NHK大河ドラマ『平清盛』で皇室を「王家」の誤用について | あめばーあめまのブログ

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【NHK「王家」問題】大河ドラマ『平清盛』で皇室を「王家」と称している件について

1月8日(日)に放送がはじまった今年のNHK大河ドラマ『平清盛』で、皇室を「王家」と呼んでいることについて、いろいろ物議をかもしています。

NHKはギモンの声にたいして、「専門家によれば、平安末期から鎌倉期にかけての中世史研究の歴史・学術的分野では、当時の政治の中心にいた法皇・上皇を中心とする『家』を表現する上で『王家』という用語が使われている」と公式サイトで説明しています
※1.

ネット上でも、「天皇家という意味の『王家』は歴史的に正しい用語なんだそうですよ。中世の一次史料でも確認できる言葉だそうです。そして主に院政期から中世にかけての歴史学で使われている学術用語でもあるそうです」との指摘があります
※2.

いまの普通の人にとってはなじみが薄くても、専門家のセンセイが使っている学術用語だからかまわないんだ、ということのようです。


では、その専門家がなんと言っているかを見ていきましょう。


大河ドラマ『平清盛』の時代考証担当は、高橋昌明サン(神戸大学名誉教授)と本郷和人サン(東京大学史料編纂所准教授)の二人です。このうち本郷サンは、「学問的な見地」から、「王家」という呼び方をNHKに提案したと言っています
※3.。さらに本郷サンは、「王家」という学術用語が使われるようになったのは、「黒田俊雄氏の権門体制論から」だと言っています※3.

この「黒田俊雄氏の権門体制論」というのは、ごくカンタンにいうと、中世の日本では、荘園を経済的基盤とする公家・寺家・武家といったいくつかの「権門」が、対立しながらも国家の機能を互いに補いあっていた、というような学説ですね。


黒田サンは、中世の皇室(黒田サンの言葉では「天皇制」)には三つの側面があると言っています
※4.

 第一が《王家》。天皇(黒田サンの言葉では「国王」)を出す家柄であり、広大な荘園を持つ私的勢力としての「権門」。


 第二が《国王》。国家権力の制度上・機構上の代表者。


 第三が《帝王》。観念的・宗教的な至高の権威者。


ということらしいです。学術用語としての「王家」って、こういう割りと限られた意味で使われはじめたんですね。


では肝心の当時の人たちは、皇室の意味で「王家」という言葉を普通につかっていたんでしょうか?


黒田サンは、中世には「天皇の一族」を指す言葉として「王家」が使われていたんだ、だから学術用語としてふさわしいんだ、と言っています
※4.※5.

ところが、ドラマ『平清盛』の時代考証を担当し、「王家」という呼び方を提案したと白状している本郷和人サンは、「当時の人々が天皇家や皇室と言っている のに、番組が王家と呼んではおかしなことになります。そこで調べてみると、天皇家も皇室も王家も、使われていない、が正解です。当時は天皇や上皇や皇太子 や女院などをひとまとめにして『ファミリー』として考える、ということをしなかった」と言っています
※3.

はて??


時代考証の本郷サンは、「王家」という言葉は当時、皇室という意味ではつかわれていない、とおっしゃってるんですね。ついでに、当時の皇室をひとつの 「ファミリー」とみる見方はなかったともおっしゃってます。これって、「王家」と言いはじめた黒田サンの説をあっさり否定してませんか??NHKの公式サ イトの「法皇・上皇を中心とする『家』を表現する上で…」という説明
※1.とも食い違ってますよね。

ここで、つまらない派閥の話になるんですが、本郷和人サンは、黒田俊雄サン(故人・元大阪大学教授)たち関西派閥の「権門体制論」とはあまり仲がよくない 「東国国家論」「二つの王権論」という立場の東京大学派閥の人なんですね。いっぽう、もう一人の時代考証担当の高橋昌明サンは関西組で、「権門体制論」の 人です。時代考証のお二人、なんか対立してます?


あと、ネットでよく言われる『花園天皇宸記』ですが、確かに「王家」という言葉が使われているところがありますね
※6.。 でも、花園上皇が「王家」とお書きになったのは鎌倉時代の終わりごろ、平清盛の時代の200年くらいあとのことです。「中世」にはちがいありませんが、同 時代ではありません。本郷サンが、「当時は使われていない」と断言するのも、『花園天皇宸記』が平清盛と同時代のものとは、さらさら思っていないからで しょう。

ドラマでの「王家」という言葉について、高橋サンの意見もぜひ聞いてみたいところですが、すくなくとも本郷サンは、当時「王家」という言葉はつかわれてな かったけれども、「現在の学界では、王家という呼び方が確実に市民権を得ている」から、「天皇家と呼んでも王家と呼んでも、間違いではない」と言ってます
※3.。なんか根拠うすくなってきましたねー。

では、「王家」という呼び方は、学界で「確実に市民権を得ている」のでしょうか?


学界で皇室のことを「王家」と呼ぶのが確実に市民権を得ているというからには、学者サンの書いた本や論文のタイトルでもさぞかしおなじみなんでしょう な・・・と思ったら、黒田サンが「王家」という言葉を使いはじめた時の論争をのぞくと、初めて「王家」という言葉が学術論文のタイトルに使われたのは、平 成5年に伴瀬明美サンという人が書いた論文
※7.で、初めて本のタイトルに使われたのは、平成18年※8.なんだそうです※9.。しかも、初めて論文のタイトルに使った伴瀬サンは、最近の論文※10.では、やっぱり「王家」という言葉は適切でない、と言って、「天皇家」という言葉を使うことにしたそうです※9.(笑)。その他、中世史の学者サンでも、いろいろな学説上の理由で「王家」という言葉を使わない人はたくさんいます※11.。う~ん…定着してない(笑)。そしてもちろん、中世史以外の古代史とか近世史では、「王家」なんて言葉は、まず使いません。

けっきょく「王家」は、中世史学界の一部で使われているが定着してはいない、マイナーな言葉だということです。たとえば今日、平成24年1月10日の時点 で、ウィキペディアにも日本の皇室を意味する「王家」という項目はありません(「王家」で検索すると「王族」に転送されます)。


そして私たち一般人は、学習番組でもナンでもない大河ドラマで、いきなり皇室を「王家」と言われたら面くらいます。NHKに抗議電話がジャンジャンかかる のもあたり前でしょう。NHKは「無知な一般人どもがー」と思ってるのかも知れませんが、マイナーな用語をいきなり出すほうがおかしいでしょう。


そこで、抗議電話がジャンジャンかかるのを押しきってまで、「王家」という言葉を使う意味は何なのか、考えてみましょう。


ドラマ『平清盛』は、主人公・清盛と皇室(「王家」)との戦いが大きなテーマのようです。公式サイトの清盛の人物紹介にも「王家との長い戦いが始まる」とか書いてありますね
※12.。1月8日に放送された第一回のあらすじ※13.を みてみると…白拍子・舞子が身ごもった自らの子を殺そうとする白河法皇、その赤子(のちの平清盛)の身代わりに殺される舞子…と、白河法皇はさんざんな描 かれようです。ドラマ全体に、皇室に対する悪意がみなぎってますね。わざわざ「王家」なんて言葉を使うのも、その悪意のあらわれではないか?そんな疑惑が わいてきます。

ここでもう一度、「王家」という言葉を使いはじめた黒田俊雄サンに登場してもらい、「王家」と言い出した動機を語ってもらいましょう。


「用語は、ものの考え方に枠をはめ、方向を与え、しらずしらずに特定の価値基準を植えつける効力をもつ。それは、言葉による呪縛であり、意識や思想を操作する」
※14.

用語…たとえば「王家」という言葉を使うことによって、大河ドラマを視る人の意識や思想を操作することができる、ということにもつながりますね。


「中世に近代天皇制と同じものがあったわけではないのに、そんな具合に(皇室という)用語の適用範囲をあえて拡大するのは、天皇を万世一系連綿として変ら ないものとみる見方が、根底にあるからであろう。中世の天皇制が近代の天皇制と本質的に異なるとすれば、中世について『皇室』というのは明らかに不適当で あり、中世で実際に用いられていた『王家』の語を無視してまで『皇室』とよぶのは、特定の見地の主張ないし強制に通ずることにもなろう」
※14.

当時「皇室」という言葉はなかったから使うのは不適当だというわけですが
※15.、黒田サンがさかんに使う「天皇制」という言葉こそ、「皇室」よりはるかあとに日本共産党が作った言葉なんですが…

「私は、国家体制上『天皇』と称する制度があった限り〝天皇制〟という用語を使うことは不当でないと考えている」
※16.

ダブルスタンダード(笑)。


どうやら「王家」という言葉を使うのは、皇室が「万世一系連綿として変らないもの」ではない、と「意識や思想を操作する」ためのようですね。


日本共産党といえば、黒田サンが共産党の機関紙『赤旗』に書いた文章もあります。


「戦後今日までの良心的歴史学者の天皇制解明の重点は、天皇の神性の否定や、社会構成史の観点からの天皇権力の断絶の説明であった。しかしこれだけでは彼 等の詐術を断ち切ることはできないだろう。歴史上の天皇は、ときに生身の実権者であり、ときに権力編成の頂点であり、ときに精神的呪縛の装置であった。そ して、この三つがいつの時代にも備わっていたのでないことは明らかで、こうした諸側面を適宜入れ替え組み合わせてきたところに、天皇制を操作してきた権力 の真実の歴史があった。


ところが、いま詐術師たちは、自分ではこれを使い分けながら、あえて混同させて人々を欺いている。そのからくりを作動させないためには、むしろ天皇制の 『存続』の根拠をこそ具体的に分析して、知性の明白な光にさらす必要があるのでなかろうか。さらに神道なるものが一貫して日本の民族的祭祀であったという 類の近代的な神話も打破される必要があろう」
※17.

左翼臭プンプンです(笑)。黒田サンが、わざわざ「王家」という学術用語を提唱したのには、こういう政治的な背景があるんですね。


最近の学者サンも黒田サンの意図を、「『皇室』『天皇家』という用語によって組み上げられた従来の議論を脱構築する、極めてアクチュアルな戦略であった。 『天皇家』ではなく『王家』と呼びつけること、これによって、日本の特殊性に傾きがちな『天皇家』という用語を否定し、あれやこれやの王家(もちろんそれ らの中には断絶した王家も含まれている)のひとつとして論じることができる」と解説してます
※11.

当時「王家」という言葉が使われていたかどうかなんてことはただの口実であって、「王家」と【呼びつける】ことで皇室を貶める【戦略】なのだ、ってことですね。正直な解説ありがとうございます(笑)。


ドラマ『平清盛』が皇室を貶めることに熱心だというのには、ほかにも証拠があります。


時代考証担当の本郷サンは、こんなことを言ってます。


「今回はせっかく、王家の人々を普通の俳優のみなさんが演じる、という画期的な試みが取り入れられる(これまでは歌舞伎役者の方が多かった)」
※3.

どうもNHKには、映画やテレビの俳優は、歌舞伎役者よりも格下だという意識があるみたいですね。そして、『平清盛』で皇室の方々を、これまでとは違って(歌舞伎役者より格下の)「普通の俳優」が演じることを「画期的」だと喜んでいるんですね。


NHK大河ドラマ『平清盛』に、皇室を貶める意図があること、「王家」という呼び方もそのひとつのあらわれであること、もうハッキリしました。


これをこのまま放っておいたら、いずれ教科書にも「王家」と載りますよ。仁徳天皇陵が「大山古墳」になり、聖徳太子が「廐戸皇子」になったのと同じよう に。教科書の記述が書き換わるような新しい呼称は、まずNHKの番組を通して流布されることが多いんです。学者サンもNHKを利用して新説(珍説)を宣伝 しようとするんですね。


国民から強制的に受信料を取り立てる公共放送(笑)が、こんなことをするのはケシカランですね。好き勝手したければニコ生でやりなさい!


まあ、視聴者もバカではないので、『平清盛』第一回は、めでたく歴代三位の低視聴率を記録したようですが…。




※1.
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/cast/comment.html?keepThis...
※2.
http://ktbt-cinnamon.at.webry.info/201108/article_16.html
※3.
本郷和人『謎とき平清盛』(文春新書:平成23年)
※4.
黒田俊雄「中世天皇制の基本的性格」(『現実のなかの歴史学』東京大学出版会:昭和52年)
※5.
黒田俊雄「朝家・皇家・皇室考──奥野博士の御批判にこたえる──」(『日本歴史』406:昭和57年)
※6.
元弘元年別記十月一日条。http://books.google.co.jp/books?id=ur3XLDvUTuwC&pg=PT243&...
※7.
伴瀬明美「院政期~鎌倉期における女院領について──中世前期の王家の在り方とその変化」(『日本史研究』374:平成5年)
※8.
丸山仁『院政期の王家と御願寺──造営事業と社会変動』(高志書院:平成18年)
※9.
高松百香「<王家>をめぐる学説史」(『歴史評論』736:平成23年)
※10.
伴瀬明美「中世の天皇家と皇女たち」(『歴史と地理』597:平成18年)
※11.
遠藤基郎「院政期『王家』論という構え」(『歴史評論』736:平成23年)
※12.
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/cast/heike.html#h_kiyomori
※13.
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/story/01.html
※14.
黒田俊雄「『寺社』か『社寺』か──用語による呪縛について──」(『歴史読本』25-13:昭和55年)
※15.
「皇室」という語は、古くは『続日本紀』天平宝字元年閏八月壬戌条、天平宝字二年八月甲子条に見える。
※16.
黒田俊雄「イデオロギーとしての『天皇制の歴史』」(『大阪の科学者』65:昭和63年)
※17.
黒田俊雄「詐術としての天皇制論」(『赤旗』昭和53年7月1日)

~・~


【オマケ】「王家」の提唱者・黒田俊雄と、『平清盛』時代考証担当者のひとり高橋昌明のド左翼ぶりがわかる作文。


黒田俊雄「天皇の『御万歳』」(『月刊部落問題』143/昭和63年)より


八十数歳の一老人が、重態の病床で、恐らくいくばくもないその余命を、連日手厚く看護られている。いまどこにでもある話だが、一方では新年号制定の手続き が報じられ、来年のカレンダーをどう刷るかが取沙汰されているのは、他に例のない特異な点である。テレビが四六時中オリンピック中継を放映し続けていると ころを見れば、「明治大帝崩御」の旧式劇が再現する雰囲気とも見えないが、「平癒祈願の記帳」は大宣伝中である。

(中略)
ところでいま、かのご老人の病状は、かなり危ないという。この期に及んで、この人の過去についてかれこれ問い質すつもりはない。誰の人生にも、誤りもあり 失策もありうる。ただかれは、自分の誤りをかつて認めたことはなく、迷惑をかけた人たちに、率直に謝罪の言葉を述べたこともなかった。誤りは不運がもたら したものであり、失策はかれの意向に反して偶発したものとされてきた。
(中略)
しかし、いまかれの胸中にある想いは、何だろうか。波瀾の生涯ながら「国体」を護持し、国家・社会の隆昌をもたらしたという自負であろうか。かれの臨終 は、最も厳粛な瞬間であるはずであって、予て万全の手筈も整えられているという。いよいよXデーは、本番が近づいたらしい。ただ、〝やらせ〟の「記帳」大 宣伝の当今には、『天皇万歳』という報道がよりふさわしいかも知れない。


黒田俊雄「天皇問題への視点と学問」(『学生新聞』平成元年1月)より


まえの天皇が戦前、権力の頂点として戦争責任をもっていたことはハッキリしているわけで、そういうところをごまかしちゃいかん。戦争の責任者であるし、世界の諸国民を含めて人民を苦しめた張本人だということをハッキリさせることが大事なんです。

戦後の新しい憲法になってからは国王でも国家権力の当事者でもなくなったけれども、それまではずっと国王だったし、明治以降も絶対君主だったことを見てお かないと。一九四五年でずいぶん変わって、いまは憲法のおかげと民主勢力の力で一応押さえこんであるわけですが、力をゆるめると頭をもたげてくるわけです から、そういうことを注意しないといけないんです。
支配層はいま、天皇を憲法以上の権威をもつ存在という方向にもっていきたいわけで、だからこそ精神的・文化的権威とかいうことを強調しているわけですよ。 マスコミなんかも、言葉づかいからして「崩御」などと旧憲法時代と同じ言葉を使うわけで、こういうことを打ち破っていかないといけないんですね。


高橋昌明『中世史の理論と方法』(平成9年)より


学生時代以来、戦後歴史学の流れに身を投じ、そのさらなる発展を願う立場から、あれこれと批判がましいことも述べてきた。しかし、戦後歴史学が日本の歴史 学の飛躍的前進の主たる原動力であったとの確信については、いまもゆるがない。(戦後日本の歴史学で、マルクス主義が大きな影響力を発揮した秘密は、①戦 前ほとんどマルクス主義者だけが、天皇制国家のイデオロギーに学問的に抵抗し得た実績から、卓越した精神的・道徳的権威を獲得、②戦後においても、伝統的 (スターリン型)史的唯物論に起因する、人間不在の図式と通俗的・機械論的な歴史把握に大きく災いされながら、それらを事実上克服するような実績を意識・ 無意識に積み上げてきた、などによると思われる。)



高橋昌明「私の黒田俊雄氏」(平成7年)より


黒田氏は関西の歴史家の重鎮であったから、日本史研究会ととくに関係が深いと思われているかもしれぬが、一九五五年ごろまでの一時期を除くと、必ずしもそ うではない。中世史部会や例会での研究報告を何度もお願いしたけれど、引き受けていただいた覚えがない。氏は、そんなことはお前達が自分でやれ、と思って おられたらしい。そのかわり、労働者教育・学生への講演は積極的だった。教科書裁判支援にもじつに熱心であられた。ある時、お宅の堂々たる書庫の一角に労 働者教育用の各種テキストが並んでいるのをみて、なるほどこれだな、と得心がいったことがある。