シンガポールを作った人、リー・クワンユー氏が亡くなった。
東京都よりも小さな島国、シンガポールの独立を決め
もともと帰属していたマラヤ連邦(現マレーシア)よりも繁栄させる、という決意をもって
強力に、時に強引に政策を押し進めた人だった。

シンガポール建国の父、という報道がされているけれども
実際は、シンガポール国民の父だった、といったほうがいいかもしれない。
「タンを吐かない」「トイレは流す」「チューインガム禁止」など
近代国家を目指して、マナー向上のための法律をたくさんつくったことでも有名だ。
国民にとっては、「うるさい親父さん」的な存在だったように思う。

けれど、50年前の国土は、ほとんどはジャングルか高床式の小屋がならぶ村(カンポン)。
それをたった半世紀で、近未来的で豊かな都市国家に大変革させた手腕は素晴らしく、国民も
納得している感がある。「うるさくて強引だけど、結果は出してるから」という感じだろうか。

そのシンガポールにある大きな記念碑は、日本人にあまり知られていない。
名前を「日本占領時期死難人民記念碑」という。

日本軍がシンガポールを占領し、「昭南島」と呼んだ時期があったことすら知られていないが
その時期、日本軍による大量虐殺があったのだ
(人数は、日本側が認めるほうが相当少ないけれども、海が紅く染まったという逸話がある)。
りー・クワンユー氏本人も、危うく巻き込まれるところだったというエピソードは有名だ。

安部首相の戦後70年談話がどうこう、という話が最近、取り沙汰されているけれども
本当に「あの戦争」に対する態度を示すなら、日帰りでも、どんなにスケジュールがタイトでも
リー・クワンユー氏の国葬に参列するためにシンガポールに行くなら、この記念碑に
ぜひ参拝して、花を捧げてほしいと思う。

あなたはどう思いますか?
もし同意される方がいらしたら、
首相官邸に向けて、メッセージを送ってみませんか?

メール https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html
ツイッター @kantei
(ラインもあります)
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なぜかニュースを見ていると「中国の旧正月、春節」っていう表現があちこちに見られるけれど
太陰暦は日本で「旧暦」と呼ばれているだけだと思うので、この言い方は何だかおかしい。

華人(中国系人)にとって、年に一度のお正月と言えば春節であって、旧も新もないはずだ。

ところで、日本では今年、ことのほか華人観光客の大量の買い物が注目されているようだ。
「手当たり次第」「お金に糸目をつけず」大量にバンバン買っていく、というのが一般的な
イメージらしく、近年すっかり定着してきた

「爆買い」

という呼び方が、あちこちのメディアで使われている。

デパートや量販店などは、ここぞかき入れ時とばかり手ぐすね引いて待ち構えているようだ
けれど、一般の日本人は、何だかすごい買いあさり方だよね、という、やや冷ややかな見方を
しているような感じも受ける。

自分が観光地で育ったせいか、個人的には、あまりたくさんの観光客があふれる状態は好きでは
ない(正直、店が混んだりするのは日常生活の邪魔だし、高くても観光客相手に物が売れると、
物価が吊り上がってしまう)。けれども、華人の迫力のお買い物ツアーに関しては、日本に来て
たくさんの物を買いたい気持ちはよく分かるし、年に一度の正月休みに特に集中してしまう
のは、華人の人口を考えれば、仕方のないことだと思っている。

なぜなら、わざわざ日本に来てあれだけの買い物をするのは、日本に対する
信頼のあかしだから。

シンガポール人ですら(あちらで同じ物を売っているのに)「日本で買う」ことにこだわる。
その方が値段的に割安な場合もなくはないけれど、もっと重要なのは、「日本の店で売っている
からには、コピー品などではなく、ホンモノに違いない。品質も確かなはず」という信頼感だ。

海外では、たとえメイド・イン・ジャパンと書いてあっても、果たしてホンモノかどうか
信じ切れない部分が常にある。中国本土(中華人民共和国)では特に、食品や赤ちゃんのもの、
化粧品など、信頼できる安心安全な製品を手に入れるのが難しいという危機感が強い。日本人
から見れば、かさばる大量のオムツを買っていくのは不思議に見えるかもしれないが、自分の
子どもに安全なものをと願う気持ちは、切実だ。

わざわざ日本に旅行しなくても、海外に出店している日系の店で買うとか、日本から通販で
取り寄せるとか、すればいいのでは?と思うかもしれないが、経営が日系でも「品物が粗悪な
コピー品にすり替えられているのでは」「日本から発送と書いてあっても、事業者が信用
できるのかわからない」「輸送途中に何かあるのでは」といった不安がつきまとう。実際に
日本に来て、この目で確かめて買いたいという考えは、もっともなのだ。

日本で気前良くお金を使っている人々が、決してお金持ちばかりとは限らない。普段はとても
倹約してお金を貯め、本当に良い物を手に入れたいとやってくる人も多い。そして、自分の
ためだけでなく、親や親戚にも良い物を使ってもらいたいから何個も買っていく。

バブルの頃は、日本人がヨーロッパに行って高級ブランド品を買いあさり、現地でヒンシュクを
買っていたものだ。けれどあれば、あくまで自分のためにぜいたく品を手に入れたいという
人が中心のブームだった。

自分や家族のために、品質が良く安心・安全な物を手に入れたい、という理由でお金を使う
ことの方が、私にはよほど理解できる。
今月は、阪神淡路大震災から20年、という話題が大きく報道され、災害の記憶が風化しないよう
伝え続けることはもちろん必要なのだろうけれど、当時の映像を繰り返し見ていると、やはり
あの時の暗く不安な気持ちがしきりに思い出されて、辛いものがあった。

それにしても、あの地震の発生メカニズムすら、いまだ明確にされていないとは驚きだ。

地震にしろ火山にしろ、「予知」という言葉を使うのは、もうやめたほうがいいのではないか。
「予知」という言葉からは、確実な(科学的)予測が可能、という印象を受けるけれど
今のところ、科学研究がそのレベルまで到達しているとはとうてい思えない。
「予想」とでも呼んだほうが、適切ではないだろうか。

そして、「防災」(災害を未然に防ぐ)ことが現実には不可能だという事実もまた
東日本大震災でも、その後の大きな災害でも、繰り返し私たちに突きつけられている。

被害を完全に防ぐのではなく、いかに減らし、最小限にとどめるか。
つまり「減災」こそ、現実的な目標なのではないだろうか。

そして今、世間が人質事件で騒然としている中、「日本ではこのようなテロが起こる心配は
ないのでしょうか?」という質問が、ニュース番組の中などでしきりに口にされるようになり
普段は一日何度もニュースを見ている私もさすがに、嫌気がさしてテレビを見るのをやめた。

ほんの20年前、首都がテロ組織に毒ガス兵器で攻撃されたのは、一体どこの国だったっけ?

イスラム教徒だけが過激派と結びつくかのようなほのめかしには、もう、うんざりだ。
歴史的に見ても、どんな宗教にも過激な思想を持つ人や集団は存在していると思う。
自分と異なる思想や信仰に対しても、敬意を払うのは当たり前のことだ。

原発事故の時にも驚いたけれど、日本ではなぜ「100%の安心安全」を求める人が多いのだろう。
可能な限りリスクを減らすことはできても、決してゼロにすることはできないのに。

「100%安全」と言ったとたん、それは単なる気休めになってしまう。
それどころか、安全だという錯覚は、むしろ危険な油断に結びつく。

---関西では大きな地震がないから。
どんな大津波にも耐える巨大な防波堤を作ったから。
厳重に管理されている原発で、事故など起こらないはずだから。
日本は治安のいい国だから---

そうやって安全を過信したことで、むしろ危険と被害は大きくなったのではなかったか。
あの経験を、みんなもう忘れてしまったのだろうか?
お久しぶりです。

今年後半も相変わらずの多事多難ぶりで、ブログに向かう余裕もなく過ごしていました。
先週も、自転車ごと転倒してあざだらけになり、今も体がとってもカラフル。
手術から思うように回復できておらず、もとから危うい運動能力が更にガタ落ちなのです。

クリスマスはどんな風に過ごされたでしょうか?

私は、季節に合わせて放送された映画「7月24日通りのクリスマス」に
思いのほかぐっときました。

単なるおしゃれで軽~いロマンチック・コメディだろうと想像していたけれど、違った。
若い盛りの時代をすでに過ぎ、恋に恋するだけの「安全な世界」に引きこもっていたヒロインが
次第に、自分が本当に人生に望んでいるものは何なのだろう?と考えはじめ、現実世界には
必ずリスクがあるという事実を(不安を抱きながらも)受け入れてリアルを生きはじめる物語。

その不器用な姿は、紆余曲折を経てどうにか50代に近づき、心身共に「もう若くはないなぁ」
と感じることが多くなり、「人生に残された時間をどんな風に過ごしたいのか」について
最近しみじみと考えるようになった自分にとって、何だか身につまされるものがあった。

そして、ヒロインが最後に思うのは......

たとえ実現しそうにないような望みであっても、望みを持つことこそ大事ではないか。
なぜなら、何も望まなければ、失望しないかわり、決して何も得ることはできないのだから。

うーん。

痛いところを突かれた気がする。

他の人には当たり前に出来ることでも、自分にはうまくできないことが色々とあるのは事実。
そうしたことは、自分のある種の(「発達障害」や「自閉症スペクトラム」と呼ばれる)
特徴の一部が原因だったり、ずっと抱えている「うつ」に邪魔されていたりするのも事実。

だけど、それを言い訳に「こういうことは苦手だから、無理だから」と手を出さなかったり、
さっさとあきらめてしまったりしたことが、私の人生にはいくつもあったように思う。

「こんなことやあんなことが、出来たらいいのになぁ」と漠然と思うだけで、
「やってみたい!」と本気で望み、失敗するリスクをも受け入れてチャレンジすることを
避けてはいなかっただろうか。

今の生き方に、自分は納得できるのだろうか?
そもそも失敗するって、そんなに恐ろしくて悪いこと?

毎日は、誰にとっても残りの人生の最初の一日。
いつもいつも、そのことを忘れないようにしたい。

来年が、希望の年でありますように。

どうぞ、良いお年をお迎えください。


御嶽山噴火から、一ヶ月。
いまだ行方不明の人々が残ったまま、山に早くも冬が来てしまったのは
本当に辛いことだ。

あの時、真っ先にニュースに飛びこんできた視聴者映像を見て
「これを撮っていた人は無事だったからこの映像が入ってきたのだろうけど、周囲で同じように
噴煙を撮影していた人たちがきっと何人もいたはず...一体どうなった?」と考えて、ひどく
恐ろしくなったのを思い出す。

今回の火山の噴火に限らず、最近ではスマートフォンの普及もあって、自分に向かって竜巻が
迫って来るとか、乗っている船がどんどん沈んでいくとか、明らかに大変なことが起きている
危険な状況で撮られた映像(動画)を目にする機会が、とても多くなったような気がする。

そして、そういう映像を見るたびに、私はその衝撃的な内容についてどうこう、というより
何より、撮影者に向かって

「そんなもの撮ってないで、早く、早く逃げろーっ!!」
と叫びたい衝動にかられてしまう。

だって、撮影している人は火山学者やツイスターハンターじゃないのだ。
危険な状況に巻き込まれたら、何よりもまず全力で自分を守り、できれば周囲の人とも協力して
可能な限りその場にいる皆の身の安全を確保することが、最優先にこなくちゃいけないのでは?

私はそんな危機一髪の場面に遭遇したことがないから、わからないだけかもしれないけれど
衝撃映像を撮影している場合じゃない、といった切実な危機感は、意外と感じにくいもの
なのだろうか?

衝撃的な「視聴者映像」を目にするたびに、気になってしかたがない。
何か凄い映像が撮れそうだ!と思って撮影を続けているうちに逃げ遅れてしまう人が、
実際に出ていたりは、しないのだろうか?

あなたなら、撮る?それとも、逃げる?