末学の者共・
本師の誤をば知らずして
弘め習ひし人人をも 

(日蓮)



日本国に於ては
外道も無く小乗の機も無く
唯大乗の機のみ有り、
大乗に於ても
法華より外の機無し、


(当体念仏者無間地獄事 日蓮)



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私達は眼で見ている世界が
全てだと思っているが、
実は見える世界は
ほんの一部であって、
目に映らない世界の方が
よっぽど広いのです。


私達にとっての世界とは、
決して
周りに広がっている世界ではなく、
私達自身が作り出した心の世界が
私達にとっての世界そのもの
なのです。


周りの世界に見えるものとして
存在していなくても、
私達の心の世界の中に
存在していれば、
それは私達にとっては存在です。
このことからも、
自分の心こそが世界そのものです。


自分の心、つまり一念が変われば
世界も変わるのです。
汚い心を出せば、
自分にとっての世界は
地獄に変わってしまいます。
きれいな心を出せば、
自分にとっての世界は
菩薩・仏に変わるということなのです。



(Mr.Mount-hat氏




至理は名無し、
聖人理を観じて
万物に名を付くる時、
因果俱時 
不思議の一法之れ有り。
之を名けて妙法蓮華と為す。

此の妙法蓮華経の一法に
十界三千の諸法を具足して
欠減無し。
之を修行する者は
仏因仏果同時に之を得るなり


(当体義抄 日蓮)



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Mr.Mount-hat氏のお便りから


<創価学会破折>


創価教育学会時代


創価学会の前身は
「創価教育学会」と云い、
最初は宗教団体ではなく、
初代会長となった牧口常三郎氏の説く
「価値論」という思想に惹かれた人々の
集団でした。


牧口氏は東京で長年、
小学校の校長を務めていましたが、
その頃に後の二代会長となる
戸田城聖氏が門下生となって
師事しています。

昭和三年頃、日蓮正宗の信者・
三谷素啓氏の折伏により入信、
次いで戸田氏も入信しました。
そして昭和十二年、
麻布の菊水亭に六十余名が集まり
創価教育学会の発会式を挙げました。
その後、昭和十七・十八年頃の
最盛期には会員は三千人を数えた
といいます。

しかし、折伏をしていく上での
会員達の言葉の行き過ぎや、
特に牧口・戸田氏らが

当時の国家による宗教統制に
徹底して反対し、
神札等の授受などに拒否した為、
昭和十八年、治安維持法違反と
不敬罪に問われて

牧口・戸田両氏をはじめ二十一名が
逮捕され、牧口氏は昭和十九年に
巣鴨の拘置所で逝去(七十四歳)
しました。


牧口初代会長には「価値論」という
特筆すべき著述がありますが、
日蓮正宗の教義とどのような関係に
位置づけられていたのか、
彼自身の語るところを
揚げておきましょう。


「私は正式の僧籍を持つことは
嫌いであります。僧籍を得て
寺を所持することになれば、
従って日蓮正宗の純教義的な
形に嵌った行動しか出来ません。
私の価値創造論をお寺に於いて
宣伝説教する訳には参りませんので、
私はやはり在家の形で
日蓮正宗の理念に価値論を取り入れた
処に私の価値がある訳で、
此処に創価教育学会の特異性が
あるのであります。

(中略)
学会はあくまでも
日蓮正宗の信仰を私の価値論と
結びつける処に
特異性があるのであります。」


(以上は警察の尋問に対する
 牧口氏の答えです。「昭和特高弾圧史・
 宗教人に対する弾圧」より)





牧口氏は日蓮大聖人・法華経への
信仰は大変に厚かったと
言われていますが、
日蓮大聖人の仏法に己が思想の
「価値論」を結びつける等、
教義的には誠に不純です。

日蓮大聖人は
「今末法は妙法蓮華経の七字を
弘めて利生(仏が衆生を利益すること)
得益(利益をうけること)あるべき時なり、
されば此の題目には
余事を交えば僻事なるべし」云々、
(御講聞書)と仰せですが、
一信者として宗祖の教えに
価値論を交えたことは、
たとえ価値論が日蓮正宗の教義・
理念に反しないものであるとしても、
不遜の謗りを免れることはできません。




創価学会時代


牧口氏と共に投獄された
二代戸田城聖会長は、
敗戦による占領軍の政策によって
治安維持法が廃止され、
不敬罪も大赦をもって免訴となって
釈放されました
(昭和二十年)。


出獄した戸田氏は会長職を置かずに
理事長の立場にありましたが、
昭和二十一年一月、
創価教育学会の名称を
「創価学会」と改めました。

同年、宗門側に対して
「宗教法人・創価学会」を設立
することを承認するよう願い出ました。

しかしこれは宗門にとって
大きな問題でした。なぜなら
「宗教法人・日蓮正宗」を信奉している
信者団体(創価学会)が、
別に宗教法人を取得するということは、
法律的には全く別の宗派となるからです。
流石に宗門でも大いにもめましたが、
結局は次の三条件を
提示することになりました。


一、折伏した人(創価学会員)は、
  信徒として各寺院に所属させること。


一、当山(日蓮正宗大石寺)の
  教義を守る事。


一、三宝(仏・法・僧)を守ること。


これを受けて昭和二十七年八月、
創価学会は終に宗教法人を
取得しました。
この時点で日蓮正宗には


一、各寺院に所属して、
  七百年来の法燈を受け継いできた
  旧来の「法華講衆」と、

一、戸田会長を頂点とする
  「創価学会」という戦後にできた
  新しい「法華講衆」


という二つの流れ・系統が
信者の間に出来てしまいました。
学会員にとっても
「宗教法人日蓮正宗」の信者である
同時に「宗教法人創価学会」の
信者でもあるという、
実にややこしいことになったのです。


しかしその後の創価学会の活動と
発展は目覚ましく、
戸田氏は二代会長に就任
(昭和二十六年)していましたが、
昭和三十二年末には
七十五万世帯の折伏を
達成しています。
そして昭和三十三年、
戸田氏は日大病院で逝去しました
(五十八歳)。




戸田氏は戦後の疲弊していた
当時の日蓮正宗を復興するのに
多大な貢献をしました。

また、停滞していた日蓮正宗の
布教活動、即ち「折伏行」
という息吹を宗門内に吹き込んだ
ことも事実です。

為に時の法主上人より、
戒名は
「大宣院法護持日城大居士」
という尊号・居士号を
与えられています。
しかし乍ら、彼の最大の過ちは、
たとえ種種の理由や事情が
あったにせよ、
「宗教法人創価学会の成立」
にありました。

何故ならこの法人設立により
創価学会の諸活動・運営が
日蓮正宗やその僧侶達と
全く無関係となった為に、
独自の宗教的カラーを持つように
なってしまったからです。

そして終には後継者・池田大作氏の
慢心による独裁・独走をも
許す結果となりました。


戸田氏自身は大いに宗門に
尽くしもしましたが、
一千万会員(公称)が日蓮正宗の信仰・
教義や化義から逸脱するという
悲劇の種の根元は、
今となっては彼自身が蒔いたもの
ともいえるでしょう。


転載以上

続く





牧口氏が日蓮正宗とは
一線を画す、
教義に価値論を加えたところに
意義があると自ら述べ、
その理念を引き継ぐ形で
戸田氏が独自の法人格取得を
意図した時点で、
宗門側が関係を断つべき
でしたね。


裏では駆け引きや脅しも
あったかもしれませんが、
宗門側にも護法の観点から
過誤があったことは
一般人にも分かります。


戦後、米ネオコン主導で
日本国解体政策が進められて
来たことを思えば、
戸田氏も何らかの因縁を
負わされていたのかも
しれませんし、
或は純粋に牧口氏の理念の
実現を求めた結果、
宗教法人を牛耳ろうとしていた
国際マフィアに若くして消された、
ただの布教ダミーにされたとも
推し量れますが、
如何なものでしょう。


まあ、起きるべくして起きた
骨肉の紛争だと言えませんか?
釈尊の・日蓮聖人の御心は
どこに置き去られて
しまったのでしょうね。


宗教団体的なものを作れなんて、
仏も日蓮聖人も仰っていないし。
時代的観念の違いを
考慮に入れても、
心ある者達で集まって法を学び
御護りなさいという日蓮聖人の
お言葉を拡大解釈しているとしか
思えないのですが・・

これも必要な学びの経路
なのでしょうね。。。


何て生意気言うと、
またストーカーが増えちゃう~?
どんだけの団体に
ストーキングされてる訳?
私って。(笑)


有難う御座いました!
南無妙法蓮華経