叙述と描写 | 書籍編集者の裏ブログ

叙述と描写


叙述は、つらつらと説明してしまうこと。テレビドラマや映画でいえば、ナレーションの部分。この叙述ができていない小説が新人には多い。さっさと叙述で済ませてしまった方がよいところは、説明してしまった方がよい。その方が、読者を物語空間に拉致しやすくなる。しかし、「ここぞ」というところを叙述で書き飛ばしてしまうと、味のない小説になってしまう。その加減はとても大切。
ベテラン作家でも新聞連載などは、どうしても叙述が少なくなって、アンバランスな展開になってしまうことがある。
時折、叙述だらけの短篇もあったりする。そうしたものは、小説というより、「○○譚」といった趣のものになる。しかし、立派な文体があれば、それはそれで成立したりもする。

描写は、ボクシングでいえば、足を止めての打ち合いである。野球のニュースで、映像が流れるところである。そのシーンに繋ぐようにしゃべるアナウンサーの言葉は、叙述である。この描写の力が読者を作品世界に取り込む力に大きく寄与する。冒頭で作品世界の俯瞰図を示すことがあるが、あれなどはまさに描写である。会話文はすべて描写の中で行われると考えていい。つまり、描写が命なのだ。

しかし、何でもないものを懸命に描写してしまうのが、素人作家共通の悪癖である。

朝起きて目覚めたシーン、
煙草を吸うシーン、
主人公が街を歩いているシーン、
駅で電車を待っているシーン、
待ち合わせ場所で彼氏が来るのを待っているシーン、
主人公の意味のないモノローグ、
……

いずれもが99%、物語の本筋に関係のないシーンである。そこを描写する意味はない。テレビ業界でいえば、「貴重な公共の電波を使って、何の公共性もない一個人の日常を映してられるか」ということになる。

 健一は、後ろに並んだ大学生風のカップルの甘い会話に耳を欹てながら、ポケットから小銭を取り出し、自動券売機で、八王子までの切符を買った。切符が出てくると、後ろの男女のことは急に意識からなくなり、改札口へ移動した。自動改札を抜けると、右手のキヨスクの夕刊紙の見出しに軽く目をやりながら、ホームへと降りていくエスカレータまで、急ぎ足で歩いた。

というような文章は無駄なのだ。いきなり、

 八王子駅に降り立った健一に、今回の事件の依頼者である高橋氏が気弱そうな目を中空に彷徨わせながら歩み寄ってきた。

で、いいのだ。

大切なところをしっかり描写し、そうでないところは、かっちりと叙述で運ぶ。この緩急の呼吸は、非常に大切である。実際、小説を読むときに、意識して読んでみると、いい小説は、やはり、この呼吸がよいことがよくわかるはずだ。