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『コロナ禍、貧困の記録 2020年、この国の底が抜けた』、まえがき公開です。

『コロナ禍、貧困の記録 2020年、この国の底が抜けた』のまえがきを公開します。

 

まえがき

 

「コロナになってもならなくても死ぬ」

 この言葉は、コロナ禍で開催された生活相談ホットラインに電話をくれた人が口にしたものだ。

 生活はギリギリで、コロナに感染しても死ぬし、感染しなくても生活苦で死んでしまう一一一。

 新型コロナウイルス感染がこの国でも広がり始め、不要不急の外出自粛や「ステイホーム」が呼びかけられ始めた2020年3月頃から、そんな悲鳴を多く耳にしてきた。

 電話相談だけではない。公園で開催される炊き出しや相談会で、住まいを失った人々が身を寄せる夜のターミナル駅周辺で、ネットカフェが多くひしめく繁華街で、深刻な言葉を耳にしてきた。

 ここで少し自己紹介すると、文筆業の私は2006年からこの国の貧困の現場を取材し、また支援者の一人として困窮者の相談を受け、公的支援に繋げるなどの活動をしてきた。08年から09年の「年越し派遣村」も経験し、07年頃から目立つようになったいわゆる「ネットカフェ難民」などの支援や取材も続けてきた。07年からは「反貧困ネットワーク」(代表世話人・宇都宮健児)の副代表、のちに世話人としても活動してきた。

 そんなふうに15年間、この国の「貧困」の現場に身を置く私にとっても、コロナ禍の打撃はこれまでにない規模のものだった。

 多くの困窮者が出ることが見込まれた20年3月24日、貧困問題に取り組む30以上の団体(現在は40団体)で「新型コロナ災害緊急アクション」が急遽立ち上げられた。

 4月に相談を受け付けるメールフォームを立ち上げると、そこには今に至るまで、連日、切実なSOSが届き続けている。

「今日、ホームレスになった」

「所持金ゼロ円です」

「もう一週間、水だけで過ごしています」

 メールをくれるのは、圧倒的に非正規雇用の人々が多い。

飲食、宿泊、観光、イベント、テーマパーク、販売、日雇い派遣など。ヨガやジムのインストラクター、エステティシャンなどフリーランスも多くいる。世代は20〜40代が中心で、2〜3割を女性が占める。

製造業派遣の中高年男性を中心に派遣切りが進んだリーマンショック時と違い、コロナ禍は、あらゆる業種に影響を与えている。特に、サービス業を支えてきた非正規女性が大打撃を受けている印象だ。

 一方、これまで出会わなかった層からの相談も増えている。

「夜の街」と名指しされた風俗やキャバクラで働く若い女性。飲食や宿泊、イベント関係の事業を自ら経営していたという元経営者や自営業者。その中には、あっという間に借金まみれとなり、すでに路上生活となっている人々もいた。一方、「住宅ローンが払えない」という人もいる。そんな相談を初めて受けた時には思わず遠い目になった。

 なぜなら、私がこれまで受けてきた「住宅」絡みの相談は、「家賃が払えない」「アパートを追い出されて住む場所がない」というものだったからだ。それが今、住宅ローンが組めるほどの「安定層」にまで、急激に貧困が広がっているのである。

 

「新型コロナ災害緊急アクション」のメンバーたちはSOSを受けると当人のもとに駆けつけ、まずは聞き取りをする。すでに住まいも所持金もない人が多いので、そのような場合には数日分の宿泊費と生活費を渡し、後日、公的制度につなぐ手助けをする。多くの場合、生活保護申請となり、同行する。

「新型コロナ災害緊急アクション」では、20年4月から21年1月に至るまで、1700世帯以上に対応し、5000万円以上を給付してきた。が、SOSの声は減るどころか増えていくばかりだ。

 そんな「野戦病院」のような日々が、もう一年近く続いている。もちろん、みんなボランティアだ。

 本書は、そんなコロナ禍の2020年の記録である。

 

 3月、「年越し派遣村前夜」のような空気になってきたなと思っているうちに状況はどんどん悪化し、4月7日には東京をはじめとした1都6府県に緊急事態宣言が発令された。ネットカフェも休業要請の対象となり、あらゆる仕事の現場が止まる中、住まいをなくし、所持金も尽きる人たちからのSOSが殺到し始めた。

人通りがまったくなくなった都内のターミナル駅には「ホームレスになりたて」と一目でわかる人たちが続出し、その中には若者や女性の姿も多くあった。ある駅近くの路上の一角は、カラフルなトランクやぬいぐるみや衣服が山と積まれた「女の子の部屋」のような光景になった。アパートやシェアハウスを追い出されたのだろう女性たちの私物が路上に置かれていたのだ。

コロナ禍を受け、国は特別定額給付金や持続化給付金を創設。それで「一息つけた」という声も聞いたが、夏頃にはそれもなくなり「万策尽きた」という相談が増えた。

秋になるといよいよ状況は深刻になり、10月、ひと月の自殺者数がとうとう2000人を超えた。

そうして迎えた年末。この国には、年越し派遣村をはるかに超えた貧困が広がっていた。

支援団体が開催した「年越し支援・コロナ被害相談村」には3日間で344人が訪れた。

うち3割が所持金1000円以下で、45%がすでに住まいがない状態。一方、年越し派遣村の時は1%以下だった女性の割合は、344人中61人と18%にまで増えていた。ネットカフェ暮らしの女性、40代ロスジェネ(就職氷河期世代。2021年時点で30代後半から40代後半)女性、外国人の女性一一一。

3月から多くの相談を受けてきたが、その中には、10年以上ネットカフェ暮らしという人もいた。20歳頃から今まで、20年間をずっと製造業派遣の寮を転々とすることで生き延びてきたというロスジェネ男性にも何人か会った。「失われた30年」の生き証人のような人々、それでもギリギリ路上生活を回避してきた人々が、コロナで遂に野宿となったのだ。

それだけではない。ミュージシャンやアーティスト、演劇人たちからの苦悩の声も多く聞いた。

 

 そうして、2021年がやってきた。

 年明けそうそう、都内の炊き出しに並ぶ人は、過去最高を記録した。1月9日、池袋のTENOHASIの弁当配布に300人。1月16日、新宿都庁前の、「新宿ごはんプラス」と「もやい」(困窮者支援団体)共催の食品配布に240人、2月6日には283人。いずれもコロナ前の2倍以上の数字である。コロナ禍以降、炊き出しに並ぶ行列には、以前は見なかった女性たちの姿もちらほらと見える。ミニスカートの若い女性や、「上品な奥様」風の女性も並んでいる。

 このまえがきを書いている今、新型コロナウイルスの新規感染者は2000人以上。こちらも「過去最多」を更新し続けている。

そんな中、コロナを理由に「命か、経済か」という二択がしきりに語られている。感染を抑えるか、感染が広がっても経済を回すかという二択ではなく、一旦感染を押さえるため、休業手当などの補償をしっかりすればいいものを、なぜかその案は語られずにあえて極端な二択ばかりを突きつけられているようだ。

 

 今、多くの人が不安の中にいる。

 本書には、コロナ禍により貧困に陥った人たちが多く登場するが、同時に多くの「解決策」も示されている。

 貧困問題をメインテーマとして15年。今ほど「この問題をテーマにしてきてよかった」と痛感したことはない。なぜなら私は、「この国で、どんなに経済的に困ってもなんとかする方法」を無数に知っているからだ。

 そんな「死なない」ノウハウを、今、あなたに伝えたい。あなたが困っていなくても、あなたの大切な人が困っている時に、ぜひ教えてあげてほしい。

 同時に、コロナ禍で、日々「助け合い」をしている人たちがいるということを、この世の中もそれほど捨てたもんじゃないということを、多くの人に知ってほしい。

 本書が、コロナ禍のあなたのお役に立てたら、これほど嬉しいことはない。

 

『コロナ禍、貧困の記録 2020年、この国の底が抜けた』

 


『コロナ禍、貧困の記録 2020年、この国の底が抜けた』、4月10日出版です。

『コロナ禍、貧困の記録 2020年、この国の底が抜けた』

かもがわ出版/1600円+税 (2021年4月10日発売)

 

“コロナになってもならなくても死ぬ”

“もう一週間、水しか飲んでません”

連日届き続けるSOS。

15年にわたり貧困と向き合う著者が支援現場から届けるコロナ禍の貴重な「助け合い」の記録

 

以下、目次です。

 

 

 

まえがき

 

第1章 2020年・春

1  新型コロナウイルス感染拡大で蘇る「派遣村前夜」の空気

2  家賃、ローン、学費・・・。庶民の生活を知らない人が決定権を握っている悲劇

3  給付を、補償を、住まいの対策を! 安倍政権の優先順位が謎すぎる

4  「所持金13円」〜コロナ布教、ネットカフェ休業を受けてのSOS

5  いのちとくらしを守るなんでも相談会〜全国から上がる悲鳴

6  「コロナになってもならなくても死ぬ」〜国へ緊急要望書提出

7  ゴールデンウィークを挟み、より緊急度が高まるSOS

8  個人加盟の労働組合で休業手当を勝ち取る〜立ちあがるインストラクターたち

9  「昨日から私も犬も食べてません」〜ペットとともに住まいを失った女性

10 千代田区の缶詰、新宿区の嘘、そしてワンコの病気〜弱者を見捨てさせないために

 

第2章 2020年・夏

11 「死ね、と言ってるのと同じ」〜生活保護基準引き下げ違憲訴訟・名古屋地裁判決

12 生きる意味・価値を問うという傲慢〜相模原事件・傍聴記

13 福生病院人工透析中止死亡事件の裁判、始まる

14 第二波の中届く、「2度目のSOS」

15 「反貧困犬猫部」を作ったチワワ、天に召される

 

第3章 2020年・秋

16 安倍政権、終わる〜格差と分断の7年8ヶ月

17 「自助・共助・公助」〜「共倒れするまで助け合え」という呪い

18 8月の自殺者、1849人の衝撃

19 各種制度の説明文、日本語おかしくないですか?

20 任命拒否という「見せしめ」〜日本学術会議問題での菅政権のメッセージ

21 『日没』と日本学術会議〜「不当に恵まれている誰か」を敵と目指した十数年

22 コロナで路上に出たロスジェネへの、あまりにも意地悪な仕打ち

23 米大統領選と、法廷でトランプ礼賛を続けた植松死刑囚

 

第4章 2020年・冬

24 10月の自殺者、2000人超の衝撃

25 渋谷・女性ホームレス殺害〜「痛い思いをさせればいなくなる」を地でいく社会

26 緊急事態宣言下で殺到したSOSの貴重な記録〜『コロナ禍の東京を駆ける』

27 相談データ分析から見えた深刻化する困窮度

28 年末年始の支援情報! 炊き出し、相談会、大人食堂など

29 怒涛の年末年始〜困窮者支援の現場から

30 命の危機でも生活保護を拒む人たちと、増える自殺者

 

あとがき

 

『コロナ禍、貧困の記録 2020年、この国の底が抜けた』

 

『学校、行かなきゃいけないの? これからの不登校ガイド』のまえがきを全文公開

『学校、行かなきゃいけないの? これからの不登校ガイド』の「はじめに」を全文公開します。

1月26日に出版されました。

 

 

はじめに

 

「いじめられてる頃、夏休みが終わるのが怖くて仕方なかった。

 月曜日も怖かった。

『逃げるな』『強くなれ』なんて言葉は大嘘だ。

 今、私はあの頃の自分に『すぐに逃げろ!』と言いたい。

 あなたを大切にしてくれない場所にいてはいけない」

 

 この言葉は2015年8月20日、不登校に関する記事を専門とする「不登校新聞」のサイトに寄せたメッセージだ。夏休みが明ける9月1日は子どもの自殺が増える日であることから、「学校に行きたくないあなたへ」のメッセージを、と依頼を受けて書いたのだ。

「あなたを大切にしてくれない場所にいてはいけない」

 これは人が生きる上で、一番くらいに大切なことだと思う。

 しかし、学校で教えられた多くは、それとは真逆の価値観だった。

 

暴力教師とヤンキー、そして受験戦争

 

「人生で一番つらかったときは?」

 そう聞かれたら、迷うことなく「中学時代」と答える。

 いじめに遭ったこともつらかったけれど、それがなかったとしても中学時代は絶対に、何があっても、たとえ5億円積まれようとも戻りたくない過去だ。

 何が、と問われれば無数にあるが、私の人生においてもっとも「囚人度」が高かった数年であることは間違いない。

 教室に大きく、「無言、敏速(びんそく)、整然」と書かれているのがつらかった。

 髪の長さ、靴下の色、靴の色やスカートの長さなど細かすぎる校則が嫌だった。

 教室での一挙手一投足がみんなに「監視」され、「唾(つば)を飲み込む」とかの生理現象でさえ細心の注意を払わないと悪目立ちしてしまう空気が息苦しすぎた。

 運動音痴(おんち)でスポーツなんて興味ないのに、「部活に入らないと内申書に響く」と言われて嫌々入ったバレー部のすべてが拷問(ごうもん)だった。

 毎日ガラスにヒビが入りそうな甲高い怒声で暴言を吐く部活顧問が恐ろしすぎた。機嫌が悪いと暴言は暴力になり、しょっちょう殴られたことも不条理すぎた。

 このように、中学時代の思い出の多くは暴力に彩られている。

 担任教師も「忘れ物をした」などの理由ですぐに暴力を振るった。

 新学期、赴任してきたばかりの新人教師は、「授業中に笑った」というだけの理由で男子生徒の髪を鷲掴(わしづか)みにし、教室中を引きずり回した。数日後、その教師は「最初に誰か血祭りにあげておくと大人しくなるから」と説明し、得意げに笑った。全校集会があれば、「髪が茶色い」と判断された生徒たちが、やはり教師に髪を鷲摑みにされ、体育館から引きずり出された。1980年代後半。生徒への暴力など、問題にすらならない時代だった。

 その上、当時はヤンキー全盛期。

 学校には、「中学生に見えない」どころか、反社会勢力の幹部にしか見えないような見た目(サングラスにパンチパーマ、リーゼントなど)の上級生・同級生たちが廊下や踊り場にたまり、非ヤンキー生徒たちへの威嚇(いかく)行動に励んでいた。女子ヤンキーは全員が工藤静香(当時のアイドル。ヤンキーに人気だった。現在、俳優の木村拓哉の妻)の髪型を真似、いつも不機嫌な様子で私のような「地味目」生徒を見ては舌打ちしたりした。

 猛獣(もうじゅう)がウロウロする檻(おり)の中にブチ込まれているような、生きた心地がしない日々。

 怖いのは、ヤンキーだけじゃなかった。暴力教師とヤンキーに怯えて神経をすり減らす日々の中、生徒たちは常に「生贄(いけにえ)」を求めていた。自分以外の誰かがいじめの対象になってくれれば、それが続いている間は安泰だからだ。そのターゲットにならないために、みんながみんな、薄氷を履むように息を潜めて過ごした。秒単位で変わる教室の空気を読み、自分のヒエラルキーに見合った表情やリアクションをしなければ、その日から命の保証さえないことをその場にいる全員が知っていた。だからこそ、「空気を読まない」人間には、そのことに対する罰かのように壮絶ないじめが待っていた。

「悪目立ちしないこと」「ヤンキーに目をつけられないこと」。学校にいる間中、このふたつだけでへとへとだった。なのに、一人でいると「一人でいる奴」として目立ってしまうので同性の友達も作らなければならない。それなりにいい友人関係を結べた時期もあれば、「束縛(そくばく)」してくる友人もいた。中には他のクラスメイトとちょっと話しただけで急に不機嫌になる「面倒な彼女」みたいな女子もいて、勘弁してほしかった。

 その上、勉強だってしなくちゃいけない。

 特に私は団塊(だんかい)ジュニアでやたらと人数が多い世代。よって、高校受験は熾烈(しれつ)を極めた。北海道の片田舎という僻地であったため、都会のように「滑り止めを受験する」という選択肢はなく、もし高校受験を失敗したら、そのまま自宅で浪人生活、もしくは働かなければならないのだ。よって、大人たちは私たちを過酷な「受験戦争」に駆り立てた。

 毎日毎日、何かに追い立てられているような日々だった。ほっと一息つける場所も、そんな余裕もなかった。

 学校では、毎日のように事件が起きた。

 ヤンキーが暴れたり、ヤンキー同士が喧嘩(けんか)したり、教師がいきなりキレて生徒を殴ったり、物が壊されたり誰かの持ち物が盗まれたり、隣のクラスでいじめに遭っていた女子生徒が授業中、泣き叫びながら教室を飛び出したり。そうかと思えばヤンキーカップルが廊下でいちゃつき始めたり。

 そこはもう、「野生の王国」だった。

 

「学校を休んではいけない」という呪縛

 

考えてみれば、小学校の頃から学校は決して「楽しい」場ではなかった。

 引っ込み思案で、一言でいえば相当いじめられやすい子どもだった私は、小学校に行くようになって、そこがまるで「無法地帯」のような場所だったことに驚愕した。

 大勢の子どもたちが野に放たれ、叫んだり走ったりと興奮状態にあることにまずビビった。自分も子どもなのに、予測不能な動きをする子どもたちがとにかく怖かった。しかもそれまでいた幼稚園と違い、子どもたちの多くは自分より随分身体が大きく力も強そうなのだ。入学当初は、突然走り出したり暴れ出す上級生の男子に体当たりされたこと数知れず。やはり入学当初、クラスの女子に「通せんぼ」されたことも鮮明に覚えている。気の弱さが全身から発散されているようなキャラだったので、すぐにナメられそんな目に遭ったのだろう。よくわからない絡み方をしてくる子どもたちが怖くて、とにかくみんな少し落ち着いてほしかったし、もう少し静かにしてほしかった。

 物心ついてくると、クラスにはいつも声が大きく、自分たちが世界の中心と思っているようなグループがあることに気づいた。そんなグループの生徒が私の机に腰掛けていたりすると、そのまま教室に入れずにいたりした。

 高学年になって女子同士でグループを作るようになると、いつも軽いパシリにさせられた。仲のいい振りをしながらも、いつも私だけランクがひとつ下だった。一方、なんでも言うことを聞く「家来」がほしい女子生徒に「親友契約」を結ばされ、奴隷(どれい)のような日々を送ることもあった。命令されてもパシリにされても嫌われたくなくて、いつもニヤニヤしていた。そうすればするほど私への扱いは雑になって、だけどそれも「仲がいい証拠」なんだと思おうとした。子どもの頃はアトピーがひどくて、露骨に汚いもの扱いされることもあった。小6のとき、登校すると自分の机に「死ね」と書いてあったこともあった。

 中学2年生のとき、部活でいじめを受けてからは、死ぬことばかり考えていた。

 夜寝る前、「どうか目が覚めませんように」と祈るように思い、翌朝、目が覚めるたびに絶望した。それでも部活の朝練に行き、無視や陰口の中、ひたすら感情を殺していた。それから授業を受け、また部活で陰口を言われバカにされ、家に帰ると猛勉強した。人はいじめに遭うと、大抵成績が下がる。それまで、私の成績はそれなりに上位だった。そのことによって、私は「親の望む優等生のいい子」として家での居場所を確保していた。それが「親の望むいい子」でなくなってしまったら。成績が下がるのが怖くて、私は深夜まで勉強した。すでに学校での居場所をなくしていた私にとって、家にも居場所がなくなってしまうことは死を意味していた。そうして深夜まで机に向かい、ほんの3時間ほど寝たら朝の5時。朝練に行くために起きなければならない時間だ。

 今思っても、この頃の私は病的な状態だったと思う。とにかく何も考えないよう、感じないよう、意図的に意識を濁(にご)らせていた。そうして部活を終えて帰宅する帰り道、いつ車が飛び出してくるかわからない交差点に自転車で猛スピードで突っ込むのが日課だった。無意識に、死に向かうような行動をとっていた。そんな中学時代で覚えているのは、登校しようとすると毎日のように鼻血が出たこと。玄関を開ける直前、または玄関を出て少し歩くと必ずと言っていいほど鼻血が出た。そんな経験は後にも先にもこのときだけ。結局、部活はやめた。それによっていじめは終わった。

 今、私はこの時期に不登校をしなかったことを悔いている。

 当時の私には、不登校なんて選択はなかった。「絶対に学校を休んではいけない」と本気で思っていた。どんなにつらくても、一日休んでしまったら行きづらくなり、そうなったらずるずるとそのまま学校に行けず、そうしたら高校も大学も行けずおそらく就職も結婚もできず、「普通の人生」というレールからはみ出して取り返しがつかなくなってしまうのではないか――。

 当時の私にとって、「一日休む」ということは、人生そのものを台無しにすることに等しかった。クラスには一人、たまにしか来ない男子生徒がいた。だけど彼はヤンキーに分類される生徒で、生徒も教師も彼に対しては「人生からドロップアウトしてしまった人」という目で見ていた。

 そうして、無理に無理を重ねて学校に行き続けた。そのことによって、しなくてよかった「嫌な思い」をしたことを、私は今も悔いている。されなくてよかったいじめ。聞かなくてよかった言葉。一生の傷となる体験。以来、人間不信と対人恐怖は刷り込まれ、それは今も私の中にある。

 

いじめから30年経ってもある「後遺症」

 

さて、高校生になっていじめっ子たちと違う学校になると、やっと極度の緊張を強いられる日々から解放されたという安堵(あんど)感で様々な「症状」が出るようになった。

 それまでフリーズさせていた感情が少しずつ「解凍」されたことによって、怒りや屈辱という感情が怒涛の勢いで湧き起こり、そのコントロールが一切できなくなってしまったのだ。なぜ、自分があんな目に合わなければならなかったのかと毎日のように情けなさと恥辱感に身悶(みもだ)えし、その気持ちを抑えるためにリストカットが始まった。同時に、当時流行りだしたヴィジュアル系バンドに過剰にハマり、ライヴに行っては追っかけを繰り返し、そのまま何日か戻らないという「プチ家出」をするようになった。

 学校に、友達はいなかった。というか、作らなかった。中学で受けたいじめで一番つらかったことは、友達が私をいじめる側に寝返ったことだった。それまで、リーダー格の女子のいじめの対象にならないよう、「仲良し三人組」でお互いを守りあっていたのだ。しかし、私がターゲットにされた途端、二人は寝返った。親友だと思っていたのに。当然といえば当然だろう。しかし、そのことは私の深い傷になっていた。

 もう二度と、学校で友達なんか作らない。そう決めた私が友人を作ったのは学校外。私と同じくヴィジュアル系バンドが好きで、ライヴハウスに通う女の子たちだった。ライヴハウスにいる子たちの中には、私と似たような子が多かった。学校や家に居場所がなくて、どこか深く傷ついている子がたくさんいた。そんな子たちとライヴに行ってはそのまま野宿し、家に帰らない日が続いた。私の住んでいた町にはライヴハウスなんてないから、片道1時間半かけてバスで札幌のライヴハウスに通った。他の子たちも、田舎からわざわざ札幌に来ている子が多かった。中には札幌に住んでいる子もいて、ときにはそんな子の家にみんなで泊まったりした。

 中学時代、「優等生」で表面的にはなんの問題もないように見えた私の「激変」を、親は当然、激怒した。特に母親は「中学のときのようないい子に戻れ」と顔を合わせるたびに迫った。だけどそれは、私にとって「死ね」と同義だった。なぜなら親が「戻れ」と言う時代の私は毎日死ぬことばかり考えていて、実際に死に向かう行動を取っていたからだ。

 いじめのことは親には隠し通していたくせに、「なぜ気づいてくれなかったのか」と逆恨みするようにもなっていた。親と私は顔を合わせるたびに「ライヴに行くな」「行く」「勉強しろ」「嫌だ」と不毛な喧嘩を繰り返すようになった。当然、居心地は最悪になり、私は家という居場所を失った。だからこそ、逃げるようにライヴハウスに通った。

一度など、ライヴに行ったまま帰らず、友人たちとマイナス13度の札幌で野宿したこともある。もはや家出というより遭難の域に達していたが、それでも、家にいるよりよっぽどマシだった。

 こんなふうだったけれど、高校はなんとか卒業した。プチ家出をしたときだけじゃなく、親との喧嘩で消耗しすぎて学校に行く気力をなくした日も多々あったけれど、日数が足りない分は補習を受けて卒業した。

 結局、18歳で上京、家を出たことによって親との関係は良くなった。

 しかし、高校生で始まったリストカットは、20代なかばまで続いた。そうして25歳で物書きデビューした私は、「生きづらさ」をテーマに執筆活動を続け、この十数年は格差や貧困という問題もテーマに加わった。

 デビューして20年の今、私は45歳。ということは、いじめから約30年。

 だけど、今も私の中には「後遺症」のようなものがある。

 今も人が怖いし、人間不信は消えていない。いじめっ子に似たタイプの声がデカい人などは大の苦手だし、同世代の女性全般にも苦手意識が強くある。また、実家に帰っても、決して一人で外を出歩かない。いじめっ子にもし会ったら、と思うとそれだけで目の前が真っ暗になるからだ。

 いじめっ子のみならず、地獄のような中学時代の同級生には会いたくない。会ってしまったら、あの頃の自分に引き戻されるような気がするのだ。そんなことありえないとわかっているのに、45歳の今も、自分が生まれ育った町を一人で歩くことさえできない。怖いから。

 そんな私は、おそらく地元に戻って暮らすことは決してないだろう。帰省だけでも怖いのだから。ということは、今後、親が病気や要介護状態になったとしても、「戻る」という選択肢はないのだ。ちなみに18歳で上京し、25歳で物書きとなるまで私はフリーターだったのだが、その間、親は何度も「帰ってこい」と口にした。しかし、私の中にはここまで書いたような理由から「帰る」という選択肢はなかった。地元に帰るくらいなら死ぬしかない、とどこか本気で思っていた。このように、いじめは人から故郷を奪う。そこに戻るという選択肢を奪い去る。まさか30年経っても恐怖が拭(ぬぐ)えないなんて、思ってもいなかった。

 

学校に行かなくても、選択肢が減らない社会って?

 

さて、たまに人は聞く。

「10代に戻りたい?」と。

 断言するが、私は絶対に戻りたくない。

 汗と涙と鼻水と、その他いろんな体液が「つゆだく」の季節。自分が何を求めているのかもわからず、友人関係が異様なほどに大切で、その友人と誤差程度のことでマウンティングし合い、空気を読むことばかりを強いられ、それだけでなく「将来」なんてものを人質にされながら重大な決断を次々と迫られ、親も教師もうるさいし金はないし恋愛なんかの圧もあるし。

 その上、学校は成績だけでなく、協調性や積極性なんてものまで求め、しかし一方では「余計なことは考えずにルールに従う生徒」に甘いというダブルスタンダードが標準設定だ。

 文部科学省の2019年度の調査によると、現在、不登校の小・中学生は全国で18万人超。少子化で子どもの数は減っているというのに、その数は増え続けている。

 一方、注目したい数字がある。それは2020年9月にユニセフが公表した、先進・新興国38カ国の子どもの「幸福度」を調査した報告書。

 それによると、日本の子どもは「身体的健康」では1位だったにも関わらず、生活満足度の低さ、自殺率の高さから「精神的な幸福度」が37位と最低レベルだったという。その背景には、学校のいじめなどがあると指摘されている。

 さて、本書では、学校から遠ざかった人々、学校のあり方に疑問を持ってそれぞれ独自の取り組みを始めた人々に話を聞いた。

「学校、行かなきゃいけないの?」

 今、そんなふうに悩んでいる人に、この本が届いてほしい。

 学校は、行かなくてもいい時代になりつつあるし、コロナ禍によってより具体的にオンライン学習など「学校に行かない学び」への門戸は開かれた。

 また、冒頭で私は「今、私はあの頃の自分に『すぐに逃げろ!』と言いたい」と書いているが、すでに不登校には「逃げ」というイメージもなくなりつつある。

 もちろん、学校が楽しい人は行けばいい。しかし、学校に行かないことであらゆる扉が閉ざされてしまうような「学校中心」の社会は、見直されるべきだと私は思う。学校に行かなくても、選択肢が減らない社会。今、目指すべきはそっちじゃないだろうか。

 本書には、多くの選択肢と先人たちの実践が詰まっている。

 この本があなたのお役に立てたら、これほど嬉しいことはない。

 

 

 

『学校、行かなきゃいけないの? これからの不登校ガイド』

 

 

『相模原事件・裁判傍聴記 「役に立ちたい」と「障害者ヘイト」のあいだ』出版。

『相模原事件・裁判傍聴記 「役に立ちたい」と「障害者ヘイト」のあいだ』

 

 

 

雨宮処凛 太田出版 2020年7月18日出版 1540円+税

 

「社会の役に立ちたいと思いました」

法廷で、その男は事件の理由をそう口にした。

2016年7月、19人の障害者を殺した植松聖。

全16回の公判の果てに2020年3月、死刑が確定----。

彼の目から見えていたこの「世界」とは?

 

 

目次

 

まえがき

 

1月8日 第1回公判

思ったよりも妄想がひどい?

検察による冒頭陳述/弁護士による冒頭陳述/翌朝、横浜拘置所にて指を噛みちぎる

 

1月10日 第2回公判

夜勤職員の調書

 

1月15日 第3回公判

遺族の供述調書読み上げ

美帆さんの母の手記

 

1月16日 第4回公判

遺族の供述調書読み上げ・続き

 

1月17日 第5回公判

証人尋問に元カノ登場

 

1月20日 第6回公判

植松被告、30歳の誕生日 「戦争をなくすため、障害者を殺す」

高校時代の彼女の供述調書/友人たちの供述調書/教育実習では高評価/衆院議長公邸前で土下座

 

1月21日 第7回公判

後輩女性の供述調書読み上げ

 

1月24日 第8回公判

初めての被告人質問で語った「幸せになるための七つの秩序」

新日本秩序/午後の法廷でも暴走/イルミナティカード/トランプ大統領を絶賛/「ベストを尽くしました」

 

1月27日 第9回公判

やまゆり園で虐待はあったのか?

「2、3年やればわかるよ」

 

1月30日 植松被告と面会

「雨宮さんに聞きたいんですけど、処女じゃないですよね?」

 

2月5日 第10回公判

遺族、被害者家族からの被告人質問

甲Eさん弟から植松被告への質問/尾野剛志さんから植松被告への質問/法廷が「やれたかも委員会」に/裁判員からの質問

 

2月6日 第11回公判

これまでのストーリーが覆る。「障害者はいらない」という作文

親との関係/「心失者」の定義/「障害者はいらない」/「テロ」とは言われたくない

 

2月7日 第12回公判

精神鑑定をした大沢医師が出廷

 

2月10日 第13回公判

精神鑑定をした工藤医師が出廷

 

2月12日 第14回公判

「大事な一人息子に私は死刑をお願いしました」

 

2月17日 第15回公判

美帆さんの母親の意見陳述

美帆さんの母親、意見陳述/検察から、死刑求刑

 

2月19日 第16回公判

結審の日

最後の言葉/裁判員のうち2人が辞任/3月15日 神奈川新聞に「障害者はいらない」という作文についての記事掲載

 

3月16日 判決言い渡し

「被告人を、死刑に処する」

判決文、要旨/判決後の記者会見 尾野剛志さん/やまゆり園・入倉かおる園長の会見/SOSだった?/31日、植松被告の死刑が確定

 

対談 

渡辺一史×雨宮処凛

裁判では触れられなかった「植松動画」と入所者の「その後」

 

あとがき

 

 

 

 

 

『ロスジェネのすべて 格差、貧困、「戦争論」』出版!!

2月20日、あけび書房より『ロスジェネのすべて 格差、貧困、「戦争論」』が出版されました。

私が熱烈に対談したかった倉橋耕平さん、貴戸理恵さん、木下光生さん、松本哉さんという4人のロスジェネと語り合った、あまりにも濃密な一冊です。自分で言うのもなんですが、メチャクチャ面白い本となりました。

 

以下に目次とまえがきを。

目次を読んで頂くだけでもこの本が伝えたいことがおわかり頂けると思います。

ということで、手にとって頂けましたらとっても嬉しいです!!

 

 

まえがき

 

序章 ロスジェネをめぐるこの十数年

 宝塚市の求人に1800人 

 ロスジェネは何を失ったのか

 私もロスジェネの一人

 出産のタイムリミットも

 政治から見捨てられるなんて

 あと10年早ければ

 ロスジェネと右傾化

 

第1章   ロスジェネと『戦争論』、そして歴史修正主義

はじめに

 私の「黒歴史」。なぜ、右翼に入ったのか

 とにかく死にたかった

 「生きづらい奴は革命家になるしかない!」

 何もないから「国家」

 『戦争論』からの20年以上

 『歴史修正主義とサブカルチャー』があぶりだしたもの

対談 倉橋耕平×雨宮処凛

 「新しい歴史教科書をつくる会」「日本会議ができるまで」

 求めているのは戦前回帰?

  『戦争論』をどう読んだか

 「自己啓発」としての特攻隊

 『戦争論』批判がなかった理由

 冷戦崩壊までさかのぼっておさらいします

 男性特権の喪失

 親がネトウヨ問題

 なぜ与党ではなく野党がバッシングされるのか問題

 「見たいものしか見たくない」に抗う方法

 

第2章   ロスジェネ女性、私たちの身に起きたこと

はじめに

 過去形のロスジェネ

対談 貴戸理恵×雨宮処凛

 ロスジェネの苦悩

 不登校と格差論をめぐって

 ポスドクの貧困問題

 生きづらさと当事者研究

 ロスジェネが奪われたものと「負けたら死ぬ」感

 共働き子育てという無理ゲー

 出産しようと思える条件とは

 「なぜ産まないのか」への回答

 孤立する母親

 不寛容な社会とマジョリティの生きづらさ

 社会の分断と同調圧力

 オーストラリアでの子育て

 ロスジェネのこれから

 

第3章   「自己責任」と江戸時代

はじめに

 日本的「自己責任の呪縛」

 江戸時代の自己責任論とは

 洞窟救出劇に見たタイ社会の寛容さ

対談 木下光生×雨宮処凛

 18世紀後半から出てきた被差別民への「自己責任論」

 新自由主義だけでは説明できない

 ヨーロッパの救貧の歴史

 江戸時代の「施し」と「制裁」

 「村に迷惑をかけた」という言い分

 国への迷惑、納税者への迷惑

 画期的だった(新)生活保護法

 江戸時代も今も変わらない「貧困イメージ」

 数百年続く自己責任論を超えるために

 

第4章   貧乏だけど世界中に友達がいるロスジェネ

はじめに

 「貧乏を楽しむ」達人、登場!!

 アジアの人々との連帯も

対談 松本哉×雨宮処凛

 中国人にQRコード決済の刺青を彫られる

 「法政の貧乏くささを守る会」

 大卒後に「貧乏人第反乱集団」を結成

 高円寺で「素人の乱」を始める

 伝説の「俺の自転車を返せデモ」と「3人デモ」

 高円寺に1万5000人が集まった「原発やめろデモ」

 3・11以降、アジアの人達との連帯を

 韓国に入国できずに強制送還される

 アジア反戦大作戦

 「NO LIMIT 東京自治区」で一週間アジア人たちと大宴会

 韓国、インドネシアでも「NO LIMIT」開催

 もう開き直るしかない

 

 

 

 

まえがき

 

 今から10年以上前、私たちは「ロスジェネ」と名付けられた。

 現在の30代なかばから40代なかばを指す。

 失われた世代。就職氷河期の影響をもろに食らった世代。貧乏くじ世代。非正規第一世代。呼び方はいろいろあるがどれも嬉しくないものばかりだ。

 ちなみに75年生まれの私は2020年1月、45歳になった。四捨五入したら50歳。同じ四捨五入をしたら50歳という枠には「サザエさん」の「磯野波平」(54歳)がいる。

 波平は正社員として勤めて世田谷に家まで建てて子も孫もいるというのに、私は独り身。当然子もなく孫もいない。

 そうして周りを見渡せば、いまだ正社員の職がなく、結婚もせず子どももいないという同世代が山ほどいる。一軒家を建てるどころか六畳一間の安アパート住まいという者もいれば、ネットカフェ暮らしの者もいる。低賃金ゆえ実家から出られず親と同居するものの、「このままでは数年以内に介護離職かも」と怯える者もいる。

 19年、こんな私たちの世代が「人生再設計第一世代」と名付けられた。

 はっきり言って、40代なかばになってまで自分たちに「就職氷河期」という言葉がついて回るなんて、誰も予想してなかった。20年以上も苦境が続くなんて、思ってもみなかった。バブル崩壊後の景気悪化は一時的なもので、すぐに自分たちは企業社会に吸収されていくものだと思っていた。そして自分も親世代のように、就職して結婚して子どもを産んで、という人生を歩んでいくものだと思っていた。

 だけど、中年になった今、そのすべてを手に入れていない。私も、周りの人々の多くも。

 

そんなロスジェネだが、「失われた20年」の中、厳しさを増す雇用環境の中を生きてきた私たちは、一億総中流が崩れた社会を走るトップランナーとも言える。

 ロスジェネと「今」について、存分に語った。

 

ロスジェネのすべて 格差、貧困、「戦争論」 あけび書房 1600円 2020年2月20日発売