父が他界して二年目の正月。いつものように関東の実家に戻ってきて過ごす。緩やかに流れていく時間。だが、一人で住んでいる母親のためにすることはそれなりにある。車を洗う。前回来たときから洗っていないから、かなりの砂ぼこり(黄砂?)汚れがある。普通のスポンジでは落ちないので、ブラシをつかって水洗い。関東は寒くても水が使える。北の大地とは違う。

 

 仕事から離れる時間は、誰にでも大事だし、こういった時間がまた一年頑張ろうという気にさせる。

 

 皆様明けましておめでとうございます。

 

 年賀状をやっと書き終わる。

もう年賀状などやめてもいいのではないかと思いつつ、知り合いにこういったことから離れられない人のことを考えるとなかなかやめられない。

 だが、本当に自分が書きたい人にだけ書くことにはした。

 

 経済の勉強を、車の中でしながら通勤しているが、この20年の間、教育に関わる予算はいくら増えたか?

 

答えは、1倍だそうだ。

 

まったくふえてなどいないということだ。そして教員以外にもいろいろな人を雇っているから、先生の給料が増えるわけもない。

 

 そして、ノーベル賞をとったその後、京都大の山中教授の研究チームは、スタッフが非正規雇用ばかりだったそうだ。ノーベル賞をとった後の研究チームでさえ、非正規雇用。どうかしていると思う。教育や研究に金をかけられないこの日本はどうしてしまったのか。

 

 たしかに、学校に行けば、施設は古い、いろいろとがたが来ている。いろいろ壊れ始めている。さっと直す予算はない。

 

 その経済学者は財務省のいっている「プライマリーバランス黒字化」が一番の問題だといっている。どんどん金を使うべきだと・・

 

 教育に金をかけるようであってほしい。あんまり難しいことは言わないが、紙や印刷機、WIFIぐらいはちゃんとしてほしい。

 

 そして、精神疾患で休む先生は、高止まりしたまま年間5000人だそうだ。そのように認定されなくても同じような症状で休んでいる人たちを身近で知っている。

 

 ある親に訴えられて、町の教育委員会がかばうことをせず自費で弁護士費用をはらった校長がいるのを身近に知っている。当然勝訴したが、その金が戻ってくるわけでもない。その方のプライドもずたずただろうが、教師とは当たり前のことでも守られることなどないのだと同じ職場の人間は痛切に思っただろう。私もその一人だ。そして、その後多くの仲間が、訴えられても良いように教師の保険に入ったのは、ブラックジョークそのものだ。

 

その話には落ちがあって、その親は返す刀で、町長を訴えた。当然、町長には弁護士がついた。それから4年たったが、その町に希望をだす先生は少ないそうだ。つまり人気がない。当たり前の帰結。

 

 教育の崩壊というのは、都市部から進むのではなく、地方の田舎から進んで行くのだと最近実感と共に思う。

 

二学期の終業式が終わる。

その後、サポート学習。

その後、町の研修。

 

なかなかにいそがしい日だったと終わってから思う。

 

サポート学習は、やはり自分の中ではしっくりいくものではなかった。

問題を解くのに消去法がよくてうんぬんかんぬん・・というのは、知っておいてもいいことなのだろうがたいしたことでもないだろう。

 

ただ、子ども達とあれこれと間違っている理由をさがしたり考えたりしたのはそれなりの楽しさがあったのは発見だった。

些細なことでも、教材や問題や共通のことをベースに子ども達と意見を交わすというのはそれだけで価値がある。(主に教師に取ってかもしれないが・・)

 

最後のイベントであった、町の研修のイベントで、局の人が日高の成績がどうのこうのといってこれがまた心に響かない。

現場で先生としてやっている者は、曲がりなりにも今の子供の姿が見えている。

学力は、学校のあり方だけで決まるものでもあるまい。

地域的な、基盤や教育インフラがあってのことだろう。

また、地域の経済だって大きな要素なのだ。

 

学力が厳しいところは、はっきり言えば地域の経済だって厳しいのだ。

それを数字だけでみて、学校のことだけを論じる。それもどうかと思う。

 

教育に対して悲観的になっているのではないかと妻にいわれたが、まあそういうこともあるだろうと多少は納得。

 

ただ、この泥にまみれた状態はもう5年、10年は続くかもしれないがその中で育った人は、逆説的だが良い先生が生まれてくるかもしれないし、この時期があるからこそ、学校が良い方向性に向いていくかもしれないという望みもある。