乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ -141ページ目
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ジャガーXJ13








1950年代、CタイプとDタイプでスポーツカーレースを席巻していたジャガーも、1960年代に入ると量産GTカテゴリーのEタイプが孤軍奮闘していたものの、次々と新型マシンを送り込んでくるフェラーリとポルシェの前に肝心のスポーツカーレースでの影は薄くなる一方だった。


特にDタイプが旧式化してしまってからというもの、いわゆるプロトタイプに相当するモデルの開発に完全に遅れを取ってしまっていたこともあって、世界耐久選手権での総合優勝は夢の彼方に。1955年から1957年までのル・マン24時間レースにおいて記録したDタイプによる破竹の3連勝も、もはや記録の中だけの存在になりつつあったのである。


もちろんジャガーの開発陣も漫然と指をくわえて状況を眺めていたわけではない。1960年前後からは社運を賭けた新たなプロトタイプカーの試作に着手していたものの、慢性的な経営難がその前に立ち塞がっていたのである。


ジャガーの新型プロトタイプは、数種の試作案を経て1964年頃には一応の決定案というべき図面が完成していたと言われている。ここで相当の刺激となっていたのは、1963年に発表され大きな注目を集めていた「ローラGT」、さらには「19」から「23」を経て「30」に至っていた一連のロータスのレーシングスポーツカー群である。


ロータスがクーパーに続いてミドシップを採用したのが1959年の「18」でのこと。フォーミュラの「18」を発展させたのが翌1960年に発表されたスポーツカーの「19」であり、時代はイッキにミドシップへと向かう様相を呈していた。

大排気量エンジンを搭載したフロントエンジンレースカーで一世を風靡したジャガーではあったものの、この期に及んでフロントエンジンに固執する理由はまったく無かった。その結果、ジャガー初のミドシッププロトタイプとして計画されたのが、後にXJ13と呼ばれることとなるレースカーだったというわけである。


ルックスはEタイプをミドシップ化しただけにも見えたものの、その中身はというとアルミとスチールを適宜併用したセミモノコックというべきもの。サイドシル部を燃料タンクとしたデザインはローラGTに良く似ており、特に強い影響を受けていたのは明らかだった。エンジンは新設計の5リッターV型12気筒DOHC。最高出力は500psオーバーは確実と言われていたこともあり、4リッターV12を搭載していたフェラーリ330Pを上回る最強のミドシッププロトタイプがいよいよそのベールを脱ぐこととなったのである。


しかしジャガーXJ13には運が無かった。新たにジャガーの親会社となっていたブリティッシュ・レイランドは金食い虫のワークスレース活動には甚だ否定的であり、新車の発売成績向上が期待できたEタイプのプライベーター支援はともかくとして、海の物とも山の物ともつかないプロトタイプに資金を投入する気などさらさら無かったのである。


こうして設計が終了していたXJ13は製作に着手されることもなく、そのまま計画自体が長く放置されるという事態が1年余りも続くこととなったのである。


1966年3月、紆余曲折の末にジャガーXJ13はようやく最初の1台が完成を見た。しかし肝心の走行テストとなると、ほとんど実施の見込みは立っていなかった。こうした状況を誰よりも心苦しく思っていたのは車両実験部のチーフを務めていたビル・ヘインズでり、彼はジャガーの代表でありカリスマ創業者でもあったサー・ウイリアム・ライオンズに何度も走行実験の実施を進言したものの、予算不足を理由に拒否され続けていた。


ある日のこと、ヘインズはチーフテストドライバーであり有能な部下でもあったノーマン・デヴィスにXJ13のテスト開始を命じた。困惑するデヴィスに対して、ヘインズは「そこにクルマがあるのにテストしないのはエンジニアとして恥である。責任はすべて私個人が負う。」と話したとも伝えられている。


数週間後の日曜日、ファクトリーから密かに運び出されたXJ13はMIRA(Motor Industry Research Association)テストセンターの高速周回路にあった。ここでデヴィスの手に託されたXJ13はストレートでの最高速度175mph、周回平均速度161.6mphを記録した。まったくのシェイクダウンとしては望外の好成績だったと言って良いだろう。事は秘密裏に進めていたものの、人の口に戸は立てられない。秘密のテストを行ったという事実は間もなく多くの関係者の耳に届き、その結果として数日後にデヴィスとヘインズはライオンズのオフィスに呼び出された。


サー・ウイリアム・ライオンズは自動車会社の経営者である以前に自他共に認めるクルマ好きだった。最初は厳しい叱責を繰り返していた彼も、熱心にテストの必要性とXJ13の可能性を訴えるデヴィスとヘインズに心を動かされ、最終的には開発作業の継続を許可することとなった。ただし作業を行うのは休日のみという約束である。


数週間後の日曜日、XJ13は再びMIRAにあった。前回は秘密のテストだったものの、今度はライオンズ立ち会いの公式テストである。デヴィスとXJ13はここでも前回と同様の素晴らしい走りを披露した。しかし走り込むにつけデヴィスはXJ13はまだまだレースカーとしては未完成であり、戦闘力を得るためにはかなりの時間が必要なことも実感したという。しかし熟成のために許された時間は週末のみ。当然のこととして潤沢な資金など望むべくもなく、開発作業は以後1年間に渡って行われたもののなかなか進展を見なかった。


そして運命の1967年夏、FIAは翌1968年度からグループ6スポーツプロトタイプの最大排気量を3リッターに制限するという車両ルールの変更を発表する。これによって5リッターのXJ13はグループ6としてレースに参戦することが不可能となってしまった。なお25台の量産規定をクリアし、グループ4としてのホモロゲを取得すれば参戦可となる道も残されていたが、この時点でジャガーにとっては基本的にお荷物以外の何物でもなかったXJ13の量産化など望むべくもなかった。


こうしてジャガーXJ13は最終的に開発中止が申し渡されることとなった。


1971年の秋、ジャガーは翌1972年モデルからEタイプにV型12気筒エンジンを搭載することを決定した。このエンジンこそはXJ13のために開発されたレースエンジンをSOHCに改修しストリート向けにディチューンしたものだった。新型Eタイプのセールスプロモーションを前にジャガーの首脳は倉庫にしまい込まれて久しかったXJ13を使うことを思いついた。12気筒のバックグラウンドには諸般の事情でお蔵入りとなったミドシップスポーツプロトタイプがあったことを積極的に活用する道を選択したのである。


1972年1月20日。XJ13はプロモーションフィルムを撮影するために久しぶりにデヴィスの手でMIRAを走ることとなった。しかしロクにメインテナンスもせずに3年以上もしまい込まれていたXJ13にとって、この走行は過酷な負担を強いるものだった。XJ13は140mphでバンクを走行中に疲労限界に達していたリアホイールが破損、そのまま大クラッシュしてしまったのである。


デヴィスは奇跡的に大きなケガを負うこともなく脱出に成功したが、XJ13は完全に破壊された。手塩に掛けたXJ13の最後を目の当たりにした関係者は、完全なジャンクと化したXJ13を廃棄する気にはなれなかった。そして2年後、XJ13はほとんど新造に近い作業と共に修復されることとなったのである。


シャシーはオリジナルの図面と治具と共に正確に修復され、ボディもまたオリジナルをワンオフで製作したアビーパネル社の手で残されていた木型を使って新造された。唯一オリジナルの入手が不可能だったのは、その時点で既に型が廃棄されてしまっていたマグネシウムホイールであり、こちらは似た物を見つけ出して加工された。


ジャガーXJ13は今日も各地のイベントなどに出掛けていっては多くのジャガーファンを熱狂させている。レースでの活躍は結局適わなかったものの、クルマの余生としては幸せな方である。またこのクルマの悲劇性に憧れる層も少なくないとあって、数種のレプリカモデルが作られているのはレースでの実績がまったく無いモデルとしては異例のことでもある。


写真は1997年度ペブルビーチ・コンクール・デレガンスにて。








固有名詞から一般名詞へ



雪上車という特殊車両がある。こうした車両のことをアメリカでは総じて「スノーキャット」と呼ぶことが多い。スノーモービルという単語もあるが、この場合はもっと小さいモーターサイクルの様なモデルを指す場合がほとんどである。実はこのスノーキャットが「SNO-CAT」という固有名詞なのである。


これはまあ言ってみれば、日本におけるスーパーカブのごとく、非常に良くできた商品の固有名詞が一般名詞に転じた例と言って良いだろう。


スノーキャットは1940年代の初めにカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のグラスバレーで創業した。創業者の名前はE.M.タッカー。映画にもなった同姓の自動車エンジニア、T.P.タッカーとは無関係である。


タッカーが生まれ育ったのはカリフォルニア州の北にあるオレゴン州グランドパス。山間部ともなれば冬は雪深く、機械いじりが大好きだった少年時代のタッカーは冬の物資及び人員の輸送に苦労している土地の人々の苦労を前に、効率が良くしかも安全な雪上輸送法の研究に着手することを決意したといわれている。


タッカーはあくまでアマチュアではあったものの、1892年生まれの彼が20代だった1920年代の初めにはスクリューフロート式のスノーモービルを完成させたが実用性は低かった。らせん型のリブを表面にモールドした大きな回転フロートを縦に2つ配置し前進するというこのメカは後にフォードが注目することとなりフォードソン・トラクタ用のアタッチメントとして商品化されたがメジャーにはならなかった。





タッカーの雪上車はその後研究も進み、1930年頃になると自動車用のアクスルシャフトをベースに大きくスイングするオムスビ形クローラをセットしたシステムの基本形を完成させていたといわれている。


というわけで一番上に掲げた写真の製品がタッカー・スノーキャットである。年代は1950年代半ばくらいか。この形態自体は戦前のモデルから余り変わっていない。


特徴的な4つのクローラ、フレーム、アルミ製のボディはタッカーオリジナル。エンジン、トランスミッション、前後のアクスルケースはダッジのものを流用していた。


当時のアメリカにおいて、既にクローラ(キャタピラ/これも商標が一般名詞に転換した例の一つである)を装備したトラクタが相当数普及しており、ごく当たり前の様に冬季には雪上車的用途に使われていたもののその機動性は極めて低かった。対してスノーキャットは事実上雪上では自動車と変わらない機動性と抜群の走破性を披露したのである。


そしてその優秀性を高く評価されたスノーキャットは1957年11月から1958年3月に掛けて行われた英国隊による世界初の南極大陸縦断冒険行に採用され、隊を成功に導く上で極めて大きな役割を果たすこととなった。


以来、スノーキャットはアメリカにおける雪上車の代名詞として親しまれることとなったのである。現代、タッカー・スノーキャット・コーポレーションは創業者の生まれ故郷に近いオレゴン州メドフォードで雪上車の先駆者であるという自負と共に各種雪上車を作り続けている。

黎明期のターボエンジン



オハイオ州デイトンのUSAFミュージアムでひっそりと展示されている「リバティV12航空エンジン」。

このエンジンは第一次世界大戦開戦後の連合国側における深刻な航空機エンジン不足をカバーするため、

パッカードとホール・スコットという当時のアメリカを代表する高性能エンジンメーカーが手を携えて開発したもの。


この個体はその試作バリエーションの一つとして製作されたものであり、1920年代初めとしては極めて珍しいターボ装着型となっていた。丸い部分がターボ、その右側の箱状のモノは空冷式アフタークーラー。機械式過給機との併用ではなく、ターボ単体での過給システムだった。


後にアメリカは1930年代半ば以降からターボと機械式過給機を併用した二段過給エンジンを多数実戦配備に付けることとなるのだが、その先駆というべきエンジンがこの個体である。








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