ホロスコープを眺めるとき、

その、ホロスコープ上にあるものは

既に許されてそこにあるのだと


私は

すうっとそんな気分になる。



法が許さないと言おうが

人が許さないと言おうが

私が許さないと言おうが

自分が許さないと言おうが


既に許されてしまったものしか

そこにはないのだろうと

そんな気分になる。


もちろん、真実がそうでなくてもいい。

私がそんな気分になるだけだ。



そして、

私が何かを許せようが許せなかろうが

誰かが何かを許せようが許せなかろうが

それは、私にはどうでもよくなる。




私は ホロスコープを見ると

「いいこと」「わるいこと」「吉」「凶」

が、分からなくなる。


そして

「誰もが真摯に 自分を生きているのだなぁ」

と思う。



そして、私や誰かが

「自分は真摯に生きられてなどいない」

と嘆くことが

どうでもよくなる。




多くの賢人たちのように

「すべては完璧である」とは言わない。


いいわるいの概念が消えると

いいわるいに基づいた「完璧」は分からなくなる。


おそらくその「完璧」を

私は違う言葉で感じるのだろう。


多くの賢人たちが言う「完璧」を

もし私が感じることができたなら


私は

大きなよろこびと

大きなせつなさを感じながら

「どーしよーもねぇなwww」

みたいな言葉を発するのだろうな と

うっすら、予感している。



そんなふうに

ホロスコープを眺める時間が


くるしくて、たのしい。