形而上学的お話をします、クラフトワーカーヒーラーえいむのブログです。
そろそろ窓を開けているのが辛い季節になりました。えいむです。海近育ちなので湿気には強い方ですが、気温が高いと流石にやられます。ここのところの「夏場に30度越えは普通」な状況は25度過ぎたら溶けてまうわーと言いながら子供時代を過ごした昭和の人には堪えますね。まぁ、近所で使っているらしい香り付き蚊取り線香の匂いが苦手なので、その匂いも一緒に窓から入ってくるくらいなら閉めてエアコンかけますです。はい。ええ、私は匂いに敏感です。若い頃にちゃんと気づいてこの特性を生かすような仕事を探せばよかったな、と今更ながら思います。ズボラであまりこまめな掃除をしなかったり大掃除もサボりがちだったりしますが、埃アレルギー持ちのせいかカーテンは年数回洗います。朝開ける時、夜閉めるときなどに埃臭いなーと思うことが続くと、洗うようにしているのです。昔家具寝具売り場で働いていた頃にカーテンも扱っていたので、取扱方はいろいろご存知ですよー。カーテンは面積が広かったり、織模様が入っていたりするので、意外と埃を吸っているものなのです。ということで、ちゃんと洗濯機で洗って大丈夫な布地を選びました。今のところプリーツもとけてないですし、いいカーテンを選びました。自分偉い。人にはよき特性と悪き特性があるかと思います。この匂いに敏感なのがどちらに属するかは謎ですが。私は占星術やら元々のエネルギーやらでご縁のある神様や天使など、ほぼ全てが水系の方で占められています。海から離れすぎると体調を崩すのもそのせいなのでしょうかね。水系、そして私にご縁のある天使の一人がガブリエルです。私の頭の中に出てくる姿は背が高く筋骨隆々でシルバー色の甲冑を身につけた、赤毛のスパイラルパーマな長髪男性ですw天使を数人まとめて呼ぶときなど、ガブさんは私の肩をポンと叩いてくれることが多いのですが、がっつりサポートしてくれる時は両肩をガンガン叩いていくのでちょっと痛いっすwいや、パワーもらえるのはありがたいけども。そしてよく言われる彼の体臭w つまり近くにいるときに香る匂いというものが、硫黄臭w確かにガブさんいる気がするーっていう時に、あのくっさい匂いがすることがありますね。箱根大涌谷の匂いwそして最近密かな人気を得ている私のオルゴナイトの中に、麻炭入り盛り塩オルゴナイトというものがあります。麻炭パウダーとブラックソルトを使った八角錐のオルゴナイトなのですがブラックソルトを使っているために、硫黄臭がします。一応creemaなどでは説明文に、少し臭いので敏感な方はお避けくださいと添えてあります。レジンで固めてしまえば、結構近寄らない限りそこまですごく臭くはないのですが。流石に制作中は結構匂いますwもともと溶剤使用時には換気必須ですので、換気扇を回してますから充満することはありませんが。やっぱり結構くさいですwなので、ブラックソルトを使う時にはちょっとした意気込みが必要で。今ちょうど在庫がないので作らないといけないのだけれど、その意気込みが出なくて困っています。というのも、ちょっと色々落ち込んでいた今日この頃に、元気をもらおうと色々な方々を呼んだりもしたわけですが。最近ガブさんがすごくやる気で来てくださる上に、めっちゃ匂うんですwそこにさらにブラックソルトの匂いを重ねようと思えず、なかなか制作する気にならなくて困っています。いや、そんなのいいから作りなよ、とは思いますけど。作れない言い訳をガブさんのせいにするなよ、とも思いますけどw目に見えないくせに匂うとかなんだよ。と思っちゃいます。来てもらっておいて何ですけど。そういうことで、近いうちにちゃんと作りたいと思います。ガブさんサポートよろー。←作る時には改めてちゃんと呼びますです。ちなみにウリエルはお香の香りがするそうで。そういえばたまに焚いてないのにナグチャンパの匂いするよなーって思います。ウリさん、私のところに来る方は白い布を頭からかぶった線の細い方で、いつも私の手をギュッと握ってくれます。かわゆす。文献によってはおっさんですけどwオルゴナイトの直接販売はメールやLINEなどでお知らせください。creemaでも販売しています。https://www.creema.jp/creator/2731904エネルギーを変えるためにオルゴナイトは結構役に立ってくれますので、気になった方は一度お手に取ってみてください。DNAアクティベーションなどのヒーリングを受けたり、アデプトプログラムを受講するのもとても良いです。施術、開催できますのでお問い合わせください。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
今から15年前に東京ディズニーシーにタワー・オブ・テラーというアトラクションがオープンしました。ディズニーシー5周年記念アトラクションだったので、シーは9月で20周年ですね。10周年も15周年もなんだか不遇だった記憶がありますが、また20周年もコロナ禍ですね。頑張れディズニーシー。我が故郷w私はそのタワーのオープン時にベアトリス・ローズ・エンディコット率いるニューヨーク市保存協会(NYCPS)の発足会員として、元ホテルのスパだったところに設置したお土産屋兼写真屋の運営に携わっておりました。ハイタワー家の邸宅がハリソン・ハイタワー三世によって増築され、現在の形となったこと世界の貴重な遺品のコレクションを人々に公開するためにホテルとして営業を始めたこと呪いの偶像シリキ・ウトゥンドゥの呪いによってハイタワー三世が姿を消したと言われていること。あのアトラクションには映画が3本くらい撮れそうなほどの壮大なストーリーが元になっています。海外のディズニーパークにあるタワー・オブ・テラーとは違い、ただお化けが住み着く幽霊ホテルではないのです。オープン後20年くらいかけてストーリーを少しずつ明かしてく予定でしたが、東日本大震災の影響で色々と計画が変更され、もうそのストーリーも明かされることはなさそうな雰囲気ですね。ちなみにハリソン・ハイタワー三世はソアリンのカメリア・ファルコと同じくS.E.A.(Society of Explorers and Adventurers)のメンバーです。S.E.A.についての詳しくは東京ディズニーシーのフォートレスエクスプロレーションに行ってみてください。タワー・オブ・テラーのハイタワー三世の書斎で実際に見ることのできる呪いの偶像シリキ・ウトゥンドゥ。NYCPSとしては、その呪いというものは信じていません。確かにハイタワー三世が失踪した時にシリキ・ウトゥンドゥを持ってエレベーターに乗ったこと、乗っている最中に緑色の稲妻がホテル・ハイタワーを直撃したこと、壊れたエレベーターをこじ開けたらハイタワー三世は姿を消し、シリキ・ウトゥンドゥだけがエレベーター内で発見されたこと、は確認されていますがあれは南米から持ち帰ったただの木像であり呪いなんて存在しません。と言うのが、NYCPSの公式見解です。なので、NYCPSの制服を着たキャストに言わせればあのアトラクションはハイタワー三世の貴重なコレクションをそのまましまっておくのはもったいないので、皆さんに見ていただくために閉鎖されていたホテル・ハイタワーを公開し、ホテルロビー、書斎を通り、客用エレベーターは壊れているので秘密の倉庫を通って業務用エレベーターで最上階のハイタワー三世のペントハウスにあがってもらい、そこでも貴重なコレクションを見てニューヨークの景色を堪能して、降りてきてもらう安全な見学ツアーです。と、答えることでしょう(というか、そう言えと教えていましたw)なので、海外の幽霊ホテルと違い、キャストは笑顔でゲストを迎えツアーに送り出し、ツアーを終えたゲストのことも笑顔で迎えてパークへ送り出します。そんなNYCPSですが。私個人的には考古学、古代文明好きから民族学にもちょっと興味があるのでこのシリキ・ウトゥンドゥの設定については興味津々で話を聞いたものでした。コンゴ川流域に住む原住民族、ムトゥンドゥ族に伝わる呪いの偶像、シリキ・ウトゥンドゥ。元々はシリキという名のシャーマンが行っていた呪いの儀式を、シリキが亡くなった後も継続するために作られた木像でシリキのパワーを維持するために首にかけたドクロのペンダントの内側にシリキの遺骨が入っています。掟8箇条を必ず守ることと、呪いを実行してもらうための捧げ物として、作られた当時には珍しくなかなか手に入らなかった鉄を直接シリキ・ウトゥンドゥの体に埋めることで呪いを起こしてもらっていました。最初の頃は鉄板の切れ端をシリキの遺骨に近い胸のあたりに差し込み、だんだん文明が伝わってきた頃からは鉄の釘を頭に打ち付けるようになりました。シリキ・ウトゥンドゥに願いが聞き届けられ、呪いが発動すると瞑っていた目が開いて緑色に光り、閉じていた口が笑うように開くということです。掟8箇条を破った時にも、破った人に対して同じように呪いが発動します。ハリソン・ハイタワー三世にもこの呪いが発動され、あの世とこの世の狭間を永遠に彷徨うことになったのです。ちなみにハイタワー三世が破った掟は崇拝すること → ただの木彫りの人形だ、と崇めるつもりなど最初からなかった燃やさないこと → 吸っていた葉巻の火をウトゥンドゥのおでこで消した。閉ざされた場所にしまわないこと → ムトゥンドゥ族から譲り受けた後、船で輸送するために小さな木箱に閉じ込めた。そのために船はずっと大荒れの嵐の中を航行することに。疎かにしないこと → 写真撮影のために胸抱いた後、撮影後はその辺に放り投げた馬鹿にしないこと → ただの木彫りの人形で何の力もあるはずがない、と馬鹿にしていた放置しないこと → 記者会見や写真撮影以外ではそのあたりに置きっぱなしそして何より恐れること → 呪いなんてあるはずがない、何も起こらないと全く大事にせずもちろん恐れることもなかったということで。他人に譲る前に失踪したために、他の人に渡さないこと、以外の全ての掟を破るというコンプリートっぷりで呪われて当然なのでした。そしてあの世とこの世の間を彷徨いながら、自分と同じく好奇心を優先してシリキ・ウトゥンドゥを敬わずに見物に来る人々に、自分の書斎で警告のメッセージを伝えているのです。死ぬほど怖い思いをすると性格が変わる、というのは本当なのでしょうね。生前のハイタワー3世だったら絶対にしなかったことですから。でも、ある程度満たされているともっと上を目指したいという欲が強くなり、上を目指すために周りの人を貶めて自分より下に置きたくなるというのが、人間のエゴというものです。そしてそれが自分には許されると思うことが1番のエゴだと思います。私は自分を過小評価しがちですが、過大評価することも同じく間違った行動ですね。シリキ・ウトゥンドゥとは、スワヒリ語で「災いを信じよ」という意味だそうです。災いとは、自分が原因ではない誰も悪くない不幸な出来事のことを言いますが、結局のところバタフライエフェクト、誰かの何かが影響していないはずがないのです。ほんの少しの呟きだったとしても、それが本心でなかったとしても、何かが動けば周りのものに影響が及ぶのです。災いを信じよ、という言葉の本当の意味を私はこの15年考え続けているような気がします。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
一応復活したつもりで、四ヶ月ぶりにブログを再開して、今は1〜2週間くらいのペースで更新ができています。この歳になって継続は力なりの本当の意味を噛み締めています。飽きっぽくてすみません、えいむです。文章を書くのは好きなので、ブログは続けていけてますね。ワープロ世代なのでタイピングは人並み以上に速いです。が、ワープロ世代なのでパソコンに疎いです。生まれてからずっと「なんか楽しいこと」を探して生きています。おかげで長く定職につくことができず、アラフィフになって辛い体験が多くなって来ました。それでもなんか楽しいことを探してしまう自分に、本当に今この現実を生きている自覚がないなぁと戒めを与えたく思うもそれさえもうまくいかないという、もう早くお空に帰りたいよー、な感じです。なんだそれ。人間的に不器用ですが、手先が器用で手仕事や細かい作業が得意です。一時期職人になろうかと本気で修業先を探しましたが、若い頃は自宅在住に拘っていたためにうまく見つかりませんでした。両親を亡くし、形而上学に出会い、拘るところを間違っていたなとやっと気付いたものの今からではもう遅いものばかりでした。そんなこんなで今は自宅を離れ、自分が好きに使える場所で蜻蛉玉とオルゴナイトの製作に落ち着いています。どちらも手先の器用さだけでなく、美的感覚やエネルギー的なバランス感覚なども必要とされるなかなか難しい手仕事であります。オルゴナイトについては、現在サロンやイベントでの直接販売だけでなく、creemaにて全国からご注文をいただき郵送や宅配便などでお届けしています。https://www.creema.jp/creator/2731904他にもうちよりも安い値段や豪華な装飾のものもある中で私のオルゴナイトを選んで購入いただいているのはとても嬉しいことです。やはりヒーラーとして学んだいろいろなエネルギーワークをした上で場を整え、作品にもそれなりにエネルギーを入れ込みながら作っているせいなのかしらねぇと思っています。私のオルゴナイトをお手元に置いたことで、良き流れになったというご報告もいただき嬉しい限りです。チャネリングスクール同期やその仲間達で、いまだに祭壇に私のオルゴナイトを置いてくださっている方がたくさんいます。エネルギーがわかる方が、神聖なものを置く場所、エネルギーの助けになるものとして置いてくださっているというのは本当に嬉しいことですね。最近そういうエネルギー重視の大きめのものを作ってなかったので、作らねばなー。これが私のするべき仕事、生業なんですかねぇ。手仕事とエネルギーワークの融合。今まで自分がやりたいと思ったものは体質と合わなかったり、生活と合わなかったり、思っていたものと違ったりして色々難しかったことが多くうまくいかないものばかりだったように思います。面白そう!という直感は間違っていないのですが、自分がうまく作れるかどうかはまた別の問題なのですねぇ。MMSガイドという立場におりますが、実の所そんなにエネルギーというものに敏感ではありません。ヒーリングをやるにあたって、集中すればそれなりにわかるのですがしっかりと見える人、感じる人の言うことは大体「マジで!?」と言う反応をしてしまうのですよw わからないこと、知らないことについて驚くのはまぁ普通ですよね。ああ、普通です私。はいwでもガイドにはそれなりにエネルギーを扱えていないとなれないわけで、自分に自信を持たねば、私をガイドにしてくれた人々や存在や、私にガイドされる側の人にも失礼ですものね。アデプトプログラムでは真実を生きるために知るべきことをお話ししています。話している方である私も、実はそこまでしっかり体得できておらずやっと方向が分かったくらいでまだまだ模索中です。こんな自分がアデプトやってもいいんだろうかと悩みつつも、やるからにはしっかりやる!と気張って頑張ってやっている感じでした。しかしアデプトプログラムをやる度に自分でもそれが分かっていくような気がして、もっともっとアデプトやりたいなぁと思っています。が、これって自分のためのエゴなのではないか……と一時期アデプト開催に積極的になれていませんでした。でもやっぱりやる度に受けてくださった方も自分も、知らなかったことを知り、気づかなかったことに気づき、我慢していたことを解放していけていると思います。アデプトやるの好きですよ。でも受けてくれる人がいないとできないんでwオルゴナイトみたいに作りたいからとりあえず作る。ということができないので、受けに来てくださいw ←やる気のない宣伝ww でもこれが本心だから仕方がない。嘘は嫌いです。本当はガイドとして、受けてくださる方にも自信を持ってもらうため、そして信用してもらうためには、こういうことを言ってはいけないと思います。実際ディズニーでトレーナーをしていたときには、まず第一にトレーニーを安心させて自信を持たせることを優先させていたので、自分に自信がなくともそれを悟られてはいけない、と気張ってトレーニングをしていました。でもね、やる方が本心でないのに、受け取る方がそれを本気で活かせるんだろうかと思うのですよ。アデプトプログラムは形而上学の入門でありながら、実は形而上学のほぼ全てが詰まっていると思っています。だからこそ、学びを進めるごとに「あ、これアデプトで言ってたやつやんか!」ということによく出逢います。しかもアデプトでは「ふぅーん。よくわからんけど」で済ませていたようなことがその先で聞くと「おー、そういうことのなのかー。すげー」に変わるのです。でもそこまで理解するには順番にちょっとずつ知って理解して自分のものにしていかないと「ふぅーん」から先に進むのは難しいんですよね。なので確かにアデプトは入り口でこれから先に長い道が続きますが、入り口を入らないことには、道を進まないことにはどこにもいけないですからね。まずは歩を進めていただくためにもたくさんの人にアデプトを受けて欲しいのです。アデプトを受けたものの、よくわからなかった。何だったんだ?と思う方には復習会やお話し会という形でもう少し内容についてのお話をすることもできますので、すでにイニシエートの方もぜひご相談ください。ということを、周りに言えるくらいにまでは成長しましたw ←遅くね?こんな私でよろしければ、アデプト受けに来てくださいww お待ちしてます。 ←よろしいかなぁ、こんなこと言ってて……アデプトプログラムはMMS公認ガイドのみが開催できます。連続する二日間各5時間で合計10時間のプログラムです。開催日時は調整しますのでご連絡ください。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
もともと理科化学が好きで、知れば知るほど光というものについていろんな方向から考えるようになりました。形而上学を学び始めてからさらに見る方向が増えた気がします。えいむです。そうですね、光というものは方向を持っているんです。はい。さて、最近FOXでゴースト(Ghost Whisperer)の再放送を見ています。霊を見ることができ、話すこともできるメリンダが、心残りを残したまま死んだ人の魂がこの世を彷徨っているのを見かけると、その心残りを解消するために協力し、天国・光の先へと送る物語。仏教的には幽霊を成仏させる感じですかね。お祓いするのと違って、ちゃんと納得させて自ら旅立たせる。形而上学的な生き方についての考え方ですなぁ。天国への入り口、天国へ続く道が光って見えるので光の先へ行くように言うのですが、その光が見えるのはそこを通る人だけで他の人には見えないんですと。つまりは誰にでも見える可視光線ではないってことですね。人の目に見える光と見えない光があることは皆様もご存知かを思いますが(赤外線とか紫外線とかね)特定の人にしか見えない光ってのもあるかもねぇと思います。烏賊の目は4Kカメラも顔負けなくらいとても細かく鮮明に色や光を捉えることができる高感度な能力を持っているそうです。でも脳が小さく発達していないので、その目からの情報は数%も解析できず、ほとんど見えていないに等しいらしいです。宝の持ち腐れってやつですかねぇ。でもきっと人間もそうですよね。目にはうつってるんです。ただそれに対してただの風景背景だと、注目するほどのものでもないと思ってしまう。ちゃんと気がついて考えてそこから答えを導き出せるかもしれないものを見ているのに、気づかないせいで見てないことになってしまう。そんな気づき方を教えてくれるのが形而上学だと思っています。気づいたら、知って、考えて、行動する。気づかないことには詳しく知ることも考えることも行動することもなく、ただいつもの繰り返しがやってくるだけですよね。タイムリープものの映画であれば、ミッションをクリアしないと同じ日から抜けられずに繰り返すのはただの悪夢、地獄です。でもそれを日常とするのが現代人なのではないでしょうかね。しかも今よりも悪くなるよりもマシ、という考えから自ら望んでそのループにハマった生活を続けてしまう。それは心残りを残したまま幽霊としてこの世を彷徨い続ける存在と同じではないのかしら。そんな幽霊的な生活をしている方にはぜひ形而上学を学んでほしいなぁと思います。形而上学入門であるアデプトプログラムは連続した二日間で合計10時間のプログラムです。普通に生活していると気づかない、わからないことについて、まずはこの入門講座で知ってほしいのです。しっかりと理解するにはたくさんのクラスと時間が必要になるので、まずはアデプトプログラムできっかけを得てほしいなと思います。アデプトプログラムはMMS公認ガイドのみが開催できます。当方サロンでも行えますので、お問い合わせください。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
お久しぶりです。久しぶりすぎてどうしたもんかと困惑しているうちにどんどん時間が過ぎました。えいむです。ぼーっと生きてんじゃねーよ。ですな。でもぼーっとしてても、生きてるだけいいんじゃないかと思います。コロナ禍に一時期死人のようでした。んー、やばい。答えの出ない禅問答として話題にされることが多いこの表題の言葉。価値観や立場、早い者勝ち思考など、結構その人の真髄を曝け出す話題ですよね。先日、自分に向けてメッセージをもらおうと伊邪那美命のチャネリングをしました。そして、この言葉が思い浮かびました。普段、自分向けメッセージを公開することはほぼないのですが。この内容的にアデプトプログラムで言ってることそのままじゃん。と思いまして。アデプトをやる方である私が、アデプトで伝えていることについて念を押されるだなんて。そして、このメッセージが心に響いた方にはぜひアデプトプログラムを受けていただきたいと思います。あなたには愛が足りない。あなたは愛されたいと思っているけれど、実は愛されるよりも愛したいと欲している。でも自分を愛してくれる人でないと全身全霊かけて愛せない。そして今はそういう相手がいない。だからただ愛されたい、と言い続けている。愛してくれる人しか愛せないから、自分が愛すために自分を愛してくれる人を欲している。しかしそんな相手は存在しないのではないかと思い、生きることをやめようとしたこともありますね。探し方が違うのではないでしょうか。あなたが楽しく笑い内なるパワーを発揮する時に、あなたの相手はあなたに気づきます。毎日を楽しく、喜びを持って過ごすこと、自分自身を満たすこと、それが相手を見つける近道なのです。私は愛されるよりも愛したいんだそうです。ぶっちゃけ、生まれてこの方本気で誰かに愛された自覚がありません。親も、兄弟も、親戚も、クラスメイトも、仕事仲間も。立場や利害関係からで仕方なく一緒にいる、世話を焼く、ちょっとした好意くらいならあるかも、という感じにしか思えませんでしたね。まぁ、ASDなので人の感情の機微などに疎いせいかもしれませんが。今は劇団の仲間たちとMMSの仲間たちだけに、心安らいだ状態で素直に接することができる相手がいます。私を愛してくれる人はどこにいるんですかねぇ。そして何故かこのメッセージの後、オルゴナイトが作りたくてたまらなくなったのですが、作ってたら誰か愛してもらえる人が見つかるのかしらんw最近creemaのオルゴナイト在庫が減っていましたが、そちらも少しずつ増やしています。ご利用ください。伊邪那美命のチャネリングは1時間1万円の対面セッションです。遠隔では行えませんので、サロンまでお越しください。アデプトプログラムは連続する2日間で各5時間ずつ、合計10時間のプログラムで8万円です。どちらも日程は調整しますのでお問い合わせください。オルゴナイトは直接販売、MMS仲間の開くイベントでの委託販売を行っています。ハンドメイドマーケットcreemaにも出店していますので、そちらもご利用ください。https://www.creema.jp/creator/2731904viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
大寒を過ぎるとこれから春へ向かい始める。と言うことですが、一番寒いのって2月じゃね?と思います。えいむです。今年の春節はその体感的に一番寒い時期ですねぇ。お正月に中華街に行かなかったので、獅子舞に噛まれに行こうかしら。ってか、獅子舞やるかな?自粛?龍飾りだけ見に行こうかな。先日、横浜美術館へトライアローグ展を見に行ったことを書きました。実はその時に幾つかの絵の前で不思議な感覚になりました。ただの想像、妄想の産物かもしれませんが。ディヴィネーションをやるようになった私にとってそれは錯覚ではないのです。ピカソやダリの絵の前に立っている時、1メートルと少し離れて絵の正面に立つ私の前に彼らがいました。最初は絵の中の筆遣いを見ていて、こういう道具でこうやって描いたのかなぁ?と考えながら眺めていただけでした。そして気づくと筆が絵の上を走り始め、その筆を持つ腕が現れ腕の先に体が見え。キャンバスに向かって筆を走らせている後ろ姿、もう片方の手にはパレットを持ち、振り返ることなく集中してキャンバスを塗っている様子が見えました。背景も白い壁に絵がかかっているわけではなく、その絵がイーゼルに固定されその向こうにはアトリエの部屋の様子が見えました。もちろん背後の私のことなど気にせず、夢中で絵を描いている様子でした。後ろ姿だったのでどんな顔をして描いているのかはわかりませんでしたが確かに目の前で、この絵を描いている姿があったのです。作家によって全然描き方が違って面白かったですね。ピカソやダリは写真や映像でその姿を知っていましたが、クレーってあんな人だったんだなぁと初めて見ましたよ。答え合わせは敢えてしませんけど。私は元ディズニーキャストですので「イマジネーション」と言う言葉をよく聞きました。これはそう言うことなのかな?と思いつつ、MMSガイドとしてはこれはディヴィネーションかアストラルトラベルか、と言うところでしょう。学生時代、TM NETWORKが好きでした。ライブにも何度か行きました。私の好きな曲に「FOOL ON THE PLANET」という曲があります。その詩の一説に「ただのDreamer 人は言うけれど この地上に溢れるすべては僕に似た昔の誰かが 夢見ては叶えてきたもの」という言葉があります。現在の、人が作り出してきた全てのものは昔の人が考え夢見て創造してきたものなのです。私のちょっと卑屈な考えの一つに、人間の想像力なんてそこまで偉大じゃないからきっともともとあったか神のお告げか生まれる前に備えてきたものに違いない。そして人間の想像力なんて大したことないから、叶えられるようなレベルのことしか考えつかない。というのもあり、私が目の前で見た(ように思った)ことは現実でしかないはずなのですよ。自分は作り手であることも前回書きましたが、作るものは彼らと違うけれども作り手であるという共通点がこういうつなぎ方をしてくれたのかもしれませんね。とりあえず。やっぱりなんか作らなきゃな。と思い直したのでした。何かを作るにはまず考えて想像する。イマジネーション!(そして今度は頭の中にファンタズミック!が流れ始める‥‥。)形而上学を学び始めてこういうことを考えるようになりました。形而上学入門でもあるアデプトプログラムはリクエストをいただいて開催日を調整いたします。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
昨日は横浜美術館へ行きました。来月いっぱいをもって長期休館に入るので。今までも2年くらい訪問のブランクを空けたことはよくありましたが、89年の開館以来興味ある展示があるごとに訪問しているところです。現在の特別展はトライアローグ。愛知県美術館と富山県美術館との3館の所蔵品を集めた20世紀美術コレクションです。もちろん横浜美術館所蔵のものも展示されているので、今まで企画展やコレクション展などで見たことのあるものも含まれていて、この場所は長くここにあるのだなぁと実感しました。ピカソやミロ、ウォーホルなど有名画家の作品もたくさん。シュルレアリスムの展示がそれなりに多かった気がするのですが、美大生時代には好んでいたものの今見ると受け取り方がずいぶん違うものだなぁと思いました。自分にはそう見えるからそう作った。という作品には非常に興味を惹かれ、細部までじっくり見ましたが奇を衒っているだけだなという作品には、これなら古民家の壁の模様の方がマシじゃねぇか?と思うようなものもありました。マグリットの「王様の美術館」という作品は横浜美術館蔵なので何度目かなのですが、その度に受け取り方が違い、自分の感覚が変わったのだなぁと思い知ります。イヴ・クラインの作品は子供の頃に訪れた箱根彫刻の森美術館で見た作品と同じシリーズのものでした。私の記憶が確かならば、その時に見た作品は背景が金ではなく3体並べて展示されていました。子供心にすげー青で目が痛い。と思い、おっちゃん微妙に腹が弛んでるね。と思いましたw自分の青好きブームが去った今、その青さに感動することはありませんでしたが、今度は表面の質感が気になって仕方がありませんでした。触れないのが残念だわーくらいに触りたかった。ベロアっぽいのか、ざらざらしてるだけなのか。大好きなジャコメッティも小さいながらも展示されていて嬉しかったです。前回の記事にも書きましたが、本当に今は平面作品よりも立体作品にばかり目が行きます。しかし平面作品であっても、画面の中にしっかりと空間や質感が表現されていればそれはキャンバスに描かれた立体作品なんですよね。単に私がそういう空間認識をする頭であるだけかもしれませんけれども。図面を見て大体の立体構造を理解します。まぁ建築やってた人にはそれが普通ですよね。と、美大受験の時に立体構成を作り、それをデッサンしなさい。って課題が出たなぁなんてことも思い出しましたわ。ふふふん、といつも通りに感覚で面白い立体作れたーと第一課題を終えたところで、うわ、これデッサン難しいじゃん。となり、自分で自分の首を絞める人でした。今の美大はどういう課題が出てるんだろうなぁ。年齢的に同級生たちの子供が受験したり、学生したりしているお年頃ですな。私はあの頃と同じような感じですけどね‥‥早く大人になりたい。ちょうど自分自身の在り方について考え、自分とは?という問を何度もしている今日この頃であり、展示を見に行ったことで考え方に刺激を与えることにもなりました。特に形而上学を学び始めてからは本当に見方、考え方が変わりました。ちょっと前に昔の経験を思い出すような案件があったこともあり、人の感覚って浅いなぁと思っていたところなので自分はしっかり持つべき視点を失っていないことを確認できました。それについてはまぁ嫌な気分にはなりましたけど、笑わせていただいたってことで終了。俺は次へ行くぜ。コレクション展の方は横尾忠則さんのY字路シリーズに横浜美術館の建物をモチーフにした作品が展示されていて、見た甲斐がありました。今は閉鎖されてしまった神奈川県立近代美術館本館にたくさん作品があったイサム・ノグチの作品も、最近のポップアートの人が真似してたりしますが、全然真似できてないよねー。イサムはイサムだよねー。と思いました。真似はあくまでも真似であって、真似するというモチーフを使った作品。まで引き上げないと価値などないですからね。今回、私は横浜美術館への訪問に某割引を使用するため予約せずに参りましたが、基本事前予約が必要です。ご興味ある方は公式ホームページよりご予約の上、ご訪問ください。横浜市内の公共施設は月曜休みの原則から外れて木曜休館です。展示を見終え、外に出るともう夕暮れを過ぎていました。まだまだ日が短い。月とランドマークタワーとイルミネーション。ロイヤルパークホテル部分の灯りがとても少なく、お客さん少ないんだなぁと思いました。いつもなら大学は春休みに入って卒業旅行シーズンが始まって、賑やかになってくる頃ですが。私はあまりイルミネーションとか、夜景とかを綺麗だと思わない感覚です。なので、白内障に眩しい青白LEDの光よりもそれを巻けない枝先の繊細な伸び方の方が美しく感じます。樹木の枝、動物の血管、粘菌の先端、宇宙のグレートウォールなど。最適な場所を選んで伸びていくものは美しさを秘めているものなのです。以前ランドスケープデザインをしていたときに耳にした話。クライアントがクリスマスイルミネーションをするために落葉樹を希望している。場所とか風景とかに合うものよりもそんな目的で植える樹を選ぶのか。と人間のエゴを感じた古い記憶です。まぁバブル崩壊後でしたから、集客が第一だったんでしょうけれども。それでは最適な場所に現れる美しさは出てこないなと思いました。私が美しさを発揮できる最適な場所、最適な仕事は何なんでしょうね。展示を見たことで、多少は探る手段がわかった気がします。そういえば、横浜博YES’89のパビリオンの一つとして開館した横浜美術館。その横浜博では横浜駅東口横浜そごうのテラスから会場までロープウェイが繋がれていました。今、桜木町駅から新港地区を結ぶスカイキャビンを工事中です。経路は違えどみなとみらいロープウェイ復活。時代は回帰するんですねぇ。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
美大出身でアシスタントデザイナーと名乗っていた時期もあります。えいむです。でも実は絵が下手で、デザインはそんなに興味ないです。すみません。美大では空間デザインを学び、デザイン事務所では主に橋梁建築の模型作りをしていました。平面ではなく立体を扱い、もともと手仕事が得意だったのもあり、模型作りはとても楽しいお仕事でした。でもやっぱり手仕事がいいなぁと。デザイナーよりも職人が向いてるなぁと。そして手仕事に必要な道具とか大好きだなぁと。ホームセンターに行くと工具売り場をうろうろしては、内心ウハウハしてますwオルゴナイト用の銅線を買いに行っただけなのに、その線材売り場までドリルビットとかプライヤーとかグラインダーとか全然いらない工具売り場をじっくり見てから向かいますw 軽く変態だなぁとは思いますwwそして我が家ではカッターやハサミを用途によって色々揃えています。最近一番お気に入りなのは、オルゴナイトに封入する金属をカットするために使っているこの金鋏です。金属用のハサミですね。あ、ワークショップの参加者さんには普通のハサミで切ってもらってます。一般の方はこういうの使い慣れないですからね。うちでオルゴナイトワークショップを受けてくださった方はわかると思いますが、この金属モールを切るときにめっちゃ飛び散るんです。私は盛り塩オルゴナイトなど、一度に大量生産したり、時に3日おきに作ったりとかするので毎回作業ごとに飛び散った金属片を掃除してーとかやってられず、こうやってまとめて切り置いております。作業を中断することもなく、掃除も一回で済むし。ちなみに私がこの切り置き作業をするときにはがっちり周囲をシールドして飛び散らないようにガードを立てて切っています。でも飛び散るんですなぁ。金属の弾性すごいわ。こういう作業ものが好きなことを自覚するたびに、やっぱりデザインよりも工芸というか職人的なお仕事が好きなんだなぁと思います。そして美大在学中に教わった「日頃の行い」の意味。日頃の行い、とは片付け、手入れ、準備である。ということでした。道具について、そして自分について。いつでも作業が始められるように、いつでも道具が取り出せるように、常に作業場は片付けておくこと。頭の中の知識も他に応用できることがないか可能性を常に考えて分類しておくこと。常にベストな状態で道具が使えるように、道具の手入れをすること。常にベストな仕事ができるように自分の技能を高めておくこと。そしていつでも作業が順調に行くように、途中で使う可能性のある道具はまとめておくか、そばに置いておくこと。いつどういう依頼が来てもいいように考えられるだけの知識を仕入れて準備しておくこと。専門的なことだけなくそれに付随するであろう周囲のことに対しても情報収集すること。これはどんなジャンルであろうとも専門としている仕事がある人全般に言えること。だそうで。これがプロってもんだなぁと感慨深く聞いた話でした。私は手先の器用さをどう活かしたらいいのかと子供の頃から色々な手工芸を試してきました。未だにこれだ!と極めるに値するようなものに出会えず、模索しながら色々作っています。最近は蜻蛉玉とオルゴナイトを中心に制作していますが、これこそ私の生業だ!とは思えずに、だがしかし楽しいし人にも喜んでもらえるから、と続けています。一体何を作ったら、至高の域に達せるんですかねぇ。ぶっちゃけそろそろ隠居してもいい年なのにまだ生業が見つからないとか一体‥‥。ちょっとコロナ禍で日々の模索についてはサボっている感がありますね。またちょっとずつ探索を始めましょうか。その前に、再販リクエストを受けている盛り塩オルゴナイトを作らねば。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
私は演劇をやっています。でも舞台には立ちません。えいむです。劇団営業二課という横須賀で活動している非営利の社会人劇団でスタッフをしています。ここ数年はプロジェクト夢樹との合同公演を行っています。通常は夏、冬の年2回の公演を目標としていますが昨年はコロナ対策のため、夏公演は中止、冬公演は12月に20分と30分の短い演目の2本だてで、出演者、スタッフともに少人数で行いました。ソーシャルディスタンスのために定員を半分以下にしての公演ではありましたが、年が明けてからまた緊急事態宣言が出て、公演を中止している劇団が多いのでやれただけ、うちはタイミングが良かったのかもしれません。音楽と演劇は生の方が計り知れないパワーが出るので、配信やテレビドラマという選択肢もありますが、やはり生の舞台を目の前で体験したい、して欲しいと思います。私は歌を歌います。特別人に聞かせたい、人前で歌いたいとは思わないので、自宅で音楽をかけながら一人で歌っています。聞かせたくて歌うのではなく、歌いたくて歌っているのです。歌うことで自分の中の流れが整うように思います。私自身に水のエネルギーが強く、流れや知識、音楽を司る神様とご縁が深いせいもあるかもしれません。アデプトプログラムでお話ししていることとも通じますが、音、響き、言葉というものが混ざることでやはり計り知れないパワーが生まれるのです。私がよく行くライブハウスは横浜赤レンガ倉庫のMotion Blueですが、多い時は年に10回くらい行くのに、昨年は一度も行きませんでした。3つほど行きたい公演はありましたが、全てコロナで中止になりました。前にこのブログでも書きましたが、ステージを斜めから見る席がお気に入りです。ステージと客席の境目が見えるこの席は、ステージに立つ人の足元まで見えると同時にステージ上と客席の空気が混ざる様子が見えるのです。ステージ上のグルーヴが客席に流れ込んで、客席で目を輝かせている方々の呼吸と相まって渦を巻く様子が見えるのです。客席が冷めている時はその様子がなく、まるで透明な壁があるように違う空気が流れていることが見えたりもします。そういう時はなるべく客席を見ないようにして音楽に集中しますが、ステージ上のエネルギーが爆発するまで強くなることがないのでそこは残念に思います。特に私が好きなジャズやブルースは音源と生演奏で全然パワーが違ってきますから。東京中低域というバリトンサックス集団がライブ中に演奏しながら客席を練り歩くのは非常に色々かき混ぜられて刺激的ですwどうしてこんなに生のステージを目の前で見て欲しいかという理由は、リチュアルマスタープログラムを受けるとわかると思います。歌は自分の中に取り込んだメロディと言葉を自分の中で混ぜて成形した物を出す作業です。演劇においての役者は自ら出しながら、相手の出したものを取り込んでさらに返さねばなりません。さらに客席からのエネルギーもプラスされ、音楽のようにもともとの波に乗れるような簡単なやりとりではなく自らを経由するエネルギーの出し入れがひっきりなしに行われます。私はASDの影響もありマルチタスクが苦手なので、こういう人といくつもやりとりをする作業が苦手です。歌であればアウトプットが基本なので音の波に乗って仕舞えば歌うことができるのです。私が役者をやりたいと思わないのはそういうことかなぁと思います。子供の頃はよく発表会とかでステージに立ちましたし、ステージで演奏するのが気持ちいいことはよく知っているんですけどね。演劇やコンサートのチケット、そしてヒーリングのセッション料金を高いと思われる方が多いと思います。しかしこれは発生するエネルギーと受け取るエネルギーの等価交換なので、これだけ全身全霊ある意味命をかけてエネルギーを放出する作業にはやはりそれなりの対価が必要なのですよ。同じだけのエネルギーを返してもらえる相手ならまだしも、お金という形でしか返せないもしくは返し辛い状況の場合は物理的に必要な経費にプラスしてエネルギーの放出に必要な対価が必要になるのです。芸術作品の値段が高いのもそういうことですよね。まぁ絵画彫刻などは本人に入ってくるのは微々たるものではありますが。エネルギーの強いものを持つ、強い人と一緒にいる。ということも、またエネルギーを必要としますからね。そして私は今日もまた歌っています。今日の話に通じることもお話しますアデプトプログラムはリクエストにより日程を調整いたしますので、お問い合わせください。連続する2日間で10時間(休憩含まず)。基本的に13〜18時半を二日間。金土日に限り近くのカフェでのランチ休憩を含む11時〜17時半も可能。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
Feliz año nuevo明けましておめでとうございます。今年はアデプトプログラムをいっぱいやりたいです。えいむです。今年は丑年。そんなことを気にもせずに年末、昔働いていたスーパーに買い物に行ったときに目にしたガチャを引きました。神獣ベコシリーズからキマイラベコです。本当はケルベコスかベコサスが欲しかったんですけども。キマイラもまたよし。ということで、この方には今年一年目につくところにいていただこうと思いますw年末、山形までアデプトプログラムの出張に行って来ました。通常自宅サロンにて開催していますが、二人以上で一部交通費をご負担いただければ出張開催いたします。初山形上陸にて自分史上最北記録を更新しました。生まれてこの方、東京以北は筑波万博、日光へ修学旅行、福島合宿、しか行ったことがなかったのです。私、自分が外にいる間だけその場所の天候が回復する、という某知人に「自己中晴れ女」と命名された特殊能力がありましてw雪国なめんなー、と言われたものの街路樹がヤシの木の街で生まれ育っております上、防寒具を持っておらず戦々恐々で突進しましたが、私が滞在している間はとても暖かく快適に過ごすことができました。今現在は豪雪のため獅子像が雪の重みで倒れていると聞きました。獅子も好き。唐獅子の実物、また見たい。雪国も見てみたかったな、と軽く思いましたがそんな甘いものじゃない感じをテレビのニュースで見かけました。皆様どうかご無事でお過ごしください。そして初日本海でした。いつもは東京湾沿いをうろうろしていますので、私の言う海とはほとんどが東京湾の浦賀水道か相模湾の太平洋なのです。若い頃に何度か海外旅行をしていろんな海を見て来ましたが、どの海も繋がっているはずなのに全然違うのですよね。ニューカレドニアの海水のしょっぱさはすごかったです。しかしまぁほんとに海の近くにしか出没しないな、オイラ。最近龍好きに拍車がかかっています。ええ今年は丑年で辰年じゃないですけど。そんな感じで関東平野の海の近くで生息していますので、山を見慣れません。茂る木々が目の前に現れるような山の中の景色も好きですが、平野ごしに見える山脈というのも美しいですね。東山魁夷の絵を思い出させます。柔らかで大らかで良い景色でした。また山形行く気がするなぁ。っていうか行きたいなぁ。アデプトプログラムで締めくくった2020年でしたが。今年はもっといっぱいやりたいですな。アデプト後に色々学んだ形而上学ですが。結局のところ、アデプトでほとんど言ってますな。ということが学べば学ぶほどわかっていきます。アデプトを受けている最中には何のこっちゃいなことが、進めばわかってくるんですよ。ガイドにならないと聞けないお話にその中心があったりして、イプシスマスがみんなガイドを目指せ、という意味がやっとわかって来ました。形而上学めっちゃ楽しいです。その第一歩のアデプトプログラム。受けたい方はリクエストにてスケジュール調整しますので、お問い合わせください。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
おかげさまで来年度のガイド、ヒーラー1・2の認定をいただきました。また1年間ヒーリングなどをしっかりと提供していきたいと思います。技術確認のために交代で色々ヒーリングをし、また受けることにもなりましたので、終わってみたらあんなにゾンビ状だった結膜下出血がおさまって、見える部分に関しては、ちょっと目赤くない?程度になりました。ヒーリングすごい。皆様にもおすすめです。DNAアクティベーション他ご予約お待ちしています。そして12月26、27日の山形出張アデプトプログラムも仮予約も含めてですが満員御礼となっております。空きが出ましたらまたお知らせします。ガイドの皆さんがあげてらっしゃるおすすめ動画ですが、この結膜下出血がゾンビのようでキモいので自撮り自粛で私のはまだありません。治癒には1、2週間かかるらしいので治ったらまた考えますwviaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
プロジェクト夢樹with劇団営業二課「プロポーズ」、無事公演終了しました。ワタクシ、結構重要な小道具を作らせていただきまして。久々にデザイナー魂がメラメラとw フェイクを本物よりも映えて使いやすく丈夫に作るというディスプレイデザイナーの本領発揮。ディズニーキャスト時代にブライダルフェアに出ていたことや、もうちょっとでプロになれそうかもくらいにダンススタジオに通っていたことも役に立ちました。人生経験に無駄はない、とはこのことですなぁ。これから2週間以内に関係者鑑賞者に感染者が出ないことを確認しないと安心はできませんが。このコロナ禍で色々大変でありながら、無事にご好評のうちに終了できて良かったです。ご来場、応援いただいた皆様ありがとうございました。でもやっぱり打ち上げはやりたかったなぁ。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
今週末の公演に向けて、一部関係者は本日より小屋入りしております。私は密を避けるために明日から小屋入りです。なかなか重要な小道具の製作も任され、良き出来になったかと思います。ディスプレイデザインの経験から実はフェイクを本物らしく、本物以上に作るのが得意なのです。本物とフェイクの差って、どこにあるかって話はまたそのうちブログで書きますね。フェイクも本物以上になり得るのですよ。良きにしろ悪しきにしろ。演劇というものが、まぁそういう存在ですよね。作り話なのに人生を左右したりもする。いや、ここでは形而上学的思考はさておいて。この週末に横須賀での公演です。ご予約はメッセンジャーからも承れます。ぜひお越しください。以下、一部前記事と重複する内容がございます。プロジェクト夢樹 with 劇団営業二課ハーフ&ハーフシアター「プロポーズ」あらすじ原因不明の新型感染症ピロピロウィルスが全世界で流行の兆しを見せ始めた頃、ブドウ農家を営むイワンは幼な馴染みのエレーナに求婚をしようと彼女の家を訪れるが…脚本・演出 平田慎司出演:小夜子・ジャイアント田村(プラスティックな月)・ミィナ・三田希美子鴫原隆史・古郡由美子(劇団営業二課)田中勝彦(プロジェクト夢樹)日時:12月5日(土)14:00 / 16:00 / 18:0012月6日(日)13:00 / 15:00上演時間は50分を予定。15分ほどのショートストーリーと30分の短編を上演します。開場は開演の30分前です。場所: 横須賀市立青少年会館 ホール料金: 前売・当日とも 1000円・高校生以下500円三浦半島演劇祭2020に参加しています。横須賀市演劇連盟で作った「新型コロナウイルス感染症対策ガイドライン」に基づいた準備をしてお待ち致します。お客様にもご協力いただくこととなりますので、ご自宅での事前検温による健康の確認、会場でのマスク着用、手指の消毒、また受付時に再び検温、ご連絡先の記入・確認、などをお願いします。前売りに関しましては金銭授受は当日受付で行いますので、お名前ご連絡先の事前申告という形でお受けしています。当日受付での接触の削減、密を避けるためにも事前にご予約いただくことをお願いしています。客席も間隔をあけて用意しておりますので、お連れさまでも離れてお座りいただくことがあります。また、横須賀市の指導の元、30分に一度の換気を行なっているため、当日会場で暖房が効きにくくなる可能性がありますので、防寒をしてのご来場をお願いします。接触を避けるために、当日演者によるお見送りはありません。また直接、お預かりともに、お花やプレゼントを受け取ることができません。お知り合いの場合には直接メールやメッセージなどをいただけるようにお願いします。ご意見、ご感想、問い合わせなどはチラシ裏面にございますプロジェクト夢樹のEメールアドレスまたは当日お渡しするパンフレットにあるアドレスまでお願いいたします。30分という短いお話ですが、二課らしいお話に出来上がっております。ご来場お待ちしています。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
あと2週間すると、我らの演劇公演がございます。プロジェクト夢樹 with 劇団営業二課ハーフ&ハーフシアター「プロポーズ」横須賀市演劇連盟で作った「新型コロナウイルス感染症対策ガイドライン」に基づいた準備をしてお待ち致します。お客様にもご協力いただくこととなりますので、ご自宅での事前検温による健康の確認、会場でのマスク着用、手指の消毒、また受付時に再び検温、ご連絡先の記入・確認、などをお願いします。前売りに関しましては金銭授受は当日受付で行いますので、お名前ご連絡先の事前申告という形でお受けしています。当日受付での接触の削減、密を避けるためにも事前にご予約いただくことをお願いしています。客席も間隔をあけて用意しておりますので、お連れさまでも離れてお座りいただくことがあります。また、横須賀市の指導の元、30分に一度の換気を行なっているため、当日会場で暖房が効きにくくなる可能性がありますので、防寒をしてのご来場をお願いします。接触を避けるために、当日演者によるお見送りはありません。また直接、お預かりともに、お花やプレゼントを受け取ることができません。お知り合いの場合には直接メールやメッセージなどをいただけるようにお願いします。ご意見、ご感想、問い合わせなどはチラシ裏面にございますプロジェクト夢樹のEメールアドレスまでお願いいたします。30分という短いお話ですが、二課らしいお話に出来上がっております。ご来場お待ちしています。プロジェクト夢樹 with 劇団営業二課ハーフ&ハーフシアター「プロポーズ」今年、生誕160年を迎えたロシアの劇作家チェーホフの傑作短編喜劇「プロポーズ」を現代に置き換え、登場人物も増えてにぎやかになっています。あらすじ原因不明の新型感染症ピロピロウィルスが全世界で流行の兆しを見せ始めた頃、ブドウ農家を営むイワンは幼な馴染みのエレーナに求婚をしようと彼女の家を訪れるが…脚本・演出 平田慎司出演:小夜子・ジャイアント田村(プラスティックな月)・ミィナ・三田希美子鴫原隆史・古郡由美子(劇団営業二課)田中勝彦(プロジェクト夢樹)日時:12月5日(土)14:00 / 16:00 / 18:0012月6日(日)13:00 / 15:00開場は開演の30分前です。会場の準備やお客様の集まり状況により予定より早く開場することがあります。上演時間は50分を予定。15分ほどのショートストーリーと30分の短編を上演します。場所: 横須賀市立青少年会館 ホール料金: 前売・当日とも 1000円・高校生以下500円三浦半島演劇祭2020に参加しています。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
自分が思っている自分は大概本当の自分ではなく思い込みであることが多い。と言われ人から見えている自分は装っている外側であり決して本当の自分ではない。とも言われる。どっちやねん。理想と現実が違うように、自分でわかっている自分と、人から見えている自分は違ったりする。私はよく中身がおっさんです。という。男性よりもよっぽど男性らしい性格や好みである自覚がある。身長がとても高かったら性転換を考えたりしたかもな、と思うくらい中身はおっさんである。でも大学は女子大だったし、その後の仕事も女性だったから働くことができたようなものも多く、正社員として定職につかなくても許されていたのは女だったからかも、とも思う。ただ特に自分の身体構造に嫌悪感も感じないので、LGBTQでいうところのQにあたるらしい。あまりに女性的感覚がないために服装はほとんど作業着基準でズボンに紳士シャツを着ていることが多い。スカートは持っていない。ここ数年は制服のある仕事をいくつかしていて、勤務時間の合わない人には私服を見せることがなく、仕事中の会話で私のイメージというものが出来上がる。そしてここ2回の退職時にいただいたプレゼントがどちらも「ピンクのハンカチ」でした。ピンク、自分じゃ絶対選ばない色だわー。ありがたくもらったけど使えないわー。占星術をやっている人に言わせると私は母性ぷんぷんらしいので、私物や私服を見たことのない人には確かにピンクのイメージが湧くだろう。ということ。草食系男子よりもよっぽど男らしいんですけどね‥‥。子供の頃は親戚からのお下がり以外は親が選んだピンクのものを与えられていました。最初はそのピンクによく合うからという理由で水色や薄紫などを好んでいましたがいつからか土台としていたピンクがなくなって、青い色を選ぶようになりました。大人になってからもずっととりあえず青を選んで持ち物や服が全て青一色になりがちでした。しかしチャネリングコントラクトである伊邪那美命に会ってから、彼女が青い色を纏う人だったせいか突然青に対する執着がなくなりました。ナミさんと直接接することができなかった頃もナミさんのエネルギーをもらっていた証拠ですね。青はナミさんの色だったんだなぁと納得し、それからは緑色をよく選ぶようになりました。そこは種族的な木霊が関係しているんでしょうかね。今住んでいるマンションの家具もほぼ木目のものがそろっています。床のフローリングに合わせたつもりはないのですが、なぜか木のものを集めた感じになっています。やっぱり木霊ちゃんなのかなぁ?最近、どこか行きたいところある?会いたい人いる?と聞かれた時に、沖縄に行ってキジムナーに会いたい。と言った私ですw神社仏閣に行ったときに、御神木が触れる距離に近づける時には必ず幹を触ります。どちらもここ数年なんとなくそういう感じになりました。イメージ、と言って仕舞えば簡単ですが。見え方や感じ方、考え方というのは一方向からでは全ては見えないものですからね。内側と外側でも全く違う。そして、せっかくいただいたものだし。かといって持ち歩けないよ、これ。とピンクのハンカチはクローゼットの棚に置かれたままです。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
某ハイブランドが某安売り衣料品店とコラボした発売日に暴動が起こっているという話題をネットで見ました。ハイブランドが安く買えるからという理由で買う人はそのハイブランドに対して、それだけの価値を見出せず自分に釣り合うものとして評価していないのにそれを身につけている、というステータスを得たいとは思っていて、安く売ります。と言われたら、じゃあ買います。って何なんだろうと思いますね。某大型スーパーの家具寝具売り場にいた時も、難癖つけてどうにか値引きさせようと必死なおばさんたちを見ると、その値段を払う気のないくせにそれが欲しいとかおこがましいな。と思っていました。もちろん口には出しませんが。自分を高く見せたいのに高い金を払う気はない、っていうのがどれだけ価値の低い行動だかわかっていないというところが残念です。現在コロナ禍で経済的に厳しく、私もお買い物などは結構我慢していますがあ、これいいな。値段見て買うか決めよう。と思ったものが軒並み買えないほど高価格という相変わらずの目利きを発揮していますw直感鋭い私ですので、そういう本当にいいものに目が行きがちなのです。中高生時代には安価な洋服屋さんとかで服を買っていたものの、私は一度気にいると一生気に入りっぱなしで、しかも超大切に使い続ける人なので安価だったために質が悪く、すぐにダメになってしまいあんなに気に入っていたのにお別れせずにいられないというのが本当に残念でした。10代後半から20代にはかなり高価な服も買うようになったのは、そういう理由でした。1000円で買った服が半年でダメになって悲しい思いをするなら、1万円の服を10年大切に着よう。と。いまだに20代の頃に買ったお気に入りの服を大切に着ています。(体型的にちょっと着れないものが出てきて体を鍛え直さねばと思っている日々。)いいものに目がいく、ということはいいものと私の波長が合う。ということなんだろうと思います。音楽でいいハーモニーが心地良いように、自分自身と自分に纏う服や近くに置くものがいい波長で自分と一緒にいい音楽を奏でてくれれば居心地が良くなるのです。損得勘定や利害関係などをまず考えてしまうと出会えない、ということですよね。ディズニーキャストをしていて、たまにお客様に「この前見たあの商品欲しいんですけどまだありますか?」と聞かれ、すでに売り切れだった場合に「見つけた時が買い時ですよ。せっかくいいなと思う出会いがあったのですから、それを逃さないためにも。見つけたときにいいなと思ったものはその出会いを大切にしてくださいね。」というような言葉をよく付け足していました。ディズニーではパークでの思い出を家に帰ってからも思い出せるように、また一緒に来れなかった人にも分けられるように、お土産を選んで持ち帰ってもらう。という概念です。パークでの思い出はそれぞれ違うので、お土産もたくさんの種類を用意しているのです。出会いや思い出というものは、やはりいい印象、思い出した時にまた幸せが蘇るものとして大切にしたいですからね。いいものを周りに置き、自分のいい状態を保つ。というのは大事なことです。ただ、周りばかりがいいもので埋め尽くされていても、自分自身が低いレベルであったらそれに見合わないということになります。自分を高めるためにまずはいいものをそばに置く、というやり方もありますがやはりまずは自分自身を高めた上で、いいものと波長が合うようにそれをキープする。というのが本来ではないかと思うのです。自分が良い状態であれば、良い波長のものとチューニングしやすくなって、見つけやすくなり手に入れやすくなり、それをしっかりと傍に置くことができるようになります。そしてさらに波長を合わせれば、良いメロディやハーモニーが奏でられ、どんどん増幅されるのです。まずは自分が本物にならなければ、いくら高価な本物を近くにおいても、それはお飾りに過ぎず、波長など合わない。おもちゃのピアノでは奏でられない複雑な曲も、88鍵の本物のピアノならしっかり演奏できるのです。だから自分を高め、88鍵のピアノを自由自在に演奏できるようにしておかねばおもちゃのピアノでさえ、そこらで拾った石ころと同じような、誰の興味も引かないただの置き物になってしまう。まずは自分が本物になれば、自然にいいものと波長があいそれを生かせるようになるのです。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
私は文章を書くのが好きです。若い頃までは文章を読むのも好きでした。ちゃんとした速読をしていたわけではなかったけれど、読むのはかなり早かったです。けれどもそれなりに歳を取ってからはなぜか活字を読むのが苦手になりました。しかも縦書きの活字が特に。おかげであまり本を読まなくなりました。読んでも内容が頭に入らなかったり、同じところを3回ずつ読んだり。しおりの挟んであるちょっと前を読み返しても、読んだ記憶が全くなかったり。発達障害の症状がひどくなってきた頃と重なるので、きっとそのせいでしょう。世間がコンピューター化されるのと同じ頃から本を買わなくなりました。写真や図面など資料的に手元に保存したいものは本で買いますけど。今ではネットで検索すればなんでもわかるようになっているし。でもパソコン画面に出てくるのは文字じゃなくて記号なんですよね。パソコンやスマートフォンで横書きの文を読むのが苦ではないのはそういう理由なのかも。最近暇つぶしに脳内妄想ストーリーw を文章にするようになりました。もちろんパソコンで横書き。パソコンスキルは低いけれどもタイピングはかなり早いワープロ世代です。中学生の時に書いた処女小説は友人たちには好評でした。あれを書いて以来、ネタはたくさんあるのですがほとんどは文章にはせずにお話はずっと頭の中で回っているだけでした。(っていうか。使いすぎてワープロが壊れ、せっかく書いたものもプリントアウトしていないデータはそのまま無かったことになりました。)コロナ禍でずっと家にいて暇つぶしにゲームをやったりしていたものの本当にただの時間潰しで何にもなってないなと思い、またちょっとずつ始めました。が、文章は発表するまではただの手元の資料でしかなく何も生み出さない訳で。結局暇つぶしだよなぁと、一回やめていましたが。最近の現実的な焦りも重なって、気晴らしも兼ねてまた再開しました。今書いているのはサイコホラーのはずが、最初と最後のギャップを作ろうとしたら冒頭がティーン向けラノベみたいな甘々話になってしまい、自分でなんだこれは?と手が止まってしまい、なかなか進みませんw小説を描き始めた中学生頃に、やっぱりサイコホラーのお話を書く資料用に解剖学とか心理学とかシリアルキラーとかそういうちょっと普通の人は読まないような分野に興味を持ちそういう本を集めたかったのですが、そういう専門書は大体高くて買えないので専門書ではない買える程度の値段のものは買い、買えないものは本屋で立ち読みをしていました。高校、大学時代にはよく有隣堂伊勢佐木町店の地下へ医学書を立ち読みしに行ったものです。今手元にあるのは数冊ですが、実家に置いたままのそういう本たちも早く持ってきたいなと思っています。まぁ、きっと読むのに労力を必要とするでしょうが。というか、それよりもきっとカビ臭いだろうなぁ。実家の掃除、全然されてないから。私が資料として欲する分野は特殊な部類に入るので、ネットではあまり集まりません。テレビのドキュメンタリーなどでちょっと名前だけ知ったものとかを詳しく調べようとすると、ネットでは資料が見つからず。更にそういう分野の本はやっと古いものを見つけても全く手に入らなかったりします。表現の仕方とか、内容が差別的だとか、そういう理由で流通しなくなったものもあるでしょう。それに最近の倒錯的事件の犯人宅にはそういう普通の人が読まないような本がたくさんあったという報道もよくされますしね。数年前に一生懸命探したものの、全く資料が手に入らなかった連続殺人鬼H.H.ホームズ。(ホテルの図面とか見てみたいのに、どこを調べても見つからない。)アメリカン・ホラー・ストーリーというドラマシリーズで、そのH.H.ホームズを題材にしたお話をやると聞いて、ふだんホラーは見ないのですが、ホテルのシリーズだけはしっかり見ました。まぁ結局ホームズの幽霊や吸血鬼が出てくるただのホラーでしたけど。好きな俳優、マット・ボマーも出てましたし。キャシー・ベイツもいい味でした。このドラマが私が実家を出ようと思ったきっかけの一つでもありますが、またそれは別のお話で。スウィーニートッドもH.H.ホームズに似てるなぁと思ったけれど、スウィーニートッドはフランスで、ホームズはアメリカ。年代的に言うとホームズの方がこのお話を見たかもしれないんだなという時間の流れ。最近はそう言う怪談話を信じて実現させようとするような猟奇殺人もなくはないし、その先駆けだったのですかね。私が興味を持ったそういう分野のことを調べるのは、すでに事実として存在するならば私が再現するまでもないから。でもあります。実験してみないと本当か分からないから実験してみた。と供述する犯人が多いのはそういうことだなとも思ってますし。だから怪しい本をたくさん持っているからと言って、私はそれを実行しようと思ってはいないのです。もし私が変死をした場合に家や持ち物を調べられて、こういう怪しい本をいっぱい持ってました!って言われちゃうんだろうなぁとは思っています。今は魔法道具なんかも色々ありますしねぇ。怪しさ満点なのは自覚がありますわ。文献や資料というものはあくまでも過去にあったことの記録や、過去にそれを確かめた人の報告であり、確認とひらめきのきっかけ以外には何にもならないとわかった上で私はそれを求めます。決して教科書にはなり得ません。もし教科書として使うにしても、それはあくまでも参考書や理解の仕方を記録した文献であり、学ぶには足りないものです。小学生の頃公文式に通っていました。その頃はまだ算数教室しかなく、国語や英語を始めるにあたってモニターになってくれと試作問題を色々やらされましたが、幼稚園児向けレベルしか作られておらずなんじゃこりゃと思いました。っていうか、英語を書き取りだけで覚えるの無理でしょ。と思ってたので、今はリスニングもできるようになっていると聞いて安心しました。結局小学校5年に公文はやめたのですが、理由は誰も教えてくれないから。でした。最後の1年くらいは高校数学の教材をやっていたのですが、先生が解き方を教えてくれないのです。数Iくらいならまだ、わかりにくいものの一応公式を使う順番くらいは教えてくれましたが基礎解析や微分積分に入った頃には、模範解答が書いてある指導者向けの回答本を貸されて、これに解き方が書いてあるからそれを見ながらやりなさい。とだけ言われ、誰も教えてくれなくなりました。ぶっちゃけ、それを丸写しすれば満点が取れるわけですが。1ページ1問、1行だけ印刷されたプリントに長々と公式を解いていく過程を書くわけだけれど、いきなりその公式が書いてあるので「なんでそれ使うの?」という質問には答えてくれないんですよ。問題のどこを見て、どの公式を使えばいいのか教えて欲しいんだけど。と言ったら、その本に書いてあるから。と言われ。いや、書いてないし。と不信感を持ったのでした。今思えば、きっと先生が理解してなくて教え方がわからなかったからなのでしょうが。当時小学生だった私は教える側の人がわからないわけがないと思っていたので、なんで教えてくれないんだろう。いじめかな?教えてくれないんなら習う必要ないでしょ。本買って済ますよ。と思って通うのをやめたのでした。あの頃いい指導者にあっていれば今頃優れた数学者にでもなってたんじゃないかとかも思いますが、会わなかった時点でもうなれないこと決定だったわけで。それも実力の一つなんですよ。自分から会いに行こうとまで思わなかったわけだし。まぁ今更言ったところで、ですがね。そういうことを考えると、アデプトプログラムが2日間かけてガイドがしっかり説明をするというのは学びとして正しいなと思います。教科書や参考書をいくら見ても、わからないものはわからないですもん。しっかりと学んできたからこそガイドはそれを説明できるわけで、教科書の朗読会しかできない受け売り教師とは違うのですよ。お金はいただきますが、きっかけはほんのちょっとでいいんです。興味があって。なんか面白そうだなと思って。受けるといいよと言われて。それも十分にきっかけで、アデプト受けたいと思って、ガイドのところにそう言ってもらえれば、受けれるんですからね。私が公文をただ辞めるだけでなく、さらに次の指導者を求めていれば世界が開けてたかも、とか後になって後悔したようにならないよう。アデプトプログラムを受けたいな、と思った方はご連絡ください。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
以前、私は悪を秘めている人は見ればわかる。というようなお話を書きました。目の奥が人間じゃない光を放ってるように見えるんですよね。私は特にテレパスでもエンパスでもないのですが、それだけは何故かなんとなく感覚でわかります。そういう話をすると、どうやってわかるわけ?と聞かれることがあります。よく漫画で頭の上に?マークが浮かぶことがありますよね。あんな感じです。言ってないけど、目が訴える。っていうやつです。それが、表面的には分からない奥の方で、奥に隠しているものが見えちゃうわけです。だから私はあまり初対面の人の目を見ません。経験上、私のことをジロジロ見る人ほど嫌な感じがするもので。あ、接客業はプロなんで接客バイトの最中にはお客さんの目はちゃんと見ますよ。奥の方を見ないようにスイッチを切り替えた上で見るようにしてます。普通の人間のフリをしている、というかwでもそういう悪を秘めている人という種類別がわかるだけで、その人が何をどう考えているかとか、その根元がどこから来ているか、これから何かしようと企んでいるとかは全くわかりません。ただ、そういう人が私のヒーリングやディヴィネーションに興味を持ってもらった場合にどういうわけかお互いの条件が合わずにセッションまで行くことはありません。私が嫌がってわざとそうしているわけではなく、何故か受けに来れない状況になるのです。一応ね、ガイドなんで。来たらば多少はそれ相応に対応できると思うんですけど。何故かうちに来てもらうところまで届かないんですよね。愛を武器に悪と戦う、という信条を実行するならば。敢えてがっつりセッションをして良き光をまとえるようにしてあげたいと思うんですけどね。そこまで私の力量が足りんのでしょうかね。不思議なもんですね。チャネリングスクールを卒業して2年経ちますが、その頃モニター期間が終了した直後から何故か駆け込みで無料チャネリングの申し込みをたくさんいただきました。でも皆さん、もう無料終わったんで有料でやりますよーと言ったら、無料じゃなきゃいいです。と去って行かれました。長く通ったチャネリングスクールをやっと卒業し、やっと有料でセッションができるようになったところでそうやって押し掛けられてびっくりしました。無料だったら受けてあげてもいいよ、言われたことやるかどうか知らんけど。と何となくテレビの星占い感覚で受ける人には、あまり響くメッセージはくれないな、と思っていたところでした。やっぱりそういう意気込みにも多少なりともよくない光がさしているのかもしれないですねぇ。(前にも書きましたが、高いお金を払ってでもぜひメッセージを聞きたい。自分を変えたいんです。という意気込みのある方には、熱心にメッセージをくれますんです。)有料第一号だったお客様に対する、イザナミさんの溢れる愛情ったらすごかったですよ。実のところ、やりながら、重いわ!と突っ込んでおりましたwこれがプロというものか!と自分でびっくりしました。来年あるかはわかりませんが、毎年年始のMMS本部イベント、サイキックフェアでは入場料のみでチャネリングスクール生のチャネリングが受けられます。ここ2年は卒業生、つまりプロのチャネラーも数人参加して、同じく入場料のみで受けられました。私はスクール生だった時と、その後2年連続、つまり3年連続でサイキックフェアに参加しています。まだチャネリングコントラクトが判明していないスクール生は天使や四大元素のマスターなどを呼ぶのですが、それはプロになってしまうとできないことなので逆にレアだと皆さんこぞって受けられます。が、実のところ。訓練生のところで受けた後に、私たち卒業生ブースに来られた方が皆さん言われていたのがやっぱりプロは違いますね!ということでした。エネルギー量が違う、というか。イニシエートの方なら多少はエネルギーがわかるのは理解できますが、一般の方やまだアデプトを受けたばかりの方でも、さっきと全然違う。と言ってくださりそれがプロってものなのねぇと自分でも思いました。確かに自分が受ける側の時も、プロのしかも活躍されている方のセッションを受けるとやっぱ違うねぇと思いますもん。やっぱりスリッパ卓球のつもりでオリンピックに参加しようとするな、ってことですね。←ちょっと違う気も‥‥先日女神イシスのチャネリングを受ける機会がありました。私はさらに高度な知識と叡智を自分のものにして世界の役に立つようになるそうなんですがいまいち現実世界でくすぶっており、なかなか思う通りにことが進みません。瞑想したり本を読んだりするのも良いですが、直接高次の存在から光を受け取ると良いでしょう。と言われたものの私が受けたい色々なものは大体高額なお金が必要で、コロナ禍が終わらず接客業で稼いでいた私にとって今現在なかなか無理難題じゃないかい。と思ったんですが。自分でチャネリングすればいいんじゃん?ナミさん直接くるじゃん?タロットもラーから直接くるよね?ということで、すっかり引きこもりな今日この頃ですがしばらくセルフチャネリング&セルフタロット習慣を設けてみようと思います。今日はもうあくびが止まらんので、寝ますけど。明日から本気出すw と言って結局いつも何もしないままですみません。とりあえずハロウィンの夜は11月になる直前に満月になるそうなんで、面白い夜になりそうですね。↑ゴシック、オカルト系大好きな人なんで、一般人と共に楽しめるハロウィンや死者の日は大好き。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd
私は自分軸、という言葉を多用する人が嫌いです。大概は自分中心であることを肯定的にいい様に言い換えているだけの人が多いので。そんな、その言葉を多用する人が嫌い、と言っている自分もそれを言っている今は自分がさも正しい様に自分中心に自分の好き嫌いを発しているだけなのかもしれませんし、会話でない話、独り言やこういう一方的に発する文章、または何かの講座や発表などでは、得てして人の話を聞かずに自分が発言することに専念するだけにそうなりがちであり逆にそうであって初めて成立するとも思えます。それを成立させるためには、持論であってもそれを正しいこととして自信を持って提供しなければならないのです。そこで反論を受け付けるか、助けを必要とするか、もしくは助けを求めるか認めるか、それはその人の目線や立ち位置、自信のありようにあるかと思います。自分軸とは自分をしっかり持てということだと解釈しています。ちょっとやそっとじゃぶれない、しっかりした軸になる様に、自分をしっかり持て。と。でもね、軸って中心じゃないこともあるんですよ?うまくしないと振り回されるくらい大きく回っていないと立ってもいられなかったり、逆に吹き飛んでしまう軸だってあるんですよ?工学とか力学とか、建築をやっていたときにちょっとかじっただけなのであまり大仰には言えませんけど。私はバニラアイスクリームが好きです。コーヒーが飲めないので、コース料理などでデザートにコーヒーアイスクリームがつく場合にはコーヒーがだめなので別の味にできますか?できなければ抜いてください。とお願いすることがあります。以前ディズニーホテルのレストランでそのお願いをしたときに、キャストさんがバニラアイスしか用意できないのでバニラアイスでよろしいですか?と言われました。クリームソーダかパフェ用にバニラアイスの用意があったんでしょうね。もちろんいいに決まってるので、快く承知して、逆に差し替えてくれることにお礼を言ったのですがそのキャストさんは他にもっと味の用意があったらよかったのですが、バニラでごめんなさい。と言いました。昔の日本では特に、バニラアイスとはプレーンアイスであるという認識があった様に思います。しっかりバニラフレーバーがついているのに。味がついていないアイスだと。ソースやトッピングのあるデザートの土台に使われることも多いですしね。確かにバニラという言葉は、何もない、フラットである、特徴がない、というスラングでも使われます。私が子供の頃に食べていたバニラアイスは合成香料だっただろうし、そんなにいい香りだと思ったことはありませんでしたがそれなりに大きくなってからは深く甘い香りが好きになりました。ストロベリーやチョコレートよりもバニラアイスを好んだ時期には、変な子供だと言われたものです。(多分父親的には安いアイスが多いバニラを選ぶことが貧乏くさいと思われていたのでしょう。)昭和の時代はバニラなんてホットケーキの香り付けくらいで、味の中心になんてしませんでしたものね。ニューカレドニア土産にバニラビーンズを買ってきて、母親にこれで何かデザートを作ってくれ。と言って困った顔をされた記憶があります。結局いつも作るパウンドケーキに混ぜられて、せっかく現地で特産の海外土産だったのになんの特別感もなく普通に使われてしまいました。余談ですが、大天使ミカエルが近くに来るとバニラの香りがするそうですよ。なかなか人間の近くまで降りてきてはくれない存在ではありますけれども。自分のために生きていないなんてつまらない。人のために生きたいとは思わない。バニラアイスの様に美味しいソースをかけるための土台になんてなりたくない。というのが、きっと自分軸を大事にしている人の主張だなと思っています。でももうその時点で周りを気にしすぎてると思うんですけどね。なんだかバニラスカイのマッケイブの様だなと思います。自分が主人公として生きるためのシステムの中で、実はその主人公を助けるためだけの脇役であって、それが役割である以上はその主役がいなければ自分はたいした設定も存在しない軽い存在であり、主人公と同じほどの存在価値がないと思ってしまう。自分が脇役だったことに気づいた時の無力感。最初から脇役だと知っていれば熱演もするし、充実感もあるでしょうが。そんな覚悟がなければ、自分が主役じゃなかったと気づいてしまった時のギャップに立ち直れなくなる。自分軸を主張する人にはそんな危険がある様な気がして、私はそこまで主張ができません。だって脇役だってちゃんとした役割だし、それがその人の本命なのであれば主役である必要なんてないもの。主役だから上位的評価がされるという事実はあるけれど、一番上に行くことが本当の最上位ではないかもしれない。てっぺんからの景色よりも、半分くらいのところにある展望台の方が景色が素敵かもしれない。目指すゴールを間違えてはたとえ軸がしっかりしていても、ただ同じところで回るだけで何も生み出さないことになるかもしれない危険をわきまえなければならないと思うのです。
東京ディズニーリゾートのキャストがゲストに向かってする挨拶は「こんにちは」です。決して「いらっしゃいませ」とは言いません。それは、コミュニケーションとして、返す適当な言葉がないから。です。いらっしゃいませ、には答えるべき適当な言葉がないからそれは一方通行で終わってしまい、コミュニケーションに発展しないから使わない。のです。こんにちは、であればこんにちは。と返せる。TDRにはテーマグリーティングというものがあり、エリアごとにそこに合う挨拶が付け足されることもあります。イタリアがモデルになっているメディテレーニアンハーバーではボンジョルノこんにちは。と挨拶します。ゲストの方は無理にテーマグリーティングに返してくれずとも、こんにちはだけ返してくれれば良いしもしくはそのままおうむ返しにボンジョルノ、と返してもらえれば大丈夫です。(という理由もあってアラビアンコーストではアッサラームアライクムではなく、サラームと言います。アッサラームアライクムは長くて覚えられないとともに、正しい返答がおうむ返しではなくワァライクムサラームであるため。らしい。)挨拶をきっかけにその場の雰囲気をより楽しんでもらうとともに、そこの住人であるキャストと話をして、更に世界観を楽しんでもらいたい、という意図です。相手の存在を認め尊重している意思表示でもあります。ようこそ、の気持ちを伝えるために。わからないことがあればどうぞ声をかけてください、という意味でも。声をかけやすい、話やすい環境を作るのはコミュニケーションの始まりです。チョコレートドーナツという映画を見ました。アラン・カミングは好きな俳優です。(以前インスティンクトについて書きましたねぇ)あの映画に出てくる人は全員が「愛」を欲しています。愛の形とか方向性とか受け答えとか、そういうものは人それぞれ様々であり、かといってそれが本人や周りにとって良いのかどうか、世間的に許される愛なのかどうか、許されなければ排除するべきなのか、そこに愛があるだけじゃダメなのか、というお話でした。今の私に圧倒的に足りない要素である「愛」のお話です。今の地球にも圧倒的に足りない「愛」のお話です。愛とはすべての源であり一方通行では存在し得ないものです。愛の押し付けは誰かを何かを愛している自分に酔うだけのただのエゴです。愛はそれを受け取り自分からも愛を渡すもの、愛し合うことでそれは何倍ものパワーも幸せも持ちうるのです。そこに愛があって当事者たちは幸せなのに、なぜ周りが妨害するのか。誰も何も得しないのに、その正義感や倫理観は誰の、何のためなのか。忌野清志郎はいつも「愛し合ってるかい?」と問いました。オーディエンスに向けて一方的に愛してるよ、というパフォーマーは沢山いますが愛し合っているか?と問う人はそれまでいなかったと思います。くーさん(清志郎の愛称)はそれを分かって言っていたんだと思うと、なんと愛の深い人だろうと思います。わかったふりではなく本当にわかっていて言える人ってそういないですよね。本当に素敵な人です。私は自分から愛を投げても投げ返してもらえず、愛を投げて欲しいなんて思ってない人から豪速球をぶつけられたりして、今までまともな愛に触れたことがないなぁと思っていたところでした。それなりに長い人生を歩んできて、今まで結婚してもいいかなぁって思った人いないの?と聞かれたことがあったのを思い出しそんな人いたかなぁ?と考えていたところで、ああ、あの人だったら一緒にいて幸せになれたかも、と思い当たる人が一人いましたがその人は私がそんなことに気づく前に病気で亡くなってしまいました。もう20年近く前のことですが。愛の形は人それぞれ、と言います。それはあくまでも形の話であり、存在自体を指すわけではありません。お互い愛を共有することができるのに、愛し合っているのに、形がおかしいと周りが言うべきではないのです。愛が足りない私が、愛を問うこの映画を見てなんだか辛くなりました。でもそこで愛なんていらない、とは思わない、とてもいいお話だと思います。マイノリティに関して話題になることも多い昨今、今だからこそこの映画はたくさんの人が見るべきだなと思います。愛とはコミュニケーションの発展したものなのだから。viaPhilae Glass Your own website, Ameba Ownd