akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

新居宮池は今

楠尾神社への車道から見る宮池。

 

楠尾神社への車道から見る水上展望台、宮池の遊歩道から見る水上展望台

 

宮池の遊歩道から見る鷲ノ山に懸かる雲と宮池の水面。

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-101  Orignal掲載日:Vol.195 (2013.06.30)

「個人サバイバルの力」を身につけ…。

 

いまや「安定」という言葉は消え去り、過去の成功体験も常識も通用せず、個としてのスキルを磨いていくしか生き残る道がない時代を迎えている。

一流大学から有名企業に就職し、出世ルートに乗る」「高収入を得たいなら、外資系企業で働く」「サラリーマンでなく個人でやるなら起業する」お決まりのコースから外れた人こそ成功への道が開かれる「個人サバイバルの時代」である。100年に一度と言われる未曾有の大不況に、100年に一度のチャンスを迎えたのだが、このピンチをチャンスに出来るのか。

 

このような大きなうねりから逃げられない以上、エスカレーターではなく、自分の足で階段を上らなければならない。

いや、階段ではなく、山を見つけて道なき道を、しかも一人で登らなければならない時代だ。

道のりは石ころだらけかもしれないし、楽なコースだと思っていたのに、目の前に崖が立ちふさがるかもしれない。

足腰を鍛えなければならないし、急な天候異変に耐える準備と覚悟が必要となる。

また、沢山ある山のうち、どの山に登るのかも自己責任で決めなければならない

 

エスカレーター時代は、自分の希望するものに乗るには学歴などの「切符」が必要であった。

また、一端、一つのエスカレーターに乗ったら「やっぱり向いていない」と思っても、乗り換えは大変であった。

しかし、一人登山であれば、自分が登ると決めれば切符など必要とせず、またいつでも登れる。

違ったと思えば迂回し、別の山に登ってもかまわない。

全員が一つのゴールを目指すエスカレーターと違い、「山の中腹のほうが自分に適した場所だ」と判断すれば、なだらかな草むらを自分のポジションに決めてもいいのだ。

 

企業に依存してしまえば、個人サバイバルのスキルを磨く機会が奪われる危険がある。

一人で泳ぎ抜く力がなければ、「リストラしない代わりに、給料を二十%カットとする」などと一方的に言われても、黙って従わざるを得なくなる。どの船に乗るか乗らないか。今の船に乗り続けるか、別の船に移るか。一人で船を待つか、一人で泳ぎ抜くか。無数の岐路に立つ大きなうねりのなか、個人でサバイバルする力がなければ、選択して行動する自由が奪われ、せいぜいできるのは波を避けようとすることだけとなる。

個人でサバイバルする力さえあれば、大きな波に自分から乗っていくことが出来、予期せぬ事態が訪れたとき、それをチャンスに変えて新たなキャリアをつくることができる

 

米国のある教授の「計画的な偶発のセオリー」という論があるが、その教授が「今のキャリアはどうやってできたか?」の質問に、八十%の人が「予期しない偶然でてきた」と答えているそうだ。安定がない時代、「予期せぬ偶然」は、誰の身にも、何度となくふりかかってくる。

それをチャンスに変える「個人サバイバルの力」を身につけたいものだ

 

 

<高くがる空間>

ウォーキングコースから見るだんご山3兄弟の上空。

久米池の西側の歩行者用道路(新田町)から見る屋島と五剣山の上空。

本覚寺(新田町)の上空。

県道272号線の右(東-高松市東消防署-新田町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースに咲くツルボ(蔓穂)

ツルボはユリ科の多年草で秋の初め頃に山野などに生え、突然茎を伸ばし始め、うす紫色の花を咲かせる。

 

ツルボは昔から皮膚病・神経痛・火傷・切傷などを負った際に、その球根をすりつぶして湿布薬として使用され、驚異の薬効を発揮して重宝されてきた。

今では、医薬品の主成分に使用され、大学で研究が進み、実に様々な症状に効能があることが研究により解ってきているとのことだ。

 

◇ウォーキングコースの畑のオクラ

 

◇ウォーキングコースの山間のクズ

 

◇我家の庭に自生するミヤマキンバイ

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<那須与一と扇の的・イサム・ノグチ庭園美術館・洲崎寺 

那須与一と扇の的(むかし話あれこれ)

もう日は西に傾いて、海がキラキラと夕日に輝き始めていました。すると、平氏方から、女官を乗せた一艘の船が近づいて来ました。見ると、竿の先に、扇が立ててあって、女官がしきりに手招きをしています。この扇の的を、弓で射てみよというのです。それは、平氏の戦占いでした。上手く射落とせば源氏の勝ち。射損なったら平氏の勝ちと云う訳です。

「誰か、あれを射落とせる者は居らぬか」義経は、家来達を振り返って言いました。「殿、それには下野(栃木県)の住人那須与一宗高がよろしゅうございましょう」「なにか、証拠があるか」「はい、与一は、空飛ぶ鳥も、三羽ねらえば、二羽は必ず射落とすほどの名人で御座います」「よし、与一を呼べ」。呼ばれた与一は、まだ二十に成るかならない、若い小柄な侍でした。「与一、あの扇の的を射てみよ」「とても、私などには出来そうも御座いませぬ。

もし、射損なっては、源氏の恥と成りましょう」「なにっ、断るのか。わしの命令が聞けないなら、さっさと鎌倉へ帰るがよいぞ」義経は、厳しく言い渡しました。 与一は、それ以上断る事が出来ませんでした。「もし、射損なったら、二度と誰にも会わず、弓を折って死ぬまでだ」与一は心に決めました。そして、黙って馬に跨り、海に乗り入れました。扇の的は波に揺られて、たえず右に左に揺れ動いています。目を瞑り、しばらく神に祈ってから、狙いを定めて、はっしと矢を放ちました。

扇は、見事に空に舞い上がり、ひらひらと夕日に照らされて、紅葉の葉のように海に散りました。

源氏から、どっと喜びの声が上がりました。平氏たちも、船ばたを叩いて、その見事さを誉めました。

 

イサム・ノグチ庭園美術館

この地が未来の芸術家や研究者、そして広く芸術愛好家のためのインスピレーションの源泉になることを強く望んでいたノグチの遺志を実現したものです。150点あまりの彫刻作品はもとより、自ら選んで移築した展示蔵や住居イサム家、晩年制作した彫刻庭園など、全体がひとつの大きな「地球彫刻」、あるいは環境彫刻となっています。出来うる限り、生前の雰囲気そのままで環境そのものを公開し、専門的な調査・研究のためのアーカイブ(資料研究空間)となっております。ジャンルを超えた宇宙的でコスモポリタンな、開かれたノグチの世界像を心ゆくまで味わっていただきたいと思います。(美術館HP)

 

洲崎寺

高野山真言宗の寺院で山号は眺海山。詳しくは眺海山 円通院 洲崎寺と号する。本尊は聖観世音菩薩で、四国八十八箇所番外札所、さぬき三十三観音霊場第二番札所である。

寺伝によれば、大同年間(806-810年)に空海(弘法大師)により創建されたといわれる。

源平合戦の際に負傷した源氏方の兵士がこの寺に運ばれた。戦いが激しくなると戦災により当寺院は焼亡した。

源義経の身代わりとなり戦死した佐藤継信は本堂の扉に乗せられ、源氏の本陣があった瓜生ヶ丘まで運ばれた。

これが縁で継信の菩提寺となり毎年3月19日には慰霊法要が行われている。義経は焼亡した寺院を再建したと伝えられている。義経の愛馬太夫黒の墓がある。戦国時代に至ると土佐の戦国大名・長宗我部元親軍の侵攻により再び焼亡し荒廃した。その後、江戸時代中期の元禄12年(1699年)に再興され現在に至っている。

境内には江戸時代初期の僧で四国八十八箇所を一般に広め巡拝路を整備し、「遍路の父」と呼ばれた真念の墓がある。

 

▼所在地、那須与一扇の的の絵看板

高松市牟礼町牟礼:〒760-0121

 

▼イサムノグチ庭園美術館、洲崎寺

 

 

▼バス停「祈り岩・与一公園前」で降車、那須与一扇の的の絵看板が見える地点へ向かう(約0.2km)-右(東側)が与一公園

 

▼左側は牟礼町浄化苑、牟礼町牟礼を北方向に進む(次のT交点を右折)

 

▼T交点を右折(右に案内板-正面奥に五剣山)、案内板「むれ源平史跡案内」・「源平の里ガイドマップ」

▼左奥に「那須与一扇の的➡」「イサム ノグチ庭園美術館➡」、牟礼町牟礼を東方向へ進む-1

 

▼右側は与一公園、牟礼町牟礼を東方向へ進む-2

 

▼牟礼町牟礼を東方向へ進む-3(与一橋が見えて来た)、与一橋を渡る

 

▼右に「むれ源平史跡案内碑」、与一橋-1

 

 

▼与一橋-2、那須与一扇の的へ進む-1

▼いのり岩、那須与一扇の的へ進む-2

 

▼那須与一扇の的へ進む-3、那須与一扇の的の絵看板が見える地点に着いた(奥に駒立岩)

 

▼那須与一扇の的の絵看板、那須与一扇の的の絵看板のズーム

 

▼駒立岩、駒立岩の説明板

 

 

▼右奥の久通浜塩釜神社に寄る、久通浜塩釜神社-1

 

▼久通浜塩釜神社-2

 

 

▼那須与一扇の的の絵看板と駒立岩を後にして金刀比羅宮へ向かう(約0.5km)、与一橋まで戻る

 

▼与一橋へ戻った、祈り岩へ寄る

 

▼北から見る与一橋、祈り岩へ進む

 

▼交差点の右角に祈り岩、交差点の右角の祈り岩に着いた

 

▼祈り岩

 

 

▼県道36号線を北方向に進む、県道36号線から右に入り金刀比羅宮へ進む

 

▼牟礼町牟礼を左右の石材店を観察しながら北方向に進む-1

 

▼牟礼町牟礼を左右の石材店を観察しながら北方向に進む-2、右側の石材店の「不動明王」

 

▼牟礼町牟礼を左右の石材店を観察しながら北方向に進む-3

 

▼牟礼町牟礼を左右の石材店を観察しながら北方向に進む-4

 

▼左(西)奥に屋島スカイウェイが見える、左奥に金刀比羅宮の鳥居が見えて来た

 

▼金刀比羅宮に着いた、金刀比羅宮-1

 

▼金刀比羅宮-2

 

▼金刀比羅宮-3

 

▼金刀比羅宮-4

 

 

▼金刀比羅宮を後にしてイサムノグチ庭園美術館入口へ向かう(約0.4km)、牟礼町牟礼を東方向に標高差10mの小径を上がる-1

 

▼牟礼町牟礼を東方向に標高差10mの小径を上がる-2

 

▼牟礼町牟礼を東方向に標高差10mの小径を上がる-3

 

▼牟礼町牟礼を東方向に標高差10mの小径を上がる-4、牟礼町牟礼を東方向に標高12mの地点

 

▼牟礼町牟礼を東方向に小径を進む-1、後方左にイサムノグチ庭園美術館の施設

 

▼牟礼町牟礼を東方向に小径を進む-2、左に溜池と奥に五剣山

 

▼牟礼町牟礼を東方向に小径を進む-3(次のT交点を右折)、T交点の左方向に五剣山

 

▼牟礼町牟礼を南方向に下る、T交点の右にイサムノグチ庭園美術館の施設

 

▼T交点までの小径から見るイサムノグチ庭園美術館-1

▼T交点までの小径から見るイサムノグチ庭園美術館-2

▼T交点-標高9m地点、T交点から見るイサムノグチ庭園美術館-1

 

(Vol.989-2/3に続く)

 

 

<akijii展-(546)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「スズメ」で、所要時間は250Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.989-2/3をご覧ください。

Vol.989-1/3に続けてご覧ください。

 

▼T交点から見るイサムノグチ庭園美術館-2、牟礼町牟礼を南西方向に下る-1

 

▼小径から見るイサムノグチ庭園美術館

 

▼牟礼町牟礼を南西方向に下る-2、右側に見えるイサムノグチ庭園美術館-1

 

▼右側に見えるイサムノグチ庭園美術館-2

 

▼牟礼町牟礼を南西方向に下る-3(標高6m地点-左は入江邸)、入江邸

 

 

▼イサムノグチ庭園美術館入口地点に着いた、イサムノグチ庭園美術館-1

▼イサムノグチ庭園美術館-2

 

▼イサムノグチ庭園美術館-3

 

▼イサムノグチ庭園美術館-4

 

▼イサムノグチ庭園美術館-5

 

▼イサムノグチ庭園美術館(web引用)-1

 

▼イサムノグチ庭園美術館(web引用)-2

 

▼イサムノグチ庭園美術館(web引用)-3

 

 

▼イサムノグチ庭園美術館を後にして洲崎寺へ向かう(約.0.9km)、牟礼町牟礼を南方向に進む-1

 

▼牟礼町牟礼を南方向に進む-2、右側の山椒山公園に寄る

 

▼山椒山公園-1

 

▼山椒山公園-2

 

▼牟礼町牟礼を西方向に進む-1

 

▼牟礼町牟礼を西方向に進む-2、右の牟礼源平広場に寄る

 

▼牟礼源平広場-1

 

▼牟礼源平広場-2

 

▼県道36号線交点を左折(右に休憩ベンチ)、休憩ベンチ

 

▼周辺案内図(現在地)、県道36号線を交点の右(北-庵治町)方向

 

 

▼県道36号線を南方向に進む-1

 

▼県道36号線を南方向に進む-2

 

▼道標-源平合戦史跡「⇦祈り岩・景清の錣引-駒立岩」、県道36号線を南方向に進む-3

 

▼県道36号線を南方向に進む-4(左奥に景清の錣引が見えて来た)、景清(かげきよ)の錣引(しころびき)

 

▼県道36号線を南方向に進む-5

 

▼県道36号線を南方向に進む-6

 

▼道標-源平合戦跡「➡射落畠-洲崎寺・菊王丸の墓」、県道36号線を南方向に進む-7

 

 

▼右に洲崎寺が見えて来た、案内板「讃岐観音霊場 第二番 洲崎寺➡」

 

▼洲崎寺-1

 

▼洲崎寺-2

 

▼洲崎寺-3

▼洲崎寺-4

 

▼洲崎寺-5

 

▼洲崎寺-6

 

▼洲崎寺-7

 

▼洲崎寺-8

 

▼洲崎寺-9

 

▼洲崎寺-10

▼洲崎寺-11

 

▼洲崎寺-12

 

▼洲崎寺を後にして帰路のことでん八栗駅へ向かう(約0.6km)、県道36号線に戻る

 

 

▼県道36号線を南方向に進む-8

 

▼道標-源平合戦史跡「⇦義経弓流しの跡」、義経弓流しの跡の方向

 

▼県道36号線を南方向に進む-9

 

▼県道36号線を南方向に進む-10

 

▼県道36号線右側の射落畠に寄る、射落畠-1

 

▼射落畠-2

 

▼ことでん八栗駅へ進む-1

 

▼次の交点を左折(右角の総門跡に寄る)、総門跡-1

 

▼総門跡-2

 

▼総門跡-3

▼総門跡-4、ことでん八栗駅へ進む-2

 

▼ことでん八栗駅へ進む-3

 

▼ことでん八栗駅へ進む-4、ことでん八栗駅に着き帰宅の途に就いた

 

▼八栗駅ホームから見る五剣山、屋島南嶺(ズーム景)

 

 

引き続き、Vol.989-3/3をご覧ください。

Vol.989-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:17<由佐城

25.由佐城跡  <撮影:2013.07.01 and 2015.09.22 and 2019.05.15>

由佐城(ゆさ)は由佐氏の居城で、東は香東川、西に沼地の多い自然を巧みに利用した要塞です。天正11年(1583)長宗我部元親軍が攻め入ったが容易に落城しなかったと伝えられる堅城でした。由佐家にのこる由佐家文書のなかに「由佐城絵図」があり、それによりますと香東川の西岸に柳並木があり、それに接して「下之城」があり、その西に内堀を隔てて「上之城」が設けられていました。上之城を中心に周囲16町ばかりの中を外堀、内掘によって仕切り、各地区は橋で結ばれ、外との連絡も南、北、西に設けられた橋によって行われていたことがわかります。城内には土塁が築かれ、櫓もあったそうです。由佐家の居宅とした屋敷内には内堀、土塁跡を見ることができたそうです。今でも香南歴史民俗郷土館の敷地内、庭園西側には土塁の跡が残されています。周囲には南門という地名も伝えられています。

 

由佐氏は俵藤太藤原秀郷の末裔で、もとは下野国益子(今の栃木県芳賀郡益子町)に住み「益子」を姓としていました。秀郷の子孫に益子下野守顕助というものがいましたが、彼は足利尊氏の部下となり新田義貞と京都東寺で戦い建武3年(1336)討死しました。顕助の子弥次郎秀助は父の手柄により、尊氏から讃岐国に井原郷(今の香南町、香川町川東、香川町川内原)を賜り、ときの讃岐守護細川頼春に従ってこの地に移りました。秀助は由佐に屋敷を構え、地名をとって姓を由佐と改め、今の鮎滝に鳥屋城を築いて守りの要塞としました。これが讃岐由佐氏の始まりです。  (高松市HP)

 

<所在地・外観>

▼由佐城跡-高松市香南町由佐253-1

▼由佐城鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)-戦国武将由佐氏の居館跡、郷土館で歴史を知る

 

高松市内から国道11-193号線を南に向かい、香川町川東下交差点で右(西)に曲がり県道13号線を進み、城渡(しろわたり)橋(香東川)を渡ると、右前方に天守閣を模した建物が見えてくる。

この建物が「高松市香南歴史民俗郷土館」で、敷地が「お城」と呼ばれる「由佐城跡」である。

土塁が保存され、堀は江戸時代初期に埋められた。

 

<概 要><歴史遺産>

▼城渡橋(香東川)の西方向に由佐城跡、県道44号線から北東方向に見る歴史民俗郷土館

 

▼由佐城跡-全景、城址標

 

▼由佐城跡-土塁

 

 

由佐の地は、阿波(現、徳島県)から讃岐に入る道筋にあたり、また讃岐の各地への分岐点でも有るので、この地を押さえる意味が有ったものと考えられる。

 

「由佐家文書」に依れば、1351(観応2)年、讃岐守護細川勝元から「香川郡之(の)内井原庄・安原山・大野村」を領知として安堵されている。

 

▼由佐家文書(web引用-水彩画風変換)

 

1578(天正6)~82年頃、由佐氏は阿波三好氏に従い、1582年には長宗我部氏の配下に入った。

 

郷土館では、由佐氏を始め、香南地方の歴史が解る資料が展示されている。また、香東川の水を利用した水車などの民俗資料や、冠纓(かんえい)神社の大獅子(県民俗)の獅子頭の1つが展示されている。

 

▼高松市香南歴史民俗郷土館-庭園

 

▼高松市香南歴史民俗郷土館-民俗展示室、獅子頭

 

▼高松市香南歴史民俗郷土館-町民ギャラリー、図書室

 

 

郷土館から南へ約1km行った香南町岡(おか)に、天福寺(てんぷくじ)(真言宗御室派)が有る。

 

<関連遺産> 

この天福寺を含む丘陵地が「岡城(岡館やかた)跡」と考えられている。

 

▼ことでんバス停「岡」、天福寺への石段-1

 

▼天福寺への石段-2

 

▼天福寺の赤塀沿いの参道

 

▼天福寺-1、2:説明板

▼天福寺-2:本堂

 

▼天福寺-3:大師堂、鐘楼

 

▼天福寺-4:手水舎、5

 

▼天福寺-5:安倍晴明之墓、6

 

▼天福寺-7、8:山門

 

▼天福寺-9

 

▼天福寺-10

 

▼岡城(館)跡-天福寺の左に土塁状の高まり-ミニ88箇所(web引用-水彩画風変換)

 

▼岡城(館)跡-空堀(web引用-水彩画風変換)

 

▼岡城(館)跡-池、この辺りは水がある(web引用-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

新居宮池親水公園と宮池2景。

宮池と夕陽。

 

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-100 Orignal掲載日:Vol.189 (2013.05.30)

働くこと…、「発見」が。

 

人間は、今日と同じ明日に心地よさを感じる。今日と違うと不安になるし、慣れないために面倒だと思うが、昨日と違う今日を迎えない限り、人は新しい景色に出会えない。

日々、新しい風景に出会い続ける事が、生きていて、進歩して行く事になる。

常に変化を求め、新しいものを欲するのは、人間だけに与えられた能力である。

 

仕事でも、これと同じことが言える。

仕事は、人間が自然や世界に作用して、新しい価値を生み出すことで、働くと云う事は、今日とは違う価値を生み出すことで、付加価値という。

懸命に働き、結果を出すと、おのずと今日と違う明日になる。

それを目指さない限り、人間は生産的になれないし、新しい景色も見ることができない。

 

昨日と同じ今日の連続は楽かもしれないが、生きている実感は得られないだろうし、自分の存在理由さえも希薄になる。今日と違う明日は、変化の期間で月単位でも、年単位でも良いと思う。

現状に妥協して、心地いい?毎日を重ねて行くことは、何もしないのと同じである。

流される日々を過ごすだけでは、人を墜落させる。

 

仕事でも人生でも、勇気を持って一日一つ何かを壊すことは、着実な前進と思うのである。

どんな小さなことでも良いが、新しいことをして、昨日の殼を破って行こう。

それをしているか、していないかでは、3~5年度にハッキリとした大きな差が出るだろう。

働くことには、いつも「発見」がなければならない。価値を生み出し、それを他者に提供する。

「発見」のない仕事など、単なる人生の空費に過ぎないと思うのだが…。

 

 

<高くがる空間>

ウォーキングコースから見る袋山の上空。

久米山「やすらぎの里」(東山崎町)の上空。

久米山墓地公園(東山崎町)と奥の久米池と屋島・五剣山の上空。

諏訪神社(東山崎町)の上空。

石清水八幡宮への参道(新田町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇Mi氏の畑のパパイア

世界で広く親しまれている人気のトロピカルフルーツで、果実は年間を通じて収穫することが出来る。

熱帯各地で商業栽培され、家庭果樹としてもよく育てられる。

 

生育が非常に早く、実生から3~5年で高さ7m以上まで生育し、幹はほとんど分枝しないが、先端部の生長点が傷むと新たな新芽が出てくる。

常緑の低木ですが幹は比較的柔らかく、台風などの強風で容易に折れる。

園芸学会の正式呼称は「パパイア」だが、農業界では「パパイヤ」を正式呼称とするため、農薬登録名は「パパイヤ」となる。

熱帯果樹で、食用になる果実は500グラムから1キログラムほどあり、熟すとやわらかく多汁で甘い。果肉は黄肉腫が多いが赤肉腫もある。メキシコ南部から西インド諸島が原産地である。

 

◇ウォーキングコースの空地に咲く屁糞蔓(へくそかずら)

 

<訂正>

Vol.987<2024/09/05>ウォーキングコースの空地に咲く屁糞蔓(へくそかずら)と紹介しましたが、間違いでした。

正しくはガガイモの花」でした。

◇町並巡りで出会ったモミジアオイ

 

◇高松市立中央公園に咲くヒマワリ

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<庵治緑道公園・城岬公園 

庵治緑道公園(やすらぎの道)

庵治支所の前に横たわる臨海幹線沿いに延長600m幅10mの緑道として設置されている。
石の街という事もあり、国内外の作家たちによる石彫作品が15基展示され、石の芸術作品に触れられながら、やすらぎを満喫できる緑道となっており「癒しの散策」コースで、庵治小学校の入学記念の石碑31基も展示している。

 

城岬(しろばな)公園

海の青と樹木の緑が美しいロケーション抜群の臨海公園。特に夕日の美しさはすばらしく、多くのカップルや家族連れでにぎわいます。2004年に大ヒットした純愛映画「世界の中心で、愛をさけぶ」のロケ地に近く、現在でもデートスポットの定番。公園内には、映画のフィルムに見立てて愛のメッセージを刻んだ地元特産の石が並ぶ「純愛ロード」もあり、カップルに人気のスポットとなっています。(香川県観光協会HP)

眼前には源平合戦史跡の屋島をはじめ、男木島・大島・豊島を望み、魚のまち庵治らしく、漁船も設置されているユニークな公園です。源氏丸にはロッキング遊具(ロープ登り)とローラー滑り台も設置し子供たちに大人気です。

瀬戸の金波銀波を背景に国内外の著名な彫刻家の石彫作品も展示され自然と芸術に浸れる公園です。また「純愛ロード」が併設され、ハートの型を取り入れた可愛らしいベンチも設置しており、カップルの思い出の渚となっています。

(5公園オフィシャルサイト)

 

▼所在地、高松市庵治支所

高松市庵治町:〒760-0130

 

▼やすらぎのみちの碑、「潮風の積層」-佐光庸行

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場、純愛ロード

 

▼城岬公園の入口、城岬公園

 

 

▼バス停「庵治支所」で降車、左後方に高松市庵治支所-1

 

▼高松市庵治支所のパノラマ景

▼やすらぎのみちの碑へ向かう(約0.2km)、左後方に高松市庵治支所-2

 

▼庵治町を北東方向へ進む-1

 

▼庵治町を北東方向へ進む-2(前方は庵治漁港)、庵治漁港に寄る

 

▼庵治漁港、前方の御殿山の中腹に皇子神社

 

▼皇子神社のズーム景、やすらぎのみちの碑へ進む-1

 

 

▼やすらぎのみちの碑へ進む-2(前方に見えて来た)、やすらぎのみちの碑に着いた

 

▼やすらぎのみちの碑、やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-1

 

▼「SNAKE」ナグジ・パテル-1

▼「SNAKE」ナグジ・パテル-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-2、「初夏の海、山、白い雲」北島一夫-1

 

▼「初夏の海、山、白い雲」北島一夫-2

▼「初夏の海、山、白い雲」北島一夫-3

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-3

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-4、左前方は歌碑

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-5(右側に庵治支所が見えて来た)、高松市庵治支所-1

 

▼「LANDSCAPE」湯村光-1

 

▼「LANDSCAPE」湯村光-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-6、高松市庵治支所-2

 

▼「石のうた」田中江里-1

▼「石のうた」田中江里-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-7、高松市庵治支所-3

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-8(石碑が見える)、庵治庁舎新築記念碑-1

 

▼庵治庁舎新築記念碑-2、高松市庵治支所-4

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-9(奥に石碑)、八栗ライオンズクラブ結成15周年記念碑

 

▼高松市庵治支所-5、長者川を渡る

 

▼長者川の左(東-上流)方向、右(西-庵治漁港)方向

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)へ入る、やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-9

 

▼「太郎(象)」居上真人-1

 

▼「太郎(象)」居上真人-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-10、「陽の華」長谷川八兄-1

 

▼「陽の華」長谷川八兄-2

 

▼「陽の華」長谷川八兄-3

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-11

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-12

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-13

 

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場-1

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場-2

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場-3

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場-4

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場-5

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場-6

 

▼庵治小学校入学記念児童作品広場-7

 

▼ハオ象チャオ-母子、庵治小学校入学記念児童作品広場を振り返る

 

(Vol/988-2/3に続く)

 

 

<akijii展-(545)

美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03

今報は「ウサギ3匹」で、所要時間は195Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.988-2/3をご覧ください。

Vol.988-1/3に続けてご覧ください。

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-14、「ARIRANG」朴賛甲-1

 

▼「ARIRANG」朴賛甲-2

▼「ARIRANG」朴賛甲-3

 

▼「潮風の積層」佐光庸行-1

 

▼「潮風の積層」佐光庸行-2

▼「十六日月の下に」佐々木至-1

▼「十六日月の下に」佐々木至-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-15(前方に「我、浮上する者」が見える)、「我、浮上する者」近藤隆

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-16(前方に「ふれ愛」が見える)、「ふれ愛」製作協力-庵治石工団地協同組合青年部-1

 

▼「ふれ愛」製作協力-庵治石工団地協同組合青年部-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-17、「古にはひとつ、これからもひとつ」全國光-1

 

▼「古にはひとつ、これからもひとつ」全國光-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-18、「SPATLAL CONSTRUCTURE」エホニオ・イオンミ-1

 

▼「SPATLAL CONSTRUCTURE」エホニオ・イオンミ-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-19

 

▼「生きる」空充秋-1

▼「生きる」空充秋-2

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を南方向に進む-20、「空間のメビウス」牛尾敬三-1

 

▼「空間のメビウス」牛尾敬三-2

▼「空間のメビウス」牛尾敬三-3

 

 

▼やすらぎのみち(庵治緑道公園)を後にして城岬公園へ進む、純愛ロードに着いた

▼純愛ロードを進む-1

 

▼純愛ロードを進む-2(奥に屋島の北嶺)、純愛ロードを進む-3

 

▼純愛ロードを進む-4(左-庵治田中城跡・中央-魚見台・奥が屋島北嶺)、純愛ロードを進む-5(右に進む)

▼純愛ロード西詰から見る北方向、庵治田中城跡

 

▼純愛ロード西詰から見る西方向のパノラマ景

▼純愛ロード西詰から見る船隠し、純愛ロードを引き返し城岬公園へ

 

▼純愛ロードを引き返し

 

▼城岬公園に着いた、城岬公園-1

 

▼城岬公園-2

 

▼城岬公園-3、太陰歴№3-岩崎幸之助

 

▼城岬公園-3、古跡香-雀招東

 

▼城岬公園-4(公衆トイレ1)

 

▼城岬公園-5(公衆トイレ2)

 

▼城岬公園-6

▼城岬公園-7

 

▼城岬公園-8

 

▼城岬公園-9

 

▼城岬公園-10

 

▼城岬公園-11

 

▼遺石一億万年の海の底から、城岬公園-12

 

▼城岬公園-13

 

▼城岬公園-14

 

▼城岬公園-15

 

▼城岬公園-16

 

▼城岬公園を後にして帰路のバス停「新開」へ向かう(約0.3km)、城岬公園を後にする-1

 

▼城岬公園を後にする-2

 

▼城岬公園を後にする-3

 

 

▼帰路のバス停「新開」へ進む-1

 

▼左方向のやすらぎのみち(庵治緑道公園)、帰路のバス停「新開」へ進む-2(左へ進む)

 

▼帰路のバス停「新開」へ進む-3(次の交点を左折)、帰路のバス停「新開」へ進む-4

 

▼帰路のバス停「新開」へ進む-5

 

▼帰路のバス停「新開」へ進む-6、次の交点を右折

 

▼バス停「新開」が見えて来た、帰路のバス停「新開」に着き帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.988-3/3をご覧ください。

Vol.988-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:16<法然寺>

24.法然寺 <撮影:2014.05.22 and 2018.05.25>

高松市にある浄土宗の寺院。山号は仏生山。詳しくは、仏生山来迎院法然寺(ほうねんじ)と称する。

本尊は法然作と伝わる阿弥陀如来立像。法然上人二十五霊場第二番札所、さぬき七福神の大黒天。

鎌倉時代前期の建永2年(1207年)に讃岐に配流された浄土宗開祖の法然が立ち寄った那珂郡小松荘(現まんのう町)に生福寺が建立される。

江戸時代前期の寛文8年(1668年)に徳川光圀の実兄にあたる高松藩初代藩主松平頼重が、戦乱で荒れ果てていた生福寺を法然寺と改名して、香川郡百相郷(現在地)に3年の歳月を要し移転・建立した。寺院背後の仏生山丘陵上を削平し「般若台」と呼ばれる松平家の墓所を設けて当寺院を高松松平家の菩提寺とした。

本堂(明治40年(1907年)に再建)・三仏堂(別名:涅槃堂)・二尊堂・来迎堂・十王堂など現在も当時の建物が多く残っていたが、平成26年(2014年)1月13日に二尊堂が全焼で初の火災となった。  (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼法然寺-高松市仏生山町甲3215

▼法然寺-松平氏歴代の墓がある、春の涅槃会は賑わう

 

 

藩主が参詣する法然寺への道を「御成(おなり)街道」という。ことでん仏生山駅から東方向に400mほど進み、県道166号線(仏生山街道)との交点を右折し南東へ行く。

 

▼琴電仏生山駅、御成街道入口

 

 

御成街道には、幕府の朱印地としての扱いを受けていた門前町の面影が残っている。

 

▼御成(仏生山)街道-街道、アオイ堂

 

▼御成(仏生山)街道-香川座跡、円光寺

 

▼御成(仏生山)街道-うだち

▼御成(仏生山)街道-生目さん、町家(中二階・本瓦葺き)

 

▼御成(仏生山)街道-水神さん、出張所・役場

 

▼御成(仏生山)街道-街道、高徳寺

 

▼御成(仏生山)街道-懸魚(げぎょ) 、門前町

 

 

突き当りにある「ちきり神社」の下を、道なりに坂を上って行くと、右側に「法然寺」の総門に出会う。

 

<概 要><歴史遺産>

▼ちきり神社階段前を右折、階段前の法然寺0.2km道標

 

 

ちきり神社へ上がって戻って来る。

 

▼ちきり神社-1

 

▼ちきり神社-2

 

 

▼前山坂道

 

▼法然寺-総門前に到着、総門

 

 

法然が讃岐に流された時の遺跡である小松荘生福寺(しょうふくじ)(現、まんのう町)を、3年の裁月をかけて1671(寛文11)年、高松藩初代藩主松平頼重が仏生山の地に移して復興し、菩提寺としたものである。

 

▼西念寺-1

この寺は法然上人が滞在された生福寺の跡に再建された寺で、上人にゆかりの遺品や遺跡を見る事が出来る。山門脇に小高い山があり、参道が続いているが、その参道に25ほどの石仏が置かれている。これは現在の法然上人二十五霊場のご本尊を模した石仏で、1つ1つ拝して歩けばミニ霊場巡りが出来る。またこの参道途中に竹囲いされた小さな井戸がある。法然上人が当時村人から貰った豆腐を冷やしたと云われる井戸で、今も美しい水が湧き出している。

▼西念寺-2

 

▼西念寺-3

 

▼西念寺-4

 

 

般若台(はんにゃだい)と呼ばれる寺の後の山には、法然と歴代藩主の墓が立っている。

総門から般若台に至る建物の配置と参道は、由緒ある寺の雰囲気を醸し出している。

 

▼法然寺-十王堂(じゅうおうどう)、十王堂(閻魔王)

 

▼法然寺-十王

 

▼法然寺-二河白道(にがひゃくどう) 、黒門(くろもん)

 

▼法然寺-黒門を潜り広庭、境内案内図

▼法然寺-涅槃門と仁王門、五重塔

 

▼法然寺-三仏堂(涅槃堂)、忠学上人堂

 

▼法然寺-本堂

 

 

▼法然寺-極楽浄土への参道、来迎堂まで137段の階段

 

▼法然寺-文殊楼、来迎堂-1

 

▼法然寺-来迎堂-2

 

▼法然寺-般若台

 

 

墓地から眼下の平野部を眺めると、この場所が戦時などには砦の役目を果たすものであった事が伺われる。

 

▼墓地から眼下の平野部を眺望

 

 

法然寺には、寝(ね)釈迦とよばれる4.8mの涅槃仏(ねはんぶつ)があり、毎年2月15日前後に行われる涅槃会(え)はおおいに賑わい、昔の門前町が蘇る。

 

▼法然寺-涅槃仏、涅槃会(web引用-水彩画風変換)

 

 

由緒ある寺に相応しく、法然寺には絵や書などの文化財が多い。

絵では「絹本著色十王像(じゅうおうぞう)・絹本著色観世音功徳図(かんぜおんくどくず)・紙本金地(きんじ)著色源氏物語図」があり、いずれも国重文である。

十王は閻魔王ら死者を裁く10人の王のことであり、観世音は人びとを救う観音菩薩のことである。

 

▼法然寺-絹本著色十王像、絹本著色観世音功徳図(web引用-水彩画風変換)

 

▼法然寺-紙本金地著色源氏物語図(web引用-水彩画風変換)

 

書では「後深草(ごふかくさ)天皇宸翰(しんかん)御消息」(国重文)がある。

 

▼法然寺-後深草天皇宸翰御消(web引用-水彩画風変換)

 

寺の南西にある平池(へいいけ)の堤から眺めると、法然寺は山のように見える。

平池には人柱伝説があり、それに因む乙女の像が立っている。

 

▼いわざらこざら伝説、伝説の由諸と乙女の像(2012.08.12撮影)

 

▼いわざらこざら伝説、伝説の由諸と乙女の像(2020.07.30撮影)

 

 

平池は、もと堤の下の位置にあったという伝えがある。一段高い場所に揚げたのは、遠くまで水を流すためで、江戸時代初期における大きな池水計画の一環と考えられる。

 

▼平池の説明板、高松クレーターの説明板

 

▼平池

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

親水公園から見る新居宮池とだんご山3兄弟。

3日間の空模様の変化が伺えるだろうか?

 

親水公園から見る新居宮池と火ノ山・十瓶山・鷲ノ山。

 

夕陽を受ける穏やかな宮池の水面と水上展望台。

遊歩道の南東端から見る国分台・猪尻山・大平山と宮池水上展望台。

 

パーゴラから見る宮池水上展望台。

遊歩道の西北端から見る袋山の丘陵の先端(楠生神社が鎮座)と宮池水上展望台。

 

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-099  Orignal掲載日:Vol.188 (2013.05.25)

「責任」を教える責任が…。

 

メール一つ書く場合でも、前者は「相手が見えないから、気を遣わなければ…」と考える。

一方、後者は「相手が見えないのだから…」、何を書いても構わないと考え、書いた事に責任を取ろうとしない風潮に想うが、心理学的にもこのような意識を持ちがちであると証明されている。

 

パソコンが普及し、一人ひとりが使う事が当たり前になったのは、ここ十数年である。大人になってから使っている世代と、物心つくころから自由に扱っている若者世代とでは、パソコンに対する意識にかなりの差があるようだ。

人間共通の心理ではあるが、育ち方が違っているからだが、一言で言えば、想像力があるかどうかだという。

見えない相手の姿を想像する事が出来れば、相手を傷つけることなどできない

携帯電話を使ったいじめが、対面でのいじめよりも陰湿で残酷なものになっているのも、現実の体験が少なく、それをしたらどうなるのかの想像力が欠如しているからだと…。

 

こうした想像力の欠如は、人を無責任な行動に走らせる。

例えば、ボタン一つで戦争を開始できる機械を人は手に入れている。そこに想像力が欠如していたらどうなるかは明らかである。このボタンを押す事で、どのような地獄絵が繰り広げられるか、人間がどれほどの赤い血を流す事になるのかが見えないのだ。自分のやった事の結果が見えなければ、その結果に責任をとらなくなる。

 

そういう意味で、私たち年配者に出来る事があると思う。それは、過去の体験を沢山語る事で若者の想像力を養う事だ。そうすれば、自分の言動には責任が伴うのだという事を理解することになろう。

年配者には、若い人に「責任」を教える責任があると思う。

 

 

<高くがる空間>

ウォーキングコースの城山への導入坂道の上空。

高松大学(春日町)のグラウンドと校舎の上空。

春日神社の神門(春日町)の上空。

本三交差点(県道10号線)(春日町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースの空地に咲く屁糞蔓(へくそかずら)

開花時期は7月中旬~9月中旬頃で、つる状でどんどん伸びてくる。

 

道端のフェンスなどで夏によく見かける。筒状のこげ茶色の花で、すごい名前だが枝や葉をもむと悪臭があるからこの名前になったとのこと。秋に茶色いパチンコ玉のような丸い実をつける。

別名は、「灸花(やいとばな)」。灸(やいと)とは”おきゅう”の事で花の内側の茶色い部分を、お灸をした跡に見立てたことから。

 

また、「馬食わず(うまくわず)」悪臭があるため?馬が食べないところから名が付いた。

 

◇ウォーキングコースの畑に咲くジュランタタカラヅカ

 

◇Mi氏の畑に咲く

 

◇ウォーキングコースに咲く仙人草(センニンソウ)

◇ウォーキングコースの畑に咲くムラサキシキブ

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch<聖代寺・相引川

聖代寺(しょうだいじ)

当山は、近隣では「成田山聖代寺」と愛称されております。
不動明王を本尊とし、厄除け・交通安全をはじめ、さまざまな御祈願をお受けしております。

広い境内では、春は桜が咲き誇り、参拝者の目を和ませます。

お大師様ゆかりの四国路に、祈り、願う、すべての人々にお不動様のご加護がいただかれ、幸せの道を歩まれることを念願して開創されたのが四国三十六不動霊場です。成田山聖代寺は四国三十六不動霊場において第36番目、結願所にあたります。どうか不動霊場巡拝を通じて、一人でも多くの方々が、お不動さまと有難い勝縁を結ばれ、お加護を受けられますよう、心よりお祈り致します。

不動明王とは、大日如来の化身(教令輪身)であります。燃えさかる火焔を背に、右手には悟りを開くための智慧を表す利剣を持ち、左手には仏教の教えに背く人をも自分の膝元に引き付け、正しい教えの道に導くため索(なわ)を持っておられます。火焔の中に住まう姿は、 ”火生三昧”といって、衆生の煩悩を大智慧の火で焼きつくして、悟りに導く本誓をあらわしています。また、どんな所へでも出向き、すべての人を救済するため、奴僕(ぬぼく)の姿をされております。

目を怒らせた忿怒の相は、恐ろしくも見えますが、この忿怒の相は、我が子を見つめる父親…外面は厳しくても内心で慈しむ父愛の姿を表現したものであるとも言われています。不動明王のご誓願は広大無辺であって、その功徳は五穀豊穣、万民豊楽、鎮護国家をはじめ、自然の猛威を鎮めたり、人々の心のすき間に入り込む邪念や怨霊も退散させる 厄除けの守護尊としてあがめられております。さらには、交通安全をはじめ商売繁盛、家内安全、息災延命、良縁成就、安産満足など、私たち衆生のさまざまな祈りや願いを成就して下さる有り難い仏様なのです。

三十六童子は不動明王の眷属です。使者として、まず両童子…矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制多迦童子(せいたかどうじ)の二童子を従え、そして八大童子、三十六童子となっています。成田山聖代寺には鳥婆計童子が祀られています。

(成田山聖代寺HP)

 

相引川(あいびきがわ)

屋島の南を巡り、河道の両端に河口を持つ特異な河川である。西は新川の河口、東は牟礼川の河口で合流し、瀬戸内海に注ぐ。相引川は、四国本土と屋島を分離する河川で、本土側とは大小13本の橋で結ばれている。

相引川の両岸は、江戸時代に開発された塩田と干拓された水田であったが、後の時代の埋め立てにともない陸続きのようになる。埋立地は住宅地や市街地に改変され、多くの人々が集住する。

江戸時代初めの縁起物の「源平屋島檀浦合戦縁起」には、「・・・義経、赤牛が屋島に渡るのを見て浅瀬のあることを知る。」と記述され、その地は赤牛崎(あかばざき)とされている。源氏50余騎が渡海したとされる北岸の赤牛崎には、案内板が設置されている。

相引川の名前の由来は、川の両端がともに海に繋がっているため、潮の満ち引き時には川の水が東西両方向から満ち、両方向へ向かって引いていくことから、相引川と呼ばれるようになったとする説、また東側の河口付近に位置する檀ノ浦で行われた屋島の戦いの際に、源氏・平氏の双方が互いに譲らず引き分けたことを由来とする説もある。

 

▼所在地、明神橋(相引川)と屋島南嶺

高松市屋島東町:〒760-0111

 

▼聖代寺と屋島南嶺、聖代寺-本堂

 

▼聖代寺-三十六童子、相引川の西岸

 

 

▼ことでん八栗駅で下車、八栗駅-構内

 

▼八栗駅-源平屋島合戦史跡案内図、入口のモニュメント

 

▼屋島東町へ向かう(約0.7km)、牟礼町牟礼の交差点を西に横断

 

▼牟礼川沿いに西北方向に進む-1、右側に金光教牟礼教会

 

▼牟礼川沿いに西北方向に進む-2

 

▼牟礼川沿いに西北方向に進む-3(左折して橋を渡る)、橋(牟礼川)の北(河口)方向に水門が見える

 

▼高松町に入る、高松町を西南方向に進む-1

 

▼高松町を西南方向に進む-2、県道150号線交点を右折

 

▼県道150号線を北西方向に進む、明神橋の左に石碑

 

▼四国のみち石標(⇦第八十四番-屋島寺)、明神橋(相引川)を渡る

 

▼明神橋の左(南西-牟礼川の河口)方向、右(北東-新川の河口)方向

 

▼県道150号線との交差点を直進横断、交差点を北詰に聖代寺案内板(⇑車での参道入口案内)

 

▼成田山聖代寺へ向かう(約0.7km)、高松町を北西方向に進む

 

▼屋島東町に入った、西北方向に屋島南嶺

 

▼屋島東町を北西から北東方向に進む、屋島東町を北東方向に進む-1

 

▼屋島東町を北東方向に進む-2(次の交点-標高5m地点を左折)、左折して聖代寺(標高50m)へ進む

 

▼聖代寺へ上る-1

 

▼聖代寺へ上る-2

 

▼聖代寺へ上る-3

 

▼聖代寺へ上る-4、次の交点を左折

 

▼前方に五剣山、聖代寺へ上る-5

 

▼聖代寺へ上る-6

 

 

▼聖代寺の寺標の地点に到着、聖代寺の寺標と駐車場

▼聖代寺入口から見る五剣山と牟礼町のパノラマ景

▼聖代寺の駐車場

 

▼聖代寺-1

 

▼聖代寺-2

 

▼42段の厄除け坂を上がる、聖代寺-3

 

▼聖代寺-4、境内に到着

 

▼お迎え童子、聖代寺-5(本堂)

 

▼聖代寺-6

 

▼十二支守本尊、三十六童子像

 

▼聖代寺-7

 

▼聖代寺-8、七福神-1

 

▼七福神-2

 

▼聖代寺-9

 

▼聖代寺-10、経塚

 

▼源平屋島合戦戦死者霊位、聖代寺の寺標の地点に戻る-1

 

(Vol.987-2/に続く)

 

 

<akijii展-(544)

今報からは「美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03」です。

今報は「熊&ウサギ」で、所要時間は225Mでした。

◇完成作品

 

引き続き、Vol.987-2/3をご覧ください。

Vol.987-1/3に続けてご覧ください。

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-2

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-3

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-4

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-5

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-6

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻る-7

 

▼聖代寺の寺標の地点に戻った、聖代寺を振り返る

 

 

▼聖代寺を後にして高橋(相引川)へ向かう(約0.6km)、聖代寺の参道を下る-1

 

▼聖代寺の参道を下る-2

 

▼右側に藤目高地区給水所、東北方向に五剣山

 

▼聖代寺の参道を下る-3

 

▼聖代寺の参道を下る-6(右奥に「成田山聖代寺の参道➡」の案内板)、聖代寺の参道を振り返る

 

 

▼高橋(相引川)に進む-1

 

▼県道150号線との交差点を東へ横断、四国のみち「➡八十四番-屋島寺」の道標と「義経弓流し」の説明板

▼四国のみち「⇦八十五番-八栗寺」、「義経弓流し」の説明板

源平合戦(1185年)の際、この付近一帯は遠浅な海岸であり、義経は勝に乗じて海中に打ち入って戦っていました。
その時、脇下にはさめていた弓を落としてしまい、平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられ危うく落ちかかりましたが、義経は太刀で熊手をあしらい左手のムチで弓をかき寄せ引きあげました。危険を冒してまで弓を拾ったのは、平家に拾われて「源氏の大将ともあろう者がこんな弱い弓を使っているのか」ともの笑いになるのをおそれたものだといわれています。(義経弓流し現地説明板)

 

▼交差点を東へ横断(前方に源平合戦史跡石標)、源平合戦史跡石標

 

▼源平合戦史跡石標(⇦菊王丸の墓・安徳天皇社)、源平合戦史跡石標(洲崎寺・祈り岩➡)

 

▼高橋(相引川)に進む-2

 

▼高橋(相引川)に着いた、高橋(相引川)

 

▼高橋(相引川)の左(北)方向、右(南)方向

 

 

▼相引川の西沿いに明神橋北詰まで進む(約0.6km)、相引川の西沿いに進む-1

 

▼奥に五剣山、相引川の西沿いに進む-2

▼相引川の西沿いに進む-3

 

▼相引川の西沿いに進む-4、左奥に牟礼川の水門

 

▼相引川の西沿いに進む-5

 

▼牟礼川の水門、相引川の西沿いに進む-6(明神橋が見えて来た)

▼相引川の西沿いに進む-7

 

▼相引川の西沿いに進む-8、右奥に屋島南嶺

 

▼相引川の西沿いに進む-9

 

▼県道150号線沿いに聖代寺の案内板、明神橋(相引川)北詰に着いた

 

 

▼帰路のことでん八栗駅へ向かう(約0.5km)、相引川の西側を振り返る

 

▼八栗駅へ進む-1(次の交点を左折)、八栗駅へ進む-2

 

▼八栗駅へ進む-3

 

▼八栗駅へ進む-4

 

▼八栗駅へ進む-5、牟礼川歩道橋を渡る

 

▼八栗駅へ進む-6(右は琴電の新牟礼川橋梁)、右は琴電志度線路

 

▼かつはし(牟礼川)を渡る、八栗駅へ進む-7

 

▼八栗駅へ進む-8、右に八栗駅

 

▼ことでん八栗駅のモニュメント、ことでん八栗駅に着き帰宅の途に就いた

 

 

引き続き、Vol.987-3/3をご覧ください。

Vol.987-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:15<田村神社>

23.田村神社  <撮影:12.08.12 and 16.04.22 and 17.06.01>

田村神社は、式内社(名神大社)、讃岐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

別称として「田村大社」「一宮神社」「定水(さだみず)大明神」「一宮大明神」「田村大明神」とも。

社伝によれば、古くは「定水井(さだみずのい)」という井戸にいかだを浮かべて、その上に神を祀っていたという。その後、和銅2年(709年)に行基によって社殿が設けられたのが創建とする。

この「定水井」は現在も奥殿の下にある。なお、当初は義淵僧正によって大宝年間(701年-704年)に開基された一宮寺と同一視(建物も同じ)されていた。

 

朝廷の当社に対する信仰は篤く、平安時代には度々神階の授与が行われている。また延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「讃岐国香川郡 田村神社」と記載され名神大社に列したほか、讃岐国一宮として信仰された。建仁元年(1201年)には正一位の昇叙があったとされ、弘安7年(1284年)7月日の銘を有する「正一位田村大明神」の扁額が残っている。また武家からも崇敬・統制を受け、長禄4年(1460年)には細川勝元により、社殿造営や寄進のほか「讃岐国一宮田村大社壁書」(高松市指定文化財)が定められた。これは当社の関係者に対し、守るべき事項を26箇条で記したものである。

 

天正年間(1573年-1592年)には兵火により一切経蔵を焼失したが、仙石秀久から社領100石を寄進された。その後も社領の寄進を受け、藩主が松平大膳家に代わった後も祈願所として崇敬された。

延宝7年(1679年)、高松藩主であった松平氏に依り一宮寺が分割され、後に一宮寺は別の地に移された。

明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列した。  (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼田村神社-高松市一宮町286

▼田村神社-讃岐の一宮、社殿は湧き水の上に立つ水の神

 

 

高松市内から国道11号・193号線を南に向かい、高松市三名町交差点で右(西)折し、県道12号線を400mほど行くと一宮町交差点に出る。南西方向に「田村神社」の大きな鳥居が見えるので、鳥居に向かって進んで行く。

 

<概 要><歴史遺産>

▼田村神社-北参道口の大鳥居、お迎え布袋尊

 

▼田村神社-鐘楼門、祓への輪

 

▼田村神社-桃太郎伝説、満豪開拓の碑

 

▼田村神社-境内図、宇都伎社と龍神

 

▼田村神社-宇都伎社、龍神

 

▼田村神社-一宮天満宮、素婆俱羅社

 

▼田村神社-宮島社、安産子宝犬

 

▼田村神社-子育て布袋尊、微笑童七福神

 

 

別の日に、ことでん一宮駅から東へ進み、踏切を渡り南側からも参詣した。

 

▼田村神社-参道に入った、参道を進む-1

 

▼田村神社-御旅所と大楠、参道を進む-2:一の鳥居

 

▼田村神社-参道を進む-3

 

▼田村神社-参道を進む-4、神明鳥居が近いが一旦道路で分断

▼田村神社-社号標

 

▼田村神社-表参道入口、入口の神明鳥居

 

▼田村神社-表参道、随神門

 

▼田村神社-参道と本殿前の鳥居、本殿前の大鳥居

▼田村神社-本殿

 

▼田村神社-奥殿

 

 

田村神社の社殿の下に湧水が有ると云うが、見る事は出来ない。

境内には、ほかにも袂井(たもとい)(田本井、神社会館辺り)・花泉(はなのい)(境内西の端)という2つの湧水があると云うが、どちらも倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命の伝説に結びついている。

 

日本三代実録によると、861(貞観3)年、讃岐国田村の神を官社に列したとあり、923(延長元)年完成の「延喜式」にも、大社として載せられている。そして、古墳時代後期から平安時代初期に至る当社確立期の歴史を物語るのが、「田村神社古神宝(こしんぽう)類」(国重文)である。その中で、最も古さを示しているのは、金または銀の象嵌(ぞうがん)痕が残る鉄鉾(てつほこ)であり、ほかに奈良時代から平安時代初期の鏡、中国の唐代・宋代の鏡がある。

 

▼田村神社古神宝類-銀の象嵌痕が残る鉄鉾、奈良時代から平安時代初期の鏡

(web引用-水彩画風変換)

 

 

また、細川勝元が応仁の乱の7年前にあたる1460(長禄4・寛正元)年にかけた讃岐国一宮田村大社壁書(かべかき)も伝えられており、大乱に備えて勝元が領国讃岐を固めるために掲げたものと考えられる。それだけに、讃岐国一宮としての田村神社の権威は大きかったと云えるであろう。

 

▼岐国一宮田村大社壁書(web引用-水彩画風変換)

 

<関連遺産>

田村神社のすぐ西側には、四国八十八個所霊場83番札所の「一宮寺」(真言宗御室派)があり、遍路の参詣で賑わっている。元は、田村神社の別当寺であった。

 

▼一宮寺-西門、鐘楼

 

▼一宮寺-本堂、大師堂

 

▼一宮寺-護摩堂と創作石燈籠、菩薩堂

 

▼一宮寺-薬師如来、一宮御陵

 

▼一宮寺-仁王門

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀

新居宮池は今

強烈な夕陽を受ける宮池の水面と水上展望台。

歩道の西北端から見る袋山の丘陵の先端(楠尾神社が鎮座)と宮池水上展望台日替わり4景。

 

 

 

 

Akijii-blog頭言Repeat-098  Orignal掲載日:Vol.178 (2013.04.05)

人生は他動的。

 

トヨタ自動車元会長の奥田碩氏は、大学卒業の1955年、景気がドン底で「卒業生の2/3は就職できずに留年」するような状態、選り好みなどできない状況で、採ってくれるというトヨタ入社を決めたという。

氏は、自動車が好きだったわけでも、企業としての成長性を見込んだわけでもなく、たまたま自分に用意された環境のなかで勝負していったケースだ。 


セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文会長は、大学に入るときには政治家に憧れていたが、やがて政治に興味を感じなくなり、ジャーナリストになろうかと考えて、新聞社を受けたが面接で落ちて、父親のつてで家の光協会に入ることになった。当時、農家向けの雑誌「家の光」は百万部以上の大雑誌だった。

ところが突然、新卒は採らないことになり、いわば内定取り消しのようなことになってしまい、結局、出版流通会社の東京出版販売(現トーハン)に入社したという。
やがて東販を辞めてイトーヨーカ堂に入ってという転身の決断の一つひとつは自分でされたに違いないが、ビジネスキャリアの始まりは、やはりたまたま与えられた状況のなかで自分は何をしたらいいかを見極めて、精一杯の努力をすることだった。


自己中心性を脱して、流れにまかせるということが、いまの若い人たちには、むしろ必要な要素ではないだろうか。

WBC「侍ジャパン」の監督も務めた原辰徳監督が座右の銘とするのは、「人生他動的」という言葉だそうだ。

西鉄ライオンズの黄金期の名監督であった三原脩氏の言葉で、それを巨人コーチ時代の中西太氏から教えてもらって、この言葉を噛み締めるようになったそうだ。

他動的な要素に柔軟に対応して、過去の経験を活かして実力を出していくことで、仕事のスケールがどんどん大きくなる。

 

小生は、何ごともすべて自分の意思で判断・決断して動くのだと考えるのではなく、自分に振り向けられたことを受け入れていくなかで、可能性は拓かれていくものだ、と…このように是非とも意識し実践して欲しいと願う一人である。

 

 

<高くがる空間>

新居宮池の遊歩道から見る火ノ山・十瓶山・鷲ノ山の上空。

熊野神社(元山町)の上空。

県営住宅高松元山団地(元山町)の上空。

高松自動車道(協和中学通踏切の右南方向)(元山町)の上空。

 

 

A seasonal flower 

◇ウォーキングコースのMi氏の畑に実を付けたバナナの木

収穫は9月中旬頃との事です。

 

 

◇ウォーキングコースの畑に種を付けたオキシペタラムブルスタ

 

◇町並巡りで出会ったニオイバンマツリ

 

◇ウォーキングコースのYa宅の千日紅(センニチコウ)

 

◇ウォーキングコースのⅠt宅垣根のフウセンカズラ

 

 

 

Akijiiままniフォトsketch大宮八幡宮・屋島ケーブル登山口駅・屋島神社  

大宮八幡宮

西暦八五九年(貞観元年)豊前の国(大分県)宇佐神宮より御船にて京都石清水八幡宮に御遷宮のおり屋島沖の海上ではげしい風波に遭遇し壇ノ浦の入り江に避難され御輿を陸地に遷御して奉り、三日間御鎮座される間に、風波も穏やかになり御船を出御の際、御鎮座の跡に神幣三振りを残されたのを里人等が氏神として奉祀することになりその場所に一間半四面の板葺の社を建立して三振の神幣を奉ることになったが、人家も少なく、氏子も乏しく、奉祀するのが困難となり、現在の場所に新宮を築き遷し奉られ鎮座されたのが西暦一一六○年頃と伝えられ、この地名を新馬場と称され、又、旧跡地は現在「宮の窪」と伝えられている。(境内由緒書より)

 

旧屋島ケーブル/屋島登山口駅

屋島山上へ登るケーブルカーで、屋島寺や獅子の霊巌への足となっていた。建設に当たっては地域住民の反対もあったが、屋島ドライブウェイが開通する1961年(昭和36年)までは、唯一の動力登山手段であり、徒歩で1時間を要する距離を5分で結んだことから開通後は賑わいを見せた。

2004年、屋島登山鉄道は自己破産を申請した。負債総額は約9億円。直接的な原因は屋島観光の衰退に伴う利用客の減少で収支が悪化し、資金繰りが困難になった事であったが、その背景には親会社の高松琴平電気鉄道(ことでん)本体が2001年末に民事再生法の適用を申請したため、以降同社はグループの支援を受けられず完全な単独経営を余儀なくされた事があった。2004年10月16日から休止する旨を四国運輸局に届け、2005年7月1日には「鉄道事業の廃止届出」を行い、その中で事業廃止日を1年後の2006年7月1日とした。

しかし、廃止届出から約1か月半後の2005年8月22日には「事業廃止の日の繰上の届出」をし、当初予定していた廃止日を一年近く繰り上げる事を決定。その届出通り同年8月31日に廃止された。

運営会社は破産手続きを進めながら、譲渡先を探すなどケーブルカーの存続の道を模索したが、施設の老朽化などが障害となって譲渡先は見つからなかった。

屋島ケーブル廃止後は、乗合タクシーによる代行輸送が行われていた。また2006年12月の新屋島水族館開館に併せ、土日祝日と一部の学校休業日にはことでんバスにより琴電屋島駅-屋島山上間のシャトルバスの運転が開始された。

このバスは好評のため2007年(平成19年)4月1日から毎日運転となり、同時にJR屋島駅への乗り入れも開始され、屋島への公共交通機関が完全復活した。

廃止後、1号車「義経号」が屋島登山口駅、2号車「辨慶号」が屋島山上駅にそれぞれ留置されていたが、災害時等に滑落する懸念から、辨慶号は2013年1月に山麓の屋島登山口駅まで引き下ろされた。

屋島登山口駅については、2014年-2015年頃に解体され、2016年に地元新馬場自治会の自治会館「新馬場会堂」が落成したが、駅のホームは撤去されず、車両1両が留置された状態で存置している。

 

讃岐東照宮 屋島神社

当神社は慶安五年(1652年)高松藩主松平頼重公が香川郡宮脇村の本門寿院境内に社殿を建立し東照宮の神霊ほ奉斎したのにはじまる。以来山王社として歴代藩主は崇敬してきたが文化元年(1804年)当時の高松藩主第八代松平頼儀公は、この風光明媚な屋島山麓に社殿の造営に着手し、文化十二年(1815年)に完成した。その造営費は当時の金額で約十四万余金と言われている。その後明治四年には冠獄神社と改称しさらに明治七年屋島神社と改称同年県社に列せられ明治十五年藩祖松平頼重公を合祀して崇敬していたが、昭和四十八年二月十二日思わぬ不慮の災害に会い、本殿、拝殿等を全焼したが辛うじて唐門は火災から免がれ無事であったことは不幸中の幸いであった。翌年十一月には再建現在に至っている。彫刻等は、唐門が三分のニを占めており、江戸時代の粋を極めた美術工芸品は見事なものばかりで、中でも正面上部にある鳳凰の鳥、御門の両側の柱にある上り龍、下り龍等は格別のできばえである。棟梁は、左甚五郎の六世、五代目の左利平忠能が父の名跡を継いで高松藩松平家の客分棟梁となり、文化十二年四月に藩命を受けて讃岐東照宮の彫刻彫金等を棟梁し、完成したものである。(由緒書より)

 

▼所在地、屋島

高松市屋島中町:〒760-0112

 

▼大宮八幡宮、旧屋島ケーブル屋島登山口駅

 

▼屋島神社社殿、SHIKOKUMURA

 

 

▼琴電屋島駅で下車、琴電屋島駅前から見る屋島

 

▼四国のみち-屋島の案内板、屋島山上シャトルバスのりば

 

▼琴電屋島駅舎、大宮八幡宮へ向かう(一の鳥居まで約0.3km)

 

▼屋島中町を西方向へ進む-1、左側に屋島中学校

 

▼島中町を西方向へ進む-2(次の交差点を右折)、左側は琴電志度線の屋島中学校前踏切

 

▼大宮八幡宮へ進む-1、左に御旅所

 

▼大宮八幡宮御旅所

 

▼大宮八幡宮へ進む-2(一の鳥居が見えて来た)、大宮八幡宮へ進む-3

 

 

▼大宮八幡宮に着いた、大宮八幡宮-1:全体像スケッチ

 

▼大宮八幡宮-2:一の鳥居、案内図

 

▼大宮八幡宮-3:参拝者駐車場、御守所・宮司宅

 

▼大宮八幡宮-4

 

▼大宮八幡宮-5

 

▼大宮八幡宮-6

 

▼大宮八幡宮-7

 

▼社務所、大宮八幡宮-8

 

▼大宮八幡宮-9:随神門、古札納所

 

▼後方を振り返る-1、大宮八幡宮-10

▼左に由来碑・右は神馬、大宮八幡宮-11

 

▼後方を振り返る-2、大宮八幡宮-12

 

▼大宮八幡宮-13

 

▼大宮八幡宮-14:拝殿、扁額

 

▼大宮八幡宮-15:御輿殿・御札所、御饌殿

 

▼大宮八幡宮-16:天満宮、本殿

 

▼大宮八幡宮-17:屋島レグサムフィールドからサンポートのパノラマ景

▼大宮八幡宮-18:屋島レグサムフィールドズーム景、高松シンボルタワーのズーム景

 

 

▼大宮八幡宮を後にして旧屋島ケーブル屋島登山口駅へ向かう(約0.2Km)、旧屋島ケーブル屋島登山口駅へ進む-1

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅へ進む-2

 

▼左奥に屋島山上中区配水池、旧屋島ケーブル屋島登山口駅へ進む-3

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅へ進む-4

 

 

▼正面は旧登山口駅舎跡(新馬場会堂):左奥に見えて来た、旧屋島ケーブル屋島登山口駅へ進む-5

 

▼新馬場会堂、旧屋島ケーブル屋島登山口駅に着いた

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-1:屋島山上0.8Kmの看板、変電所跡

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-2:車内1

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-3:車内2、旧屋島ケーブル屋島登山口駅-4

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-5

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-6

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-7

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-8

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-9

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-10、線路並階段進行禁止札

▼引き返す、旧屋島ケーブル屋島登山口駅-11

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-12

 

▼旧屋島ケーブル屋島登山口駅-13、旧屋島ケーブル屋島登山口駅を後にして屋島神社へ向かう(約0.2Km)

 

(Vol.986-2に続く)

 

 

<akijii展-(543)

スクラッチアート(世界の名所めぐり6点)

今報は「マッタホルンのある風景で、所要時間は未測定でした。

◇完成作品

今報で「スクラッチアート(世界の名所めぐり)」を終え、

次報からは「美しい花モチーフの切り絵(ANIMAL FANTASY)シリーズ-03」です。

 

引き続き、Vol.986-2/3をご覧ください。