押

し詰まった気分でしたね。あの当時の段々迫って来

るファッショ的な気分に耐えられなくなってしまった

んですね。」

 (NHK『海外特派員報告 旅路 岡田嘉子の帰国』)

ウルトラアイは我が命-藤野秀夫 岡田嘉子2


 1937年12月1日公開の松竹製作『忠臣蔵』(監督

衣笠貞之助)では、上杉家の家老千坂兵部(藤野

秀夫氏)の間者おるいを勤められました。岡田さん

のるいと田中絹代さんの八重の姉妹が、吉田沢右

衛門(長谷川一夫氏)に共に惹かれ、姉は妹の為

に身を引くという切ないドラマが描かれます。

 姉妹が吉良・浅野に引き裂かれつつ姉妹愛の絆

でしっかり結びついていることを、嘉子さん・絹代さ

んが篤く表現して下さいました。

 本作の完全版は現存していませんが、125分の

短縮版が残っていて、2002年11月16日、京都文化

博物館においてこの総集編を見ました。短縮され、

音声も不調ですが、素晴らしい傑作です。岡田さん

のはかない美しさに涙腺を刺激されます。


 昭和12年、軍国主義に辛さを感じた岡田さんは、

恋人杉本さんに「ソビエトに行きたいわね」と提案

され、杉本さんも同意されます。


  岡田さん

  「ソビエトに行けば憧れのスタニラフスキーの

  理論も勉強できるし、とにかく演劇ってものを

  最初から勉強したいという気持ちがあったん

  ですね。」

   (NHK『海外特派員報告 

       旅路 岡田嘉子の帰国』)


 同年の年末の12月27日、岡田さんと杉本さんは、

上野駅を出発し、愛の越境を開始します。1938年

(昭和13年)1月1日国境警備隊を慰問と称して日

ソの国境に向かい、3日雪車でソビエト連邦に入国

します。決死の雪の越境は、日本においても衝撃

のニュースとして伝えられます。

 

 けれども当時ソ連では大粛清の嵐が吹き荒れ

ていました。当局は二人にスパイの疑いをかけ、引

き離して別々の独房に入れました。

 共産主義を愛していた杉本さんは、1939年10月20

日、ソ連当局によって銃殺され、岡田さんには、杉本

さんの死は「病死」と伝えられました。


 岡田さんは強制収容所に入れられ、大変な苦労を

されたようですが、ご生前はそのことも語られません

でした。戦後モスクワ放送局でアナウンサーを勤めら

れます。岡田さんが日本で女優をされていた頃、俳優

として共演もされた滝口新太郎氏がソ連で暮らしてい

ました。滝口さんは、戦時中徴兵され、満州に駐留して

いましたが、昭和20年の敗戦以後ソビエトに捕虜として

捕らえられ、そのままソ連でアナウンサーとして暮らし、

岡田さんがモスクワで暮らしていることを知り、モスクワ

に転勤を許可され、二人は結婚されました。 


 岡田さんはソビエトに来た頃、ロシア語をほとんど

御存知なかったそうです。図書館で本を借りてきて、

シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の絵を御覧

になりました。



  岡田さん「『ロミオジュリエット』のバルコンの場なん

         て若い頃叩き込まれたから台詞全部暗

         唱してる。ロシア語の活字と照らし合わせ

         て本を見ながら台詞を思い出していくと

         わかっていくんですよ」

   (NHK『海外特派員報告 

       旅路 岡田嘉子の帰国』)




 お若い頃、鍛錬を受けて暗記されていた『ロミオとジュ

リエット』の台詞の記憶を基にロシア語と照応させて学習

される。厳しい独習であったと思います。


 岡田さんは53歳でルナチャルスキー演劇大学に入学

され、演劇を研究され、亡き恋人杉本氏の意志を引き継ぐ

形で、卒業公演としての『女の一生』の演出を命がけの

決意でなされ、絶賛されます。

 1971年夫滝口新太郎氏が死去されます。

 翌1972年(昭和47年)、34年間離れていた故国日本へ

の望郷の気持ちを抱かれた岡田さんは帰国を願います

が、日ソ両国の関係者の尽力で11月の帰国が許可され

ます。


ウルトラアイは我が命-岡田嘉子


 (画像出典 NHK『海外特派員報告 

         旅路 岡田嘉子の帰国』

         『NHKアーカイブス』再放送版より)



 同年11月6日NHK『海外特派員報告 旅路 岡田嘉子

の帰国』が放映され、13日岡田さんは夫滝口氏のご遺骨

を抱いて日本に帰国されます。34年ぶりに故国の土をふ

まれ、涙を流されました。

 出迎えには宇野重吉さんがかけつけられました。歓迎

パーティーでは、嘉子さんのるいの妹八重を勤めた田中

絹代さんも来られて、『忠臣蔵』の姉妹は戦後の再会・握

手を為され、絆を確かめ合われたのです。

 1986年まで日本で暮らされますが、日ソの架け橋として

活躍されます。


 岡田さんは、1977年10月29日放映『土曜ワイド劇場 涙

じっと見つめる目』に主演されます。恐らく岡田さんの民放

ドラマ初出演作品と思われます。実は私セブンは、このド

ラマを本放送で見て、決定的な衝撃を受けました。感動と

か感激というよりも、岡田さんのお姿に圧倒されたのです。


 このドラマの原作は、ウィリアム・アイリッシュ(コーネル・

ウールリッジ)氏の短編『じっと見ている目』原題The Case

of the Talking Eyesです。アイリッシュさんがこの短編

を書いたのは、岡田さんがロシアに渡られて一年経った

1939年9月のことでした。ミステリードラマです。



 60歳の女性ミセス・ジャネット・ミラーは体が麻痺して話す

ことと書くことと動くことが出来ません。視力と聴力はしっか

りしていて、まばたきの回数で愛息ヴァーノンに意志を伝え

ます。

 一度のまばたきがノーで、二度はイエス。

 ある日ジャネットは、ヴァーノンの妻ヴェラとその愛人ジ

ミー・ハガードが、ヴァーノンをガス事故に見せかけて殺害

し、遺産と保険金を奪おうとしていることを知ります。何とか

愛する息子を守ろうとするジャネットですが、嫁ヴェラと愛

人ジミー・ハガードの恐るべき魔の手は、着々と進んで行

くのでした・・・。

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  痛ましい惨劇を経て絶望のどん底にいる老婦人の

 前に一人の若者が現れます。

  この小説の翻案版『土曜ワイド劇場 涙』は中平康

 さんが監督されました。

  岡田さんが勤められたのは、ヒロインジャネットの役

 です。

 貫録・風格というよりも画面におられる一瞬一瞬が重

厚でした。声や文字は表現出来ないが、まばたきのみ

で意志をはっきりと語る老婦人。サイレント映画で鍛え

抜かれた演技術が鮮やかにこの役を表現されました。

モノローグのシーンはあったようにも記憶していますが、

大部分は目と表情の演技でした。音や文字にならずと

も、「こころ」は語られる。

 愛する息子に危機を伝えようとして伝えられないもど

かしさと無念さが、しみじみと伝わってきました。

 

 悪女ヴェラの役を桃井かおりさん、愛人ジミーの役を

谷隼人さんが担当されました。お二人の冷血漢に演技

も迫真で本当に怖かったです。

 犠牲になる息子ヴァーノンに当たる役は村野武範さ

んが勤めておられました。

 若者ケイスメントに当たる青年の役は小野寺昭さん

でした。

  岡田さんと小野寺さんのふれ合いのシーンは、思

 い出す度に、胸がつまります。これほど暖かい「愛」

 の表現は、他に見たことがないです。

 

 34年前の本放送でこのドラマを見て衝撃を受けま

 したが、再見の機会がなかなかありません。『土曜

 ワイド劇場』史上最大の傑作であると思います。

  是非岡田先生主演のこの傑作ドラマをDVD化して

 欲しいです。

 1986(昭和61年)、岡田さんはロシアに帰られます。

 

 「日本にいるとソ連が恋しくて、

  ソ連にいると日本が恋しくなる。

  どちらにいても幸せなんです」

 と語っておられたそうです。

  1992年2月10日、岡田嘉子さんは、ロシアで死去さ

 れました。89歳。


ウルトラアイは我が命-岡田さんの訃報

 (『演劇界』1992年 3月号)


 岡田さんが日本を出国され越境してロシアに

入られたのが1938年。涙の帰国を果たされた

のが1972年。その34年間の御苦労は想像を

絶するものであったと思います。


 私事になりますが、小学四年生の時期に『涙

 じっと見ている目』を拝見し、岡田先生の至芸

に衝撃を受けてから本年でちょうど34年になり

ます。岡田さんを拝見してからの34年を通して、

先生が過ごされた34年のロシアの日々を想像

しました。

 

 日本の軍国主義とアジア侵略に悲しみ、ソ連

に恋人を殺害され、ご自身も受難の暮らしを強制

された。それでも日露両国を愛し抜かれて、両国

の架け橋として歩まれました。


 岡田嘉子先生は受難にあっても押し潰されず、

演劇・演技への情熱も燃やされ続けた。先生の

生涯を貫くものは大いなる愛の精神であったこと

を思います。


 『涙』のラスト・シーンを思って


                     2011年2月10日



                           合掌



                     南無阿弥陀仏




                          セブン