壱の段 弐 『忍び寄る悪意』
「………ん~
あ、あ、あす……
むぅっ」
「………」
「んん~…っ
あ、あす……
か?」
「……ねぇ」
「いや、なんか駄目っぽいな。悪くないけど
もう…少し意味合いっていうか、語感って言うか」
「……もしもぉ~し?」
「あす…あす……
アストンマーチン
ってドコの国の名前だよそれ」
「ちょっとヒビキ君?!」
「はい?」
甘味処『たちばな』の地下。
様々な機器と奇妙な楽器。
不可思議なアンティークが整然と飾られた白い壁の部屋がある。
ここは関東支部だけが持つ、『猛士技術開発室・分室』
別名『みどりの研究室』
そこで、山積みされた本を睨みつつ、なにやらぶつぶつと独り言を言っているヒビキと、コンピュータを傍らにドラフター──製図版──に向かうみどりの姿があった。
「何?」
「あ~のぉ~ねぇ~っ
居るのは構わないけど、も少し静かにしてくれない?
後ろでブツブツ言われると、気が散るんですけどぉ?」
呆れたような、しかし剣呑な視線を投げつけるみどりの顔を見て、ヒビキはとっさに手近にあった本で視線を遮る。
「んなつれないコト言うなよ~。
やっぱ、お前の意見も聞きたいしわけだしさぁ」
みどりは諦めたようにため息一つつくと、こわごわと本の影からチラチラ自分を見る夫の顔を見て苦笑いした。
普段多忙な二人のこと。意外に夫婦の二人の時間を取れることが少ない。
こうしてオフのヒビキがここ居て、プライベートな時間を過ごすことは公私混同と責められても仕方が無いことなのだが、それでもあえて二人の時間を持とうというのは、ヒビキなりの心遣いなのだろう。
実際、今ヒビキの頭を悩ませているこの事は、二人にとって大切なことなのだ。
だから、みどりとしては苦笑いをするしかない。
「気持ちは嬉しいんだけど、産休に入る前にコレ仕上げて小暮さんに送らないと」
「新型のなんたらって装備のコトだろ?
そんなモン、あとは小暮さんに任せとけばいいじゃん」
「そういうワケにはいかないでしょ。
『鬼』の成り手が少なくなってる今、これを実用レベルまで仕上げとかないと、安心してお休み取れないもの」
それを聞いて、ヒビキが子供のような、ふてくされた顔をする。
「そんなモノ無くても、俺ら現役が頑張るって」
どうやら、ヒビキはその『新型の装備』とやらにいささか不満があるようだ。
みどりがそれの開発に時間を取られている、というのも面白く無いのだろうが。
どちらにせよ、子供っぽい理由には違いない。
もっとも、そんな部分を見せてくれるのは自分だけだと言う事は、みどりにとって嬉しい事なのだが。
そんな時だった。
「失礼します。
みどりさん、今回のデータを持って来まし……」
一人の青年が部屋に入るなり、二人の様子を見て凍り付いていた。
「おお? 蛮鬼(バンキ)。久しぶり~」
「あ、バンキ君。おかえりぃ~」
「……えと。
あの、お邪魔なら出直してきますけど」
蛮鬼という荒々しい名前とは裏腹に、理知的で落ち着いた雰囲気と容貌の青年は、腰が引けたように一歩あとずさる。
それはそうだろう
パリっとしたいつもの白衣の下に、妙にキュートなフリルつきエプロンという、かなりシュールなコーディネイトの女性が、逞しい青年を睨みつけている、などという光景に出くわせば。
しかも女性に睨まれて小さくなっている青年が、関東──いや全国最強の『鬼』ともなればなお更である。
「あ、いいのいいの。
コレは気にしなくていいから」
「コレ?!」
ヒビキが自分を指さして抗議の声を上げるが、妻のひと睨みで再び小さくなる。
──最強の『鬼』を尻に敷く、最強の『鬼嫁』
バンキの脳裏に、ふとそんな言葉が浮かびあがる。
「え…えと。
じゃぁ、これがいただいた改良DAの解析データです。
俺なりの考察も入れておきました」
「助かるわぁ。
バンキ君のデータが一番参考になるもの。
……どっかの誰かさん達は
『結構いけるッスよ』
だの
『いいんじゃないッスかね。よく分からんですが』
だの
しまいには
『データ? あ、忘れた』
なんてアバウトな人たちばかりだもの」
最後の一言を言う時、ちらりと夫の顔を見る。
その当人は、「良く当たる姓名判断」という本をこれ見よがしに読んで韜晦(とうかい)していた。
それを見て、バンキの顔に苦笑が浮かぶ。
「……?
ところで、それが例の新しい装備ですか。
へぇ~、もうここまで仕上がったんですか」
バンキの視線は、みどりのドラフターに貼ってある一枚の設計図に注がれた。
そこには鎧を纏ったような『人』の姿が描かれている。
「そ、現代版の『鬼の鎧』」
「『鬼身装甲』……アームド・サポート・アクセラレーター
ASAですか」
「そ」
バンキは興味深げに設計図をしげしげと覗き込む。
『鬼身装甲』──アームド・サポート・アクセラレーター。
それが今みどりが開発に係わっているプロジェクトだ。
かつて『鬼』達の数が少なくなった時代に、その代替品として造られた武具に『鬼の鎧』というものが有った。
それなりに鍛えられた人間がこれを纏うと『鬼』に近い戦闘力を持つことが出来るというものだ。
そしてこの『鬼身装甲』は、響鬼が使用していた「アームドセイバー」のシステムを簡略化し、『鬼』で無い者には『鬼』に近い能力を。『鬼』達には防御力や身体能力を僅かながら向上させる力を与える事が出来る。
かつて全国を席巻した『オロチ』現象によって、甚大な被害をこうむった『猛士』本部が、実戦部隊の維持・強化の苦肉の策として起案したものだ。
「これが量産されたら、現場は随分楽になるでしょうね」
「いや、楽しちゃ駄目だろ」
微量に厳しさを含んだヒビキの声音に、バンキが怯むように響鬼の方を振り向く。
「鍛えて自分のモノにした『力』が、結局最後に人も、自分も助ける力になるんだ。
人任せに頼って、楽しようなんて考えたら、いつかツケが自分に廻ってくるぞ?」
「それは…そうですけど」
ヒビキの言葉にはうなずけるものがあるのだが、こと現実と効率を考えたら戦力の増強は急務である。若く合理的な思考のバンキには、この新装備は現実的で魅力的に思えた。
「あ、だからですか。アームドセイバーを手放したのは」
バンキはそう言って、壁にかかった十手とも剣とも見える機械に目をやった。
「うん。こいつ使い続けていると、なんだか自分が『怠けて』しまいそうでさ」
「でも、これヒビキさんにしか使えないんでしょう?」
暗に「アームドセイバーを使えるのも、『鍛えて』きたおかげではないのか」と言ってみる。
「けど、『自分の力』じゃないから、さ」
『鍛え』続け、自らを研鑽し続けてきた、それはヒビキの『鬼』としての矜持なのだろう。
若いバンキには、まだそれがピンとこなかったが。
「ところで…ここに書いてあるの、このシステムの名前ですか?」
バンキは設計図に筆で記されている「暁(あかつき)」「茜(あかね)」という文字を指さした。なかなかの達筆である。
それを聞いて、みどりがげんなりとした表情を浮かべる。
「それ、犯人は鋭鬼(エイキ)君よ。
もぅ…勝手に人の図面に落書きなんかして」
「でも、いい名前じゃないですか?」
「あいつお得意の語呂合わせだよ」
ああ、とバンキは納得したように首肯した。
「『ア』ームドでASA(朝)だから『あ』かつき、『あ』かね、ですか」
うんうんと同時にうなずく「鬼夫婦」を見て、バンキは苦笑を隠せ無い。
妙なところで息が合っている。
「いっそCAD(キャド)で描けば良かったのに」
CADはコンピューターを使った、一般的な設計ソフトである。
これならそうそう悪戯されることもないだろうに。
「でもほら、実際に描いてみたほうがイメージが捕まえやすくて。
CADだと、その辺がちょっとねぇ~」
そう言ってみどりはニコニコしていた。
夫であるヒビキは、上に「超」がつくアナログ派だが、意外にみどりもアナログな面があった。
妙なところで息が合うのも、この辺りが理由か。
──意外に似たもの夫婦だったんだな。
バンキは奇妙に納得していた。
大都会の中に「それ」は有った。
古びて、人の住む気配の無い洋館。
確かに「それ」はそこにある。
だが、誰もそれに気付くことは無い。
その場所には、無意識レベルで人の視覚からは「認識」出来ない結界が貼られていた。
現代の「人」の成せる技ではない。
そう──そこに住まうのは「人」などではないのだから……
一人の男が、暗い一室で熱心に二つの装飾具に見入っていた。
それは「腕輪」と「額冠」
その二つには十数本のコードが取り付けられ、得体の知れない泡立つ液体に漬けこまれている。
「……うん。予想以上だ」
男の声は若くもあり、老いてもいる、この世ならぬ声音だった。
その声音には、およそ感情というものが感じられない。
その声音に、微量の感情らしきものが現れる。
それは新しい玩具を得た子供の様でもあり、冷徹な科学者のようでもあった。
「新しい玩具はお気に召したようね?」
その背後に、艶然とした和服の女が音も無く現れた。
彼女もまた、若さと老いの両方を備えた、この世ならぬ気配を漂わせている。
──明らかに、その男と「同類」だった。
「流石、茨木童子の遺産…といったところかな。
扱いには少々骨が折れそうだがね」
男は眼鏡を外して、袂のハンカチを取り出し、眼鏡を拭いた。
その何気ない所作にさえ、人間らしいものは感じられない。
「後は『素体』だけだが…」
男がそう呟いた時、今の季節には存在しないモノが部屋の中に現れた。
一匹の、蝶。
「戻ってきたようね。
貴方の『お姫様』が見つかればいいけれど?」
「そう願いたいね」
男が差し出した手に蝶が止まる。
次の瞬間、それは一枚の紙切れに変化した。
男はその紙切れを、古びた黒板を拭くようにして壁をなぞる。
するといかなる技か、壁に映画のように街の風景が映し出された。
人と建物がひしめき合う、「人の生きる世界」
場面はめまぐるしく移り変わり、やがて小さな喫茶店を映し出した。
その窓の中に、高校生らしい三人の少年と少女が映し出される。
「……居たよ」
「おめでとう」
そう祝福する女の声音には、揶揄するような響きがある。
だが、男はそれに構いもしなかった。
「やはり、申し分ない『素体』だ」
喜悦の表情を浮かべる男の顔つきが、ふと変化する。
──少年がこちらを見ていた。
「あら…
もしかして、気付いたのかしら? あの坊や」
「まさか──」
「気付いているな。 間違いなく」
男が思案顔をしている時、部屋の片隅の暗がりから、低く染みとおるような男の声が突如聞こえてきた。
ただし暗がりのせいでその顔を伺うことはできない。
「根拠は?」
その問いにもう一人の男は
「カンだがな。 だが『鬼』の臭いがする。
それに稀に存在するんだ。
魔化魍や『鬼』と接触していくうちに、五感や六感が研ぎ済まれていく者が」
言われてみて、男は顎に手をやると、その少年の顔を凝視した。
そう言えば見覚えが、ある。
「──思い出した」
「確か、あの『鬼』の側にいた子よね?」
「──童子と姫の記憶にあったな…
ヨブコの『音』を聞き分けた奴だ。
それにもう一人の娘…
あれは確か『鬼』の子じゃなかったかな?」
「宗家の若鬼についていた子鬼よ。確か」
どうやらあきらの事を言っているらしい。
「どうせならその子がいいんじゃくて?」
「ふむ……」
「出来れば『鬼』では無い方いい。
でなければ、この茨木童子の遺産の力の程、その力を試す価値が無い」
暗がりの男の意見に、男はしばし考えると、ニヤリと口元を吊り上らせた。
「喜んでくれ
──もう一つの『素体』が決まったよ」