才能がこない | 書籍編集者の裏ブログ

才能がこない

スルツキーです。


先輩編集者A氏がと飲んでいたら、いつものぼやきが始まりました。
要約するとこうです。

純文学の作家について真剣に考えていかねばならない。
一部の売れっ子を除いた、大半の純文学作家の年収を考えたい。
年間400枚が文芸誌に掲載される人だとして、原稿料で200万前後。
それが単行本になって、5000部、1600円で、印税80万。
エッセイや対談や講演などのその他雑収入で100万。
合計380万である。文庫にはならないので、ほぼこれで全部である。
これで女房・子供を養っていかねばならない。
特に女房に稼ぎがあればいいが、そうでない場合は、かなりの困窮を甘受して生きていかねばらない。
しかもその作家が作家でいられる期間は、有限である。3年で消える人もいれば、10年で消える人もいる。

こうした現状を、若い才能は望むだろうか?
大学の偏差値と文芸の才能は、まるで相関関係はないだろうが、
東大や慶応や京大や早稲田の学生に仮に才能ある潜在的書き手がいたとしても、純文学作家を志す前に、普通に就職してしまうだろう。
昔は、売れない作家でもちゃんと尊敬されて、なんだかんだ仕事が回って、食えていたはずである。
なんで、読まれなくなってしまったのだろう。なんで出版機会が減ってしまったのだろう。日本人読者の知的レベルが急降下しているからか。作家のレベルが急降下しているからか。普通に新しい才能が世間的にも注目され、気になる若手の純文学作家の2、3人は常にいる、というのが、大人のたしなみなのではないか!

というのです。その後、某国論に傾斜していきました。


この愚痴は、難問です。
そもそも、昔の純文学作家も半死半生の生活だったのかもしれません。世間にそういう人たちが多かったので目立たなかっただけかもしれません。


確実にいえるのは、中規模の書店さんで、純文学作品の単行本を常備している店が絶滅したということです。ネット書店が勃興しても、マイナーな著者には、そこでは、出会えません。マイナーな純文学作家と出会える場所は、やはり書店の棚なのです。それが消えてしまった。
大規模書店には多少の棚はありますが、やはり多少です。
新刊の一時期(数週間)を過ぎれば、みんな返品されて帰ってきてしまう。

店頭で露出している期間が短くなれば、出会いが減り、知られないままで、買われることもなくなる。売れなければ、版元がその作家の作品を出すこともなくなる。

書店さんにしても、少しでも回転する商品に棚は明け渡して欲しい。死蔵してしまうのは、死活問題です。
なんだか、切ないですね。