月代と一夫一婦制-① | カタセテロジュマン

月代と一夫一婦制-①

平等について考えるとき、平らかに等しく、の意味をまた思う。


月代(さかやき)とは、所謂ちょんまげの髷を乗せる頭頂部の毛髪を剃った部分のこと。その成立は戦国武将が兜を被った頭部から放熱を促すため、というのがそもそもの始まりとされているようだ。したがって、権力のある者、身分の低からぬ者、強者の類の男たちの髪型であるとも考えられる。

時代が下って戦乱のない天下太平徳川300年の頃には、一般の市井の者たちにもそれがひとつの流行となり、いかに青々と剃りあげるかで男伊達や粋が争われたようである。

以上はその髪型の歴史として大よそ主流となっている考え方ではなかろうかと存ずる。しかしながら、本伝には外伝がつきもの。今回の主題にはその外伝を採用することとする。

月代とは、額から頭頂部にかけての毛髪をすっかり剃り落としてしまうことである。

これは、一般的に、加齢とともに毛髪の数を減らしていくことで形成される禿頭と酷似している。つまり、老人特有、ならでは、自然摂理のなせる特別な髪型なのである。けれど悲しいかな、人間という生き物は不老長寿を願う生き物、つまり、老いることを負の評価とすることがありがち。往々にして、年寄り、老人を一人前の人間として扱わない。故に隠居やら引退などという観念や言葉にて、自ら或いは排他的に世間の第一線から、外れていくのである。言い換えれば、世間の第一線をになうのは男盛り・女盛り、要するに盛りのある人間がもてはやされるわけだ。

しかしそれでいいのか?年寄りは望んで年寄りになったわけではなく、時の流れとともに自然に老いただけだ。それを、役立たず厄介者扱いするのはいかがなものか?禿頭が老人ならではの特徴なら、その評価の発端となるなら、その原因を取り除けばよいのではなかろうか?一族郎党成人男子は押し並べて同じ髪型にするならば、毛髪の分量や色合いに多少の差異はあろうとも、見比べて大きな違いはでないのではなかろうか?そうだ、そうすべし。成人した男子は頭頂部を剃り落とすこと。子供ではないことを強調すること。老人との差別化はせぬこと。年老いたからとて、盛りを過ぎたと見下すような弱いものいじめ的な発想を慎むこと。

こうして、月代は一般市民の間に普及したのである。というのが外伝。この際、あねさんたちの禿(かむろ)さんについては文字は同じですが言及しないので悪しからず。