序之段 弐 『揺れる音』
とくん……
とく……ん
音
とくんとくん…
私の音
私の胸の鼓動
苦しくて、切ない
私だけの ─おと─
何時からだろう。─それに気がついたのは。
小学校の時から、ずっと一緒だった。
いつも私は彼のそばに居て、彼も私のそばに居てくれて。
それが ─当たり前だったのに─
それが、「あの人」と出会ってから、彼は変った。
不思議な男の人─ヒビキさん─
愉快で、明るくて、頼もしい、不思議な人。
ヒビキさんと出会ってからの彼は、私の知らない世界を見ていた。
そして私が気がつかないほど
少しずつ 少しずつ
強く、逞しくなっていった。
私はそれに気がつかなくて。
いつもの彼だと思って。
気がつくと
私は取り残されていた。
─そして今の彼の横には、別の女性(ひと)がいる──
ひとみは江戸川のサイクリングロードを一人歩いていた。
朝日がまぶしい。 空気が冷たくて気持ちが良い。
明日は明日夢とあきらと三人で、城南大学の推薦入試を受けることになっていた。
あきらは人間社会学部─福祉学科を
ひとみは教育学部を─将来は小学校か幼稚園の教諭になるつもりだ
そして
明日夢は医学部を。
「将来は音楽関係の仕事に就きたい」と子供の頃から言っていた明日夢が、何故医者を目指す事にしたのか──ひとみは、ぼんやりとだが知っていた。
二年ほど前、彼女はパネルシアターのボランティアに励んでいた。
きっかけは、明日夢がブラスバンドを辞めて、彼の側にいたくてはじめたチアに興味を失った頃に、あるチラシが目に飛び込んできたのが始まりだった。
元々彼女は演劇部だった。人の前で別の人間を演じる事の楽しみを知っていたし、それで誰かを楽しませることが大好きだった。
実際、パネルシアターで子供たちの笑顔を見ることに喜びを感じたひとみは、ブラバンを辞めた明日夢と、高校で明日夢を通じて知り合った新しい友達、天美あきらを誘ってみた。
その頃の明日夢は何故か学校を休みがちだったので、ひとみはブラバンを辞めて気落ちしてるのかと勝手に思い、元気付けるために誘ってみたのだ。
逆に学校を休みがちだったあきらは、頻回に─というより当たり前に─学校に来るようになっていたのだが、こちらも何か気が抜けたようになっていたので、一緒に誘った
。
幸い二人はこのパネルシアターに興味を持ってくれ、一緒に活動するようになった。
そんなある日、明日夢はある少女に出会った。馴染みの子で直美という少女だ。
いつも明るくて物怖じしない元気な子だった。明日夢をパネルシアターに引き込むことに成功したのはこの子のおかげだと言っても良い。
だが、彼女は不治の病に侵されていた。
サラセミア:陰性遺伝病。
重度の貧血症状を起こす先天性疾患で、一生をかけて輸血と排鉄剤を注射し続けなければならない身体だったのだ。
それでも彼女は、明るく強く「生きて」いこうとしていた。
そんな彼女を見てだろう。明日夢が医者を決意したのは。
何故、明日夢がそこまで「人助け」に執着したのか、理由は分からない。
しかし現実、明日夢はそれからまるで人が違ったように一心に勉強をし始めた。そしてついには医学部への推薦という快挙を成し遂げるまでになったのだ。
どちらかといえば周囲に流されやすく、おどおどとした印象があった明日夢とは思えない変りようだった。
そして今度は、ひとみがそんな彼に触発された。
子供たちを、直美や明日夢のように強く、明るく育てる。
そんな仕事に就きたいと思い始めたのだ。
あきらもそうだ。何か吹っ切れたように福祉の仕事に興味を持ち、ひとみと共にボランティア活動をする傍ら、熱心に勉強を始めていた。
──障害を持った人や、お年寄りを助けたい。彼女はそう言っていた。
そうして3人は、めでたく推薦の枠を獲得したのだ。
それは、とても嬉しい事だった。
その、はずだった。
だが、しばらくして、彼女の心に蔭りが落ちていた。
一緒に仲良く頑張ってきた。そのはずだったのに、明日夢とあきらの間になにか強い「絆」のようなものが有るのを、彼女は次第に感じ取っていた。
ひとみは知らない。
二人がかつて「魔化魍」と呼ばれる悪意に立ち向かう「鬼」として生きようとしていたことを。
そしてそんな二人の間に、強い共感が生まれていたことも。
気がつけば、明日夢は彼女と肩を並べて歩く事が多くなっていた。
いや、本当はもっと早く気がつくべきだった。他の女友達から「天然」と呼ばれることが多いひとみだったが、自分の鈍さを、これほど悔しく思ったことは無かった──
今、ひとみが江戸川の河川敷を歩いているのも、明日夢に会うためだった。
会って「明日はがんばろうね」。そう言って二人で笑って、受験への不安を紛らわせたかったのだ。
そして──彼女の望みは思いもかけない形で叶った
「あ! 安達君…っ」
果たして、愛用のリュックを背負い、白い息を吐きながら走ってくる明日夢の姿が見えた。ひとみに気がついたのか、手を振っている…
──違う
彼の視線の先には、スエットに身を包んだ別の少女の姿があった──
あきらは一通り『型』を終えると、ふぅ…と体内に淀んだ空気を吐き出した。
気持ちと身体がすぅ…っと軽くなっていく。
「鬼」になることを辞めた今でも、彼女は鍛錬を欠かさなかった。性分といってもいいだろう。いくら「鬼」になることを止めたからといって、「鍛える」ことまで止めたら、自分が「なまけて」いるように思えたからだ。
あれから随分性格も丸くなり、柔和な表情を浮かべるようになってきたとは言え、元々の生真面目過ぎる性格というのは、なかなか直るものではない。
天美あきらという少女は、そんな子なのだ。
「おーい! あきらさーん!!」
「? 安達君?」
汗を拭こうとタオルに手を伸ばした時、聞きなれた声が近づいてきた。
「なに、あきらさんも?」
「ええ…やっぱり、明日試験だと思うと、なんだか落ち着かなくて」
そう言いながら、あきらはポットから熱い湯気の立つ液体をカップについで明日夢に渡した。
「? 何これ」
「ホット・レモネードです。
運動した後飲むと、疲れが取れますよ」
「ありがと」
微笑み返して二人は、肩を並べて座った。
「……安達君、緊張してません?」
「俺?」
そう言われて、明日夢は一瞬間考え込んだ。
「…別に緊張してないわけじゃないけど、なんか腹が据わったっていうか、やることはやってきたから。──いつもと変わんないじゃないかな」
「凄いですね」
「鍛えてますから」
そう言って、明日夢はヒビキがよくするように、人差し指と中指を立てて、しゅっと敬礼する。
「……なんだかヒビキさんに似てきましたね」
「え? そう」
含み笑いをするあきらを見て、明日夢は思わず笑い返した。
二人の姿を見て、ひとみの心に再び蔭りがよぎる。
なんだか、いたたまれない。
以前の彼女だったら、なんの躊躇も無く「おはよーっ!」と駆け寄っていたのだろうが。
仲良く笑いあう二人を見て、その間に入っていける勇気が、今は無い。
──帰ろう。
寂しく、そう考えた時だった。
「何やってんだ? 持田」
「えひゃ?!」
突然後ろから声をかけられて、ひとみの心臓がはじけた。
振る向くと、ひとみと同い年くらいの、整った顔立ちの長身の少年が立っている。
「き、桐谷君? 脅かさないでよ、もぉ」
彼女の後ろに立っていたのは桐谷京介。彼女のクラスメートだった。
ついでに言えば明日夢の「兄弟弟子」なのだが、それはひとみの知ることではない。
彼が「鬼」であり、去年「魔化魍」にさらわれたひとみを助けてくれた事を、彼女は覚えていないなかった。そして、彼の存在が明日夢を変えた一因だということも。
「別に、脅かしたつもりはないけど。……何ボーっとしてたんだよ?」
どう返事をしたものだろう。ひとみが言いよどんでいると、京介は河川敷で仲良く話している二人に気がついた。
「お? 明日夢ーっ! 天美ーっ!」
そう言って京介はさっさとひとみを置いて二人に駆け寄ろうとした、
が、ふと振り向き、ひとみに怪訝そうな目を向ける。
「? どうしたんだよ持田。来ないのか?」
言われてひとみは、ようやく──そしてバツが悪そうに──京介の後ろをついていった。