<要拡散!>



暗号通貨によって

日本のメガバンクが

日銀に

とって代わる日



http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-4472.html




分かります!
日々航空機で付け回されてきた
特殊工作被害者には、
よーく分かります!!↓



琉球新報

夜間騒音で睡眠不足、
欠席児童も 
オスプレイ高江訓練激化 
東村が抗議





自分たちの民族さえ安泰なら
それでよい、
自分達が利用できるものさえ
残ればそれでよい、
自然界の循環作用を全く無視して
独善・エゴに満ちたルールを
敷衍させ、
自らの欲望の為なら他の生命体を
容赦なく殺戮・虐待・悪用する。

人権だの自由だの寛容だのと言った
言葉は、
そんな者達の擁護に利用されてきた。

これは何も所謂ダークサイドといわれる
人々のみに当て嵌まることではない。

自分のテリトリーで問題なければ
それでよし、とする人々もまた、
同じ課題を負っている。




自然界で皆が共存するための
ルールを守れない者を
野放しにしない。

これも大切なルールです。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


Mr.Mount-hat氏のお便りから


里山の古老たちに立無を聞いてみると、
確かに街に住んでいると便利はよかろう、
しかし里山に住んでいて
本当に幸せだったという答えを
沢山頂きました。

大自然の中で自分は生かされてきた
という思いを
感じていらっしゃるわけです。

山の恵み・樹木の恵みによって
生かされてきたとも仰っていました。

山里の古老たちは、
その里山の自然に触れながら毎日
生活していらっしゃいますから、
大変豊かな感性をお持ちだし、
正直な気持ちで日々の生活を
なさっています。
日焼けして黒い、皺も多い、
指もごつごつしていますけれど、
そういう方々が素敵に見える
わけですね。

街のざわざわした処におりますと、
背伸びをして自分を大きくみせよう
という気持ちになることもありますが、
山の中に入っていくと、
段々小さくなっていく自分を感じるんです。
小さな自分を感じることが出来れば、
小さな植物や花とも対話が出来るようになる
と確信しているんですよ。


ですからが、
がむしゃらに高い山に登ったとか、
年に何回登ったというような
山登りではなくて、草花を見たり、
樹木を見たり、水の流れを見たり
という山旅を私はしております。

そうすると小さな自分を自覚できるし、
小さな自分だからこそ
皆を包み込むことができると
最近感じ始めてきました。

山歩きをする時に、決して比較をするような
山歩きはしてはいけないと思います。
そういった山登りをしていると、
何も見えないと思います。

樹木の大切さや大地の大切さ、
または昆虫や微生物の大切さ、
そして人が営々と築いてきた里の暮らし
というものは見えないと思います。


ゆっくりゆっくり歩いて、
自分が小さくなってものを見ていくと、
色々なものが見えてくるのではないかと
思います。

そういうものが見えないということは、
人間も見えないんじゃないかと思います。

人間社会にいて人間を見ようとするならば、
人間だけではなく他のものも見えてこそ
人間が見えると私は思っております。

さて自然といいますと、手つかずのものが
自然だと勘違いしている人が
多いのではないかと思います。
人間が入ってはいけないというものが
自然だと思われがちですが、
決してそうではないと思います。
何故なら、人間も自然の一員なのです。

お互いが共存していける、
仲良くしていける状態が
自然であると思います。

人間も自然の一員であると
考えるならば、
自然界と共存できるような形を
自然というのではないかと思います。

鳥たちがいたり獣たちがいたり、
小さな昆虫たちがいる。小川にも
たくさんの魚や昆虫などがいます。
そういうところで人間も育まれ、
他の生き物たちもそこで育まれている姿。
棚田の中にたくさんのものが
集約されているのです。

そういうものを見ると、自然というものは
手つかずのものではなく、
生きている物がみんなをいたわりあい、
共存できている姿を自然というのでは
ないかと私は感じて参りました。

今の日本の田園風景というものが、
人間の智慧が作った文明だと思いますし、
そういうものを残していかなければならない
感じております。


そして、自然の中で生きているものは、
自然のルールを守らなければならない
と思います。

人間だけがそこで生きていけばいいんだ
というのではなく、
あらゆる一切のものが生きてゆくことが
出来てこそ自然であり、
それを考え実行していくことが
ルールだと思います。

それは、人間が自然の一部であるという
考えでこそできるものではないかと
思います。


人工的に肥料を作ったり殺虫剤を使って
田圃や畑にばら撒く、山林にもばら撒く、
人間以上の力のある機械を作ってどんどん
開発をしています。

そういうものを使っていても、
それをコントロールする、つまり
ルールを身に付けて行動してこそ、
自然の中の一員であると思います。

又、それをするには里山という自然の中で
生きてこられた方々に学んでいけば
よいのではないかと思います。

(※九州に出向いた折に)
あの地方の山が檜や杉ばかりの
山の姿を見て
「素晴らしい山だなあ」
と言った方がありましたが、私は心の中で
「そうかなあ、同じものばかりが
植えられている山なのに」
と思い反発を感じたことがありました。

杉や桧だけの単一的な樹木ばかりの
山ならば生物が育たない、
多種多様なものがその地域にあってこそ、
自然の豊かな風景があると思うからです。


それは人間社会も同じだと思います。

自然界を見ると色々なものが育ち、
互いが助け合って生きているように見えます。
そういうものを見て、
人間社会もこうあらねばならないと思います。

年齢を重ねた方も、若い方も、
男性も女性も、また病気がちな方も、
はつらつとした方も、
それぞれ個性豊かな方々がいっぱい集まって
協力して住んでいける社会というものが、
一番素晴らしい事ではないかと思います。


それから、単一的な樹木ばかりですと、
どんどん土地の力が落ちて行って、
災害をもたらします。

広葉樹林から流れてくる豊かな水、
そこには色々な微生物達を含んでいるし、
栄養豊富な水が流れてきます。

その水が川に入り、海に入って
植物性プランクトンになり、
小魚に食べられ、その小魚が大きな魚に
食べられていくというように、海の中にまで
大きな影響を及ぼしています。

最近魚がとれないというのは、
山の樹相がアンバランスになっているから
ではないかと言われています。
そういうことを考えると、
広葉樹林をもっと大切にしなければ
ならないと思います。

木曽杉・秋田杉・また九州の日田杉・
京都の北山杉にしてもそうですが、
遠い昔から、また戦後の日本が
復興する時に何が一番手っ取り早いか
ということで杉や桧をたくさん植えてきたので、
それによって多くの人々が養われ、
生活することが出来たのでしょうけれども、
そういう方々が一人またお一人
亡くなっていき、また若い方は都会にでて
山の手入れをすることが出来なくなった今、
山は荒れ放題で、災害を齎すばかりと
なってしまう。そこから木を切って
材木とするよりも、外国から買った方が
安いというような、森を経済と見てきた
日本の政策が
非常に間違っているのではないかと
感じております。



森は経済の中心ではなく、
我々の命を育んでいく大地なんだ
という考えが政府の中に
起きてこなければ、
日本の国は変わらないと
私は思っております。



転載以上




こちらをよろしく★



再掲

facebook再会しています。

プロフィール画像で判るようにしてあります。

繋がりを教えて頂ければ友達承認させて頂きます☆



今回の事件で、

改めて仏の采配・仏天の慈悲を

痛感させて頂きました。


命を張って 

私の信心を目覚めさせてくれたW,

本当に有難う。感謝してる。


仏様、有難う御座います。




有難う御座いました!

南無妙法蓮華経



有難う御座いました!
南無妙法蓮華経