運転免許を試験場の一発試験で取得した男の話…第1話。 | Aki's Direct Reporting

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【第1話】失われた免許と友情 …3年E組8番、について語る…

…えらくストレートなタイトルなのですが(私には珍しいことだ。)
ようやくこのことについて話ができる日が来た、というわけなのです。

2004年12月9日…この日は本当に忘れられない日になりそうです。
ついに運転免許証を取り返しました!…正確には12月20日頃になると思うけど、二俣川の試験場で受験した普通1種の技能試験についに合格したのです。

教習所全盛の時代になんで試験場で?という疑問を持つ人もいるでしょう。そもそも「免許を取り返した」ってどうゆうこと?みたいなね。
…今日はその辺の背景を話してみようと思うのです。

2001年2月16日…これも二俣川での話。
関東自動車学校溝の口校をその前日に卒業した私は、すぐさま神奈川県の免許センターである二俣川試験場に行って学科試験を受験して、そして、世の中で運転免許を持っている人の99%がそうであるように(←あくまで推測)、いわゆる教習所卒業生が経るべきプロセスを経て運転免許を手にしたのでありました。

こんなカード1枚のために30万円かよっ!などと思いつつも嬉しい気持ちを抑えられないまま相鉄で二俣川を後にした、という記憶が残っています。

そしてその夜…調子に乗った私は武蔵小杉のニッポンレンタカーでVitzを借りてドライヴに出掛けたのでした、そのとき助手席に乗っていたのが今回のもうひとりの主人公である3年E組8番なのです。
…ちなみにこの日の夜、ドッキリと称して西調布や永福町のとあるアパートに神出鬼没状態で登場するも目的の人物がどっちもいなくてしょんぼりした、という秘話もあったり…。

…免許を手にしてから変わったこと、まぁやっぱり身分証明書に事欠かなかったのは大きかったですね。あと実家に帰ったときは思う存分運転したり、あと高速道路の星として九州自動車道の鹿児島~太宰府間を行ったり来たりしたり…それなりのドライブ経験を積んでいたのでした。

時は少し流れて…。
2002年5月12日。私は新たなる交通手段を手に入れたのでした。
原付…普通免許を持っていれば資格としてくっついてくるアレですね…を3年E組8番から買い取ったのです。理由は…3年E組8番が自動二輪の免許を取得し、そして250ccの単車を購入したことで原付が不要になったから、というもの。

当時は相模原に住んでた私。3年E組8番の住んでいる文京区からはるばる40Kmのロングトリップを原付初体験ながらこなしたのでした。それからというものライフスタイルは大きく変わり…酒さえ飲んでいなければ終電なんて関係ない生活を送り始めたのでした。現に片道20Kmの道のりである日吉まで夜中に遊びに行ったりしてましたから。

それから約2ヶ月…7月に三軒茶屋に引っ越して、ますます原付を使いやすい環境へと変わっていったのです。渋谷まで3Kmですからね…R246をひとっ走りすれば(だいたい7分くらい)渋谷駅南口の東急プラザあたりに着くわけだから。ちょうど深田恭子のルート246って曲がリリースされた頃だったっけ…。

しかし、その7月に私の運命を大きく変える事件が起こったのです。

私の乗っていた原付、それは正真正銘50ccの原付1種(つまり普通免許所持者なら誰でも乗れる、ということ)だったのですが…文京区役所での登録がそうなっていなかったのです。

少し詳しく説明します。
原付には2種類あるのです。原付1種というのは50ccまでの原付で、ナンバープレートは白地なのです。一般的に原付というのはコレのことを言うのですが、原付1種というのは制限時速が30Km/hだったり、二段階右折義務があったり、と何かとメンドーな乗り物だったりするのです。
もうひとつの原付とは何か?…原付2種と呼ばれるものがあるのです。これは排気量が50ccから125ccまでのバイクのことで、これを運転するには「自動二輪免許(小型)」が必要なのです。125ccまでのバイクは届出を市町村役場にするので(それ以外のバイクとか自動車は陸運支局ですね)、便宜的に原付2種と呼ぶようです。ナンバープレートが黄色とかピンクの原付って見たことないですか?あれが原付2種です。

原付2種というのはなかなか魅力的な種別だったりします。
制限速度とか右折方法は自動二輪に準ずるので、最高速度は60Kmになり、せいぜい高速道路を走れない、という点を除けば二人乗りだって可能なのです。
しかも税金が安い、という特徴もあるのです。原付1種と200円しか変わらない、ということで、125cc以上のバイクの半分くらいになるようです。

それでは、文京区役所での登録が違ってた、というのはどういうことか?
…「もともと50ccのエンジンを積んでいる原付1種のバイクのエンジンを改造した結果、排気量が50ccを超えた」という感じでバイクを登録している市町村役場に届出をすることによって、もともと原付1種だったバイクを原付2種として登録しなおすことができるのです。つまりナンバープレートを白地から黄色もしくはピンクに交換してもらう、ということなのですが…。

この制度にはちょっとした法律の穴があるのです。
『エンジンを改造したというような届出をする際に、その当該車両を役所の担当者に見せる必要がない』という点…つまり、実際は改造なんかしていないのに、「改造した」ということを証明できる書類が準備できたら、実際の排気量は50ccより少ないのに原付2種として登録することができてしまうのです。(もっとも最近はこの手法が出回ったせいで厳しくなったらしい、という話も聞きますけど)
これをすることによって、排気量50cc以下の原付1種の車両なのに二人乗りや制限速度の引き上げが可能になるわけです。

3年E組8番から購入した原付がまさにこの状態だった、というわけなのです。
これは立派な犯罪なんですけどね…虚偽申告、みたいな。

私が原付を買い取るときに「登録を相模原市でやり直したい」と3年E組8番に言ったのですが…一度、原付2種にしたバイクを原付1種として登録しなおすのは面倒だから、と言って断られたのが大きな間違いの始まりでした。

そもそも『原付2種には普通免許では乗れない』という事実すら知らなかった私…(ま、これは不勉強だったんだけど)。悲しいかな、罪の意識なんてこれっぽっちもない状態で『登録上は原付2種になっているバイク』を乗り回していたのでした。

さて…2002年7月に話を戻しましょう。
2002年7月16日、午前3時。私は渋谷で3年E組8番とカラオケに行き、そこで3年E組8番と別れた後で日吉に向かっていた時の話です。ちょうど台風が近付いてる夜でした。

渋谷から代官山に抜けて、駒沢通りを進み、東京医療センターのところから自由通りを通って中原街道へと抜けようとしていたところだったかな…目黒通りと自由通りが交差する『中根』の交差点にある交番の前で警察に呼び止められたのでした。

そして運転免許証を警察に提示して…そのときに自分も初めて『(登録上は)無免許運転』をしていた、という事実に気付いたのです。私はそのまま碑文谷警察署に連れて行かれ、赤キップを切られたのでした…。
警察から解放されるためには身柄引受人が必要で…3年E組8番に電話をかけて碑文谷警察署まで来てもらい、身柄引受人になってもらったのです。もちろん私としては「このバイクは実際は改造していないから、車両は原付1種に他ならない」ということを証明してもらおう、という意図があって3年E組8番を呼んだのですが。

しかし…その希望はあっさりと打ち砕かれました。
「このバイクは改造車なの?」という警察の問いに対して3年E組8番は「そうです」と答えたので…この時点で3年E組8番の虚偽申告はお咎めなし、登録が原付2種になっている実際は50cc原付に乗っていた自分にすべての罪がかぶったのでした。

その後、私は錦糸町の交通裁判所で簡易裁判を受けて罰金15万円を支払うことになりました…もちろん即金で出せる金額のはずもなく、3年E組8番にも2万円を借りることになったわけなのですが…そのお金を渡しに来た時の3年E組8番のセリフが今でも忘れられません…「赤キップってことは…前科になるんだよね」、と。

この日を境に3年E組8番と連絡を取ることはなくなりました…15万円も支払った後だったら生活が苦しくなることくらい予想がつくでしょう、でも3年E組8番は9月末に「今月苦しいから2万円返して」とメールしてきたのでした…悔しいのとこれ以上関わりを持ちたくなかったのとでさらに人から借りてすぐに返済しましたけど。

しかも8月のある日、家の前に止めていたバイクが盗難されたのでした。
私としては、このバイクが唯一自分の無実を証明するための証拠になり得るもので、警察に排気量を調べてもらえば50cc以下であることは明らかになり、3年E組8番の虚偽申告を証明することもできる、と考えていた矢先に忽然と姿を消したのです。
…人を疑うのは良くないけれど、でも私はバイクを盗んだ犯人は3年E組8番じゃないかな、と疑ってたりします。

罰金を払ってこれで済んだのかな、と思ってた10月1日…。
すごい雨の日で、外出もせず家で寝ていたのですが…ふと玄関を見ると「府中の免許センター」からの郵便物が来ていました。

その文面は…「運転免許の違反累積点数が免許取り消しの基準に達しているので、意見の聴聞を行うから出頭せよ」という内容でした。…目の前が真っ暗になる、というのはまさにこのことでした。物証を提出して自分の潔白を証明しようにもバイクそのものが盗難されてしまった以上、そんなことは不可能で…、あとは聴聞で自分の無実を訴えるしかない、と考えざるを得ない状況になったのでした。

そして運命の2002年10月11日。
府中にある免許センターへと聴聞に向かった私。とりあえず自分の言いたいことをレポートにしてまとめて提出したりしたのでした。

しかし…その努力も空しく、私の免許の取り消しが決定したのです。
2003年10月10日まで免許取得の欠格期間を指定されて…。
このときばかりは世の中のすべてを恨みました。

免許がなくなった、という事実を親に伝えるわけにもいかず…。
いかに親に内緒で免許を取り戻すか、ということを悩み続ける日々が始まったわけです。

そして…二俣川で技能を格闘する日々が始まるのですが、その話はまた明日。

…免許は取り返せたけど、失われた友情は戻ってこないでしょう。これが今日の言いたかったこと。