父の“アタマ”について。三宅家は代々、頭髪がフサフサしている家系とは言い難く、私は小さい頃から「遺伝だから仕方ない」と諭され続け、その結果として、現在スキンヘッドであります。
祖父・隆一は、私がこの世に生を受けたときには既に古希を過ぎた齢で、その頭髪のサマを全く覚えていないのは、幼少の心に既に植えつけられた恐怖心により見て見ぬふりをしていたからかもしれません。
父は、私が小さい頃すでにハゲていました。
その頃(昭和44年)、私の物心がようやくついた時分には、家族は田園調布に住んでいました。もっともその場所は、並木道の有名な高級住宅街を控える駅西口一帯とは逆方向で、東口から徒歩5分ほど、裏には交通量の多い環状八号線がすぐ走る場所の普通の二階建てでした。
毎日の朝は、父の“儀式”から始まりました。
私が寝ぼけまなこに起きてくると、家中に蒸しタオルの匂いを感じます。鏡の前では、すでに父がシェービングクリームを塗りたくり、おもむろにアツアツの蒸しタオルを両手で顔にあてがうところ。鏡にうつる父の前頭葉には髪の毛がない。後ろから見ると、残りの黒髪がきれいにU字型に生えています。
しばらくすると父はそのタオルを洗面器に預け、その後、ほっこりとした髭を剃刀で丁寧に剃りあげていく。家中に充満したその匂いは、昔の床屋さんでひげ剃り時に立ち込めていたあの湯気を想像していただくとわかりやすいのですが、それはシェービングクリームをぬぐったタオルの残り香でした。
葬儀の際、その話を長兄にしたところ、その儀式を行うため、我が家の湯温は異常に熱く設定されていたそうです。
そして出勤。既にその時間は長兄、二兄含めて、家族の食卓が始まっていますが、出勤する父を見送った記憶がまったくありません。家の主である父は常に一番に食事を済ませていたそうです。私が幼稚園に向かうとき、すでに父は出発した後で、あまり顔を見たことがありませんでした。
また、その頃の父はすごく太っていたという印象があります。よく、母が父に「あなた!(体重)70kgを超えるとダメよ」とよく諫言していて、私の子供心には「大人が太ることの目安は70kg」と刻まれました。後年、糖尿病を患った父母は共に血糖値が高く、我が家の食卓テーブルにインシュリンの注射が常備されることとなります。
母は私に父の若い頃の写真をよく見せてくれました。毎日新聞社入社間もない頃(昭和28年頃)の父はまるで別人のようほっそりとしていました。確かにオツムはそれなりに広い印象はありますが、彫りが深く外人のような顔をした“父らしき人”が。 事実、当時としては珍しかった長期の英国出張(英国外務省招待の選挙視察、2ケ月以上滞在)が前年にあり、その土産写真で見た外国の風景の中でも、父の顔は周囲としっくり馴染んでいました。
今から考えますと、その英国出張後のわずか2~3年(40歳前後)で父は“激太り”したのでしょう、今度、母にそのことを確かめたいと思います。そして、自分がてっきり外人のような顔になると踏んでいた私は、結局のんべんだらりとした醤油顔として完成し、DNAは頭髪だけを受け継いだというのは痛恨の極みであります。
(つづく)