重なり合う「時」 | 俺の命はウルトラ・アイ

重なり合う「時」

   ファストルフ   どこへだと?命が惜しいから逃げるんだ。

             我が軍は負けそうだからな。



   隊長      なに、逃げる?トールボット卿を見捨てるのか?



   ファストルフ そうとも、

           世界中にトールボットが何人いようが、肝心

           なのは俺の命だ!(退場)



   隊長    臆病な騎士め!どうせいい目は見ないぞ!(退場)


 -中略-


  ベッドフォード  さあ、我が魂、天のみ心なままに安らかに

            世を去れ、

            敵の敗北は見届けたからな。

            愚かな人間の信頼や強さが何だというのだ?

            つい先ほどまで意気揚々とあざけりの言葉を

            吐いていた連中が、

            逃げ延びて命拾いしたことを喜んでいる。


  


( 『ヘンリー六世 第一部』「第三幕 第二場」

 松岡和子訳 ちくま文庫版104→105頁

                 中略引用者)



 15世紀、イギリスとフランスがぶつかったパテーの

戦い。英軍の勇将トールボットと仏軍の乙女ジャンヌ・

ダルクが、激闘を展開する。



 英軍の騎士ジョン・ファストルフSir John Fastolf

(1378頃~1459)は自軍が不利と見るや、命を惜しみ、保

身に走って、味方を見捨てて逃げ出していく。



 英国王ヘンリー六世の叔父で老貴族ベッドフォード公爵ジョ

ン(1389~1435)は、ファストルフの気の弱さを悲しみつつ、人

間の信頼や強さが、いざという時になれば、いかに脆くくずれて

いくものであるかを噛みしめながら死んでいく。



   「愚かな人間の信頼や強さが何だというのだ?」


重い言葉だ。


 確かに、サー・ジョン・ファストルフは卑怯者だけれども、正直

な生き方をしている、とも言えるのではなかろうか?


 「肝心なのは俺の命だ」、自分の身に危機が迫った際に、こ

の言葉を完全に否定することは私達に成り立つだろうか?



 サー・ジョン・ファストルフは、諸本によっては、サー・ジョン・フォ

ルスタッフ(Sir John Falstaffe)と表記されている。


 後に、『ヘンリー四世 第一部』『ヘンリー四世 第二部』『ウィンザー

の陽気な女房たち』において、愛嬌豊かで人間臭い巨躯の老人の

サー・ジョン・フォルスタッフとは、勿論別人である。


 別人ではあるものの、『ヘンリー六世 第一部』で、ジョン・ファストル

フがベッドフォード公を見捨てて逃げつつ、「大切な俺の命だ」と本音

を剥き出しにする場は、後の『ヘンリー四世』におけるジョン・フォルス

タッフの描写の基盤となったのではなかろうか?



 シェイクスピアは時代としては後に当たる薔薇戦争を題材とする

『ヘンリー六世』三部作『リチャード三世』の「第一・四部作」を先に

執筆し、後に、「第一・四部作」の前編とも言うべき、『リチャード二世

』、『ヘンリー四世 第一部』『ヘンリー四世 第二部』『ヘンリー五世』

の「第二・四部作」の四本を執筆している。


  『ヘンリー四世 第一部』において、シュールズべりの戦い(1403)

で、ジョン・フォルスタッフは悪友・親友・遊び仲間である皇太子ヘンリ

ー・モンマス(ハル王子)に従軍する。


 ハルの父ヘンリー四世の影武者となって、敵将ダグラスに斬殺され

たサー・ウォルター・ブラントの死体を見た、フォルスタッフは名誉の

戦死で命を無くすことに、恐怖感を隠せない。


 

  フォルスタッフ  ロンドンじゃ飲み逃げって手で勘定をのがれる

             こともできたが、ここではそうはいかん、鉄砲の

             弾丸には感情がないからな。

             いきなりいのちで勘定を払わされる。

             待て!だれだ、おまえは?サー・ウォルター・ブラント

             じゃないか、これが名誉ってもんだ。 

             見得なんかであるもんか!とは言うもののおれの

             からだはなんだか溶けた鉛みたいに重くなってきた。

             どうかこのからだに鉛の弾丸が飛びこんできません

             ように!



 (『ヘンリー四世 第一部』

 小田島雄志訳 1978年 『シェイクスピア全集Ⅴ』82頁 白水社)



 『ヘンリー六世』では勇敢な老将として登場するベッドフォード公ジョ

ン(1389~1435)は、『ヘンリー四世 第二部』では冷酷な貴族ランカスター

公ジョンとして登場する。


 ジョンは父ヘンリー四世に反旗を翻した敵将達と一旦偽りの和平交渉

をして、敵将らが兵士を解散するや、直ちに捕らえて死刑を宣告する。


 秋霜烈日の厳しさを以て、騙し討ちに近い手法で、敵を倒して行く。


 ジョンは、フォルスタッフにも厳しい。ひょっとすると、兄ヘンリーが

フォルスタッフと放蕩に明け暮れていることへの不満もあるのかもし

れない。



  ランカスター(ジョン)  おい、フォルスタッフ、いままでどこをうろついて

                 いた?

                 すべてが終わったとなるとのこのこ顔を出す男

                 だな。

                 そのような怠け癖を改めぬと、いずれおまえは

                 絞首台行きだぞ、台のほうでこわれるかもしれ

                 ぬがな。


  (『ヘンリー四世 第二部』「第四幕第三場」

 小田島雄志訳 1978年 『シェイクスピア全集Ⅴ』154頁 白水社)




 きつい叱声を喰らったフォルスタッフは、内心において、ランカスター公の

敵意を感じ取る。



  フォルスタッフ     どうもあのきまじめな青二才はおれをきらっている

                ようだ。だいたい笑うってことがない小僧だよ、それ

                も不思議じゃあないがな、

                酒の味を知らないんだから。


 (『ヘンリー四世 第二部』「第四幕第三場」

 小田島雄志訳 1978年 『シェイクスピア全集Ⅴ』155頁 白水社)

  


 『ヘンリー六世』「第一部」における命を惜しむファトルフと彼を嘆くベッドフ

ォード公ジョンという人間関係は、『ヘンリー四世』二部作で、「名誉の戦死

をしても命を失ったら何にもならん」と恐れるフォルスタッフと彼を軽蔑する

ランカスター公ジョンの対立の関わりと、呼応していると言えるのではなか

ろうか?



 『ヘンリー六世』の描写を基盤にして、『ヘンリー四世』の対立構図が描か

れた、とも思われる。

 「第一・四部作」と「第二・四部作」は、繊細に関わりを保っている。



 『ヘンリー五世』では、説明役(コーラス、現在のナレーターと似た存在)

が、登場する。「エピローグ」の説明役は、作者シェイクスピアの分身、と言

ってもいい。

 説明役は、ヘンリー五世・六世の父子の生涯をまとめる言葉を語るが、こ

こで、作者シェイクスピアは珍しく劇の中で、自作を回顧している。



  説明役      わずかな時でしたが、そのわずかな時に、

            イギリスの星ヘンリー五世は、まばゆいばかりに

             光を放ちました、

            運命が鍛えた剣をもって世界一美しい庭フランスを

            手に入れその世界の冠たる支配権を

            彼の息子に残しました。

            息子ヘンリー六世は、幼くして父王のあとを継ぎ、

            フランス、イギリス両国の王となりました。

            だが、彼をとりまく多くのものが政権を争うことになり、

            ついにフランスを失い、イギリスにも血が流れました。

            そのいきさつはすでに

            この舞台でご覧にいれております。

            この芝居も前作同様、

            ご愛顧たまわるよう祈っております。

                                           (退場)


  (『ヘンリー五世』「エピローグ」

 小田島雄志訳 1978年 『シェイクスピア全集Ⅴ』348頁 白水社)

  


 

 この言葉によって、新作『ヘンリー五世』と旧作『ヘンリー六世』三部作

は、合わせ鏡のように照らし合い、ピッタリと照応し合う。

 そして、「第一・四部作」と「第二・四部作」も、一つのサーガにまとめられていく。



 しかし、この説明役の切なさのこもった挨拶が、重く響き、八本の戯曲を、


『リチャード二世』

   ↓

『ヘンリー四世 第一部』

   ↓

『ヘンリー四世 第二部』

   ↓

『ヘンリー五世』

    ↓

『ヘンリー六世 第一部』

   ↓

『ヘンリー六世 第二部』

   ↓

『ヘンリー六世 第三部』

   ↓

『リチャード三世』


 という風に、編年体形式に整然と編集されることを拒絶している

ようにさえ感じられる。


  薔薇戦争の血みどろの戦いを描いた、「第一・四部作」という

「後の物語」が先に描かれ、それを受けて、リチャード二世の王権

失墜、ヘンリー四世の簒奪とその罪への苦悩、ヘンリー五世の活

躍という「第二・四部作」の「前の物語」が後に描かれ、説明役の挨

拶の中で、これら二つの四部作が重なり合う。



 シェイクスピアを愛する映画監督フランシス・フォード・コッポラ

は、1974年の映画『ゴッドファーザー PART Ⅱ』において、息子

と父の物語を交錯・交流させながら描いたが、その形式は、シェイ

クスピアが『ヘンリー五世』「エピローグ」で、ヘンリー五世・六世父

子の四つの戯曲を、見事にまとめあげた言葉にも、影響を受けた

のではなかろうか?



  演劇や映画における、「時」の表現は重要である。


 この時の流れを、シェイクスピアとコッポラは見事に捉えてくれた。