Ⅶ 原理の自律性を否定していませんか(神様の神霊レベルを低下させています) | goojobのブログ

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Museさんも私も罪の原因は堕落性(堕落性本性)という点で一致しています
>Museさん
よって、「罪が関係概念であり、堕落性が存在概念であるがゆえに、“それだけを根拠にして”両者を区別する考え方は間違っていますが、だからといって、「罪」という概念と「堕落性」という概念を同一視したり混同したりする見解が正しいというわけではありません。

確かに、「罪」と「堕落性」は密接な関係を持っていますが、岡本・廣言説のように、両概念の違いを全く無視して、「自己中心的思い(動機)=罪(原罪)」とする見解は誤りであるということになるのです。

本来、「堕落性」と「罪」は原因と結果の関係にあるといえます。なお、誤解を避けるために、ここでいうところの、堕落性(堕落性本性とはあえて区別しない)と罪の概念を確認しておきますが、(以前述べたところを整理すると)私見では、それぞれ次のように定義されます。

「堕落性とは、成長期間の途上にある人間(未完成人間)において、肉心が生心を逆主管する方向で作用するに至った利己主義的(自己中心的)思いであり、創造本性自体に内在する性質である。」

「罪とは、創造主である神が人間に与えた戒め(天法)を破り、もって創造目的に反するような結果をもたらす行為ないし状態である」




Museさんによる堕落性(堕落性本性)および罪について定義していただきました。また、堕落性(堕落性本性)と罪の関係についても「堕落性」と「罪」は原因と結果の関係にあるといえますとお答をいただきました。

要するにMuseさんの主張は、創造本性自体に内在する性質である利己主義的(自己中心的)思いが肉心が生心を逆主管した場合は、堕落性(堕落性本性)となり、罪の原因となるということのようです。

注;Museさんの利己主義的(自己中心的)思いには、肉心が生心を逆主管する場合と、そうでない場合(自己の生存維持に不可欠な創造本性としての内容)があるとの主張です。

堕落性(堕落性本性)がもともとは創造本性に内在するかは、別として、罪の原因となる点については概ね理解しました。

私は、この利己主義的(自己中心的)思いを原罪と定義しました。もちろん、創造本性にはないもので、後天的に生じたものと考えています。また。すべての罪は、この原罪が原因であると考えています。
そして、罪の定義を、利己主義的(自己中心的)思い並びにその思いによる非原理的四位基台の造成内容およびその状態としました。

このことは、利己主義的(自己中心的)思いについて、双方に定義の違いはありますが、罪の原因については利己主義的(自己中心的)思い(堕落性,堕落性本性)で一致しています。

注;罪については、別の記事で詳しく解説しています。

注;肉心が生心を逆主管することについては異論があります。別の記事にて解説していきます。

Museさんは原理の自律性を否定しています(神様の神霊レベルを低下させています)
ここで問題になるのは、果たして利己主義的(自己中心的)思いが創造本性自体に内在する性質であるかどうかということになります。

以下に四つの点からこのことの誤りを指摘します。

罪を構造的に捉えられないので誤りです 
Muse、さんは、法的手続きにおいて、罪を定義しますが、創造原理における原理的な定義ができません。これは、罪を非存在、非実体としてとらえているため、四位基台における構造的な罪を意識できないためです。(すでに詳細は述べました)

創造原理の目的性を否定するので誤りです
統一原理は、ひとつの目的(創造目的)に向かう、発展運動を明確に主張しています。これは言いかえれば、逆主管する方向を認めていないということです。
ですから創造目的においても、一定の目的性、方向性があります。この原理の目的性からみて、逆主管する方向性を定義することは、創造目的の目的性を否定することになります。(すでに詳細は述べました)

原理の自律性を否定するので誤りです
原理の自律性は、神の間接主管(人間の成長期間)におけて肉心が生心を逆主管する方向で作用するということを定義するなら、逆主管する方向においても、正当性と妥当性を保障しなければなりません。
ところが、創造主である神が人間に与えた戒め(天法)を破り、もって創造目的に反するような結果を罪と定義することによって、神自ら、原理の自律性を否定してしまうことになります。

注;肉心が生心を逆主管する作用は、重要な原理違反(創造目的に反する)であるため、堕落人間においては、生心は主体性を維持するため、肉心との授受を機能させていない状態(孤立状態)にあると考えます。また堕落人間の生心は肉心に対して良心作用による警告を発します。

④ 神様を、心情・愛の神として否定するので誤りです
さらに、深刻な問題は、原理の自律性を否定することによって、神ご自身が人間の創造を神の都合(まさに自己中心)で創造するということを意味します。

Museさんの主張からイメージする神は、人間の成長期間において創造本性自体に内在する性質として肉心が生心を逆主管する方向で作用する利己主義的(自己中心的)思いを容認されるその一方で、人間に利己主義の暴走を抑制するための戒め(天法)を与え、結果として創造目的に反する行為ないし状態になった場合は罪として断罪するようです。こうした神は、人間をもてあそばれるだけで、もはや心情・愛の神とは程遠い存在と言えるでしょう。

Museさんの考えには、み旨を大きく阻害させ、愛の神様を否定する考えが奥に秘められています。すなわち、Museさんの理論による神様は、人間には必要のない神様と言えるでしょう。

極論すれば、Museさんの神様は、人間の成長期間の未熟、未完成だけを容認して、天法もいらないし、罪もいらない、人間(社会)の今のありのままを肯定すべきなのではありませんか。どうして、牢獄(罪)をつくって、そこへ人間を閉じ込めることが必要でしょうか。神様も自己中心であると定義すれば、理屈(屁理屈)としては通りますが、そんな神は暇つぶしで人間を創造した神でしかないと言えるのではないでしょうか。


補足1(愛の自律性についてもMuseさんは理解不足です)
>Museさん
堕落性と罪との関係(因果関係)を説明すると、(やや長くなりますが)次のようになります。

「神は、人間に対して、他者を破壊消滅させることなく自己の生存維持を全うさせるべく、生心が肉心を主管し、「利己主義」と「利他主義」を共存・調和させて、自己の責任分担において、個性完成させることを願われた。また、その願いを実現するために、人間に対して天法(宗教的規範、道徳的規範等)を与え、これに違反すれば、罪と認定されることを定め、人間自身が、その規範を守りつつ、個性完成に至ることを図られたのである。しかるに、人間が、肉心の作用である利己主義を抑制克服できず、天法に違反するような行為を行った結果、罪を犯したものと認定されるのである。」


上記の内容も原理の自律性への理解が欠落しているための論理です。
生心と肉心を共存・調和させて、自己の責任分担において、個性完成させることを願われたので、その為に原理の自律性があるのです。ここでは生心を逆主管する肉心などというものは、神様は想定していないのです。

さらに、愛の自律性についてもMusesさんの理解不足は否めません。
神様は人間に対して天法(宗教的規範、道徳的規範等)を与え、これに違反すれば、罪と認定されることを定めたのではありません。原理の自律性と人間の責任において、主管性(愛の自律性)を付与するために、戒めを与えたのです。
戒めは人間を断罪(罪を犯したものと認定)するためのものではありません。どこまでも愛の主管性(自律性)を付与するために、神様が与えたものなのです。

注;自律性については、原理講論における詳しい説明はありませんが、人間は、責任分担遂行による主管性(神の愛の自律性)獲得と原理自体の自律性によって、成長期間(間接主管圏)を成長するようになっています。

注;人間の責任分担は、神の主管性(愛の自律性)を付与される(似る)ために与えられたものです。

補足2(統一体としての概念にも欠けます)
>Museさん
以上のことから、堕落性(自己中心性)と罪(天法違反の行為)は原因と結果の関係(因果関係)にあるということになるのです。決して、両者(堕落性と罪)は同一であるとか、あるいは、両者のうち、片方がもう片方に包含されるという性質のものではありません。

Museさんは原因と結果の因果関係にとらわれるあまりに、存在の統一体(主体と対象の中和体)としての概念が欠落しています。
因果関係は、創造目的による授受作用によって、時間、空間の中に必然的に存在するようになっています。しかし、その、存在様相は原理で貫徹された、調和体、統一体として関係しあっているのです。
ですから同一であるとか、あるいは、両者のうち、片方がもう片方に包含されるという性質は当然ありうるのです。内的要素になればなるほど、その様相は顕著です。一体化によって区別できない場合もありうるのです。

例として、人間が足を怪我した時の痛みを考えてみましょう。当然、足の神経細胞が痛みますが、全身、全体としても精神的なダメージを覚えます。精神作用が、体全体の神経と同化(同一)して、精神が肉体(神径)を包含しているからです。

補足3(生心の作用は原理そのものです=生心はブレない神様の臨在されるところです)
>Museさん
なお、前にも述べたように、この因果関係は必然的因果関係ではなく、人間の生心の作用によって結果が左右されることは言うまでもありません。


この人間の生心の作用によって結果が左右されるという表現は間違いです。生心作用は原理そのものです。よって、左右するのは、肉心の形状的本能(生命維持機能など)以外の内的性相部分(機能)ということになります。この肉心の性相的部分(機能)が原罪としての自己中心的思いに支配(主管)されているため、生心作用がつくり出す良心作用と葛藤状態に陥るのです。

注;良心作用は、生心内における授受作用による、肉心への警告(創造目的に反する)として働く副次的作用です。

注;心も四位基台構造になっています。したがって、肉心の機能もこの四位基台構造になっているのです。そして、肉心内において、より性相的機能(内的性相目的)が存在するのです。それが肉体との授受作用によって、肉身生活における生力要素を発生させることになります。肉心の生命維持機能(形状的機能)だけでは、生力要素は発生させることはできません。また生心の性相的内容にも相対することができません。

注;生心の性相的機能が生力要素を発生させるという考えもありますが、生力要素は肉身生活を土台としているため、肉心の方が適していると考えます。また、生心はむしろ、霊体との授受作用における生霊要素を発生させると考えたほうがよいと思います。



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