先生たちの「落ちゲーをやめる日」

先生たちの「落ちゲーをやめる日」

アドラー流カウンセリングとコーチングで、先生は歩きだせる

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教え子が留学体験をブログするようになり、私の知らないところでどんな経験をして、どんなことを思ったのか、成長の過程を楽しみに読んでいます。


彼女は中学生の時、1学期間私の英語のクラスにいて、気配を消していました。文字通り「当てられないようにひっそりと」座っていました。実は教壇からは意外と丸見えなのですが、そういう子は必ずクラスに存在して、却って私の目を引くことになります。笑


聞けば家族で海外旅行とかもするようで、英語が嫌いというか、英語の勉強が嫌いなんだろうな、という子でした。


私は授業開きで必ず、どんな趣味を持ってるかとか、英語が好きかどうかとか、将来英語をどんな風に使いたいかとか、とか、部活は何かとか、必ずアンケートを取ります。担任でないクラスでは生徒の情報が少ないので、それは例文を作る時に使われることもありますし、英語に興味を持てない子に、その話題について英語と結びつけることもあり、あるいは単に少しでも親しみを持ってもらえるように、話題を振ることもありました。


彼女が書いてきた趣味は三線。その頃私は八重山民謡にハマって、家に転がっていた三線を持って習いに行ったりもしていたので、興味津々で呼び止めました。すると、本島まで旅行をしてはアーティストに習っているとのこと。「英語わかなくても、三線持っていけば、あなたならすぐ友達が出来るわね。」などと、英語の教師らしからぬ事も言いながら、授業が終わると教卓に来る彼女とおしゃべりするようになりました。


英語が出来ないのではなくて、明らかに勉強から逃げている様子で、やってみもしないのに「出来ない」という子に厳しかった私は、よく相談されると、「家でやればいいや、とか、後でやればいいや、って思うから辛くなる。授業中だけまずは頑張ってみたら。」と言っていたわけですが、彼女はその「授業中に頑張る」が全く性に合わない、人前で一生懸命やるのはイヤ、という子でした。何て言ったか忘れていましたが、彼女のブログによると、ちゃんと向き合え、みたいなことを言ったようです。今もYes, but…な人のお尻を蹴飛ばす時にはそういうことを言っている気がします💧


その後、授業で巡り会う事もなく、1年以上経った頃か、次にやってきたのは中学3年の時。


「アメリカに高校留学したいから、推薦状書いてください!」と来たのですが、「ええと、何の?」と聞き返した (つまり、英語の、なのか、知り合いとして、なのか) ほど、彼女のことは授業とおしゃべりした程度のことしか知らず、今教わっている先生とかじゃダメなのかと再三聞いたのですが、うん、と言わず、どうしても私に書けと。


推薦状、って、「この人を推薦します」だけではないのです。そんな簡単に書けません、担任にはちゃんと言った?などとと説教しつつ、取り敢えず、外国人教師に彼女の授業態度を聞いてみると、「気配消している。」笑。


部活の顧問のところに行き、「上級生としてリーダーシップ取っていますか」と聞くと、「頑固だけれど真面目に頑張っている」。いや、もうちょっと詳しく、と様子を聞き出し、他の教師にもそれとなく聞いて、教えていた時の資料を引っ張り出して色々書いてみました。


「彼女は授業中もあまり積極的ではないタイプですが、他の子にはない着眼点があります。また強い信念があり、自分の能力を伸ばしたいという意志があります。非常に残念ですが、当校のリソースは限られており、彼女の様々なスキルや潜在能力を伸ばすプログラムがありません。貴校の優れた環境では、彼女は恐らくもっと伸び伸びとリーダーシップを発揮できると確信していて、私は彼女を応援したいのです。」


A4一枚分を要約するとこんな感じですが、外国人教師に読んでもらうと、「いや、これじゃあダイレクト過ぎて身も蓋もない。表現を変えろ。」と言われ、わかっているけれど、じゃあどうするよ、と言ったらその先生も困って、どう書いたらいいか、2人で唸りながら仕上げました。


もう1つの問題は、彼女が志望しているのがボーディングスクールで、1年間の腰掛け留学は認めない、という事です。つまり、きちんと編入学する、つまり学籍を移すことが前提でした。しかし実際には休学扱いで保険をかけておき、向こうでやって行けるのか見極めたところで退学、という方法を取りたいわけです。ダブルで正式に学籍を置くということは、本来は許されていませんが、日本の高校を退学してから移るのは、当然リスクが伴いますので、そこは海外なのでムニョムニョと見ないふりをしつつ、推薦状は相手校に正式な学生となることを前提として書かなくてはなりません。


その辺りも含めての確認と、彼女についてどの位の率直さを持って書いても合格するのか、これはお世話になっているというエージェントの担当者に聞くしかない、と電話をかけてお尋ねしました。「それで大丈夫です。」と言われ、安心して仕上げ、「試験頑張りなさいよ。」と言って渡した覚えがあります。


さて、その後の詳しいことは今になって彼女のブログで知るわけですが、これまで知る限りでは、高校を卒業する時は、「最も成績が向上した学生」として表彰され (学校まで見せに来てくれました)、特技のゴルフも学生生活で活躍する場を作り、日本の学校では理系は諦めろと言われていたのが、留学先ではロボコンに出場したり、大学で海洋気象学を目指したりする事になるわけです。私が知らないところで、どんな努力をしていたのかな、と考えを巡らせるとともに、絶対に自分から努力したとは言わないのもわかっているので、勝手に想像しています。


私はそこまでの活躍を見通していたわけではありません。何分にも、彼女の才能を知るところまでは接点がなかったのですから。それでも何とかなると思えたのは、「人に頼れるオープンさを持つ人は、世界中どこでもやっていける。誰かが必ず味方になってくれるから。」ということと、「自分が本気で目指したら、行きたいところまで行ける。」ということです。


彼女だけではなく、どの生徒にも対しても。「医療の研究で貢献したい。」「芸能人と知り合いたいから広告代理店に勤めたい。」「ミュージカル女優になりたい。」「独りで留学して、ともかく自分の可能性を見つけたい。」「アニメーション映画を作りたい。」「CAになりたい。」「お母さんと同じ看護師になりたい。」「演奏家になりたい。」「デザイナーになりたい。」「小説家になりたい。」 etc., etc.

 

たくさんの夢を聴きながら、本人が本気で目指せば何らかの形や方法で到達できるはず。まずそう信じることが、教師の仕事だと私自身が信じていて、相談して、諦めようとしている人にはいい迷惑でしょうが、「やってみたら出来ることが見えてくるわよ。」としか答えません。子どもの成長を信じることができなかったら、なぜ教育に携わるのだろう。正論のような、その答えを持ち続けるにはとてもエネルギーが要る。だから教師ってタフだな、と感じるし、コーチもそこが一番大事だと思っています。

“Fair is foul, and foul is fair.” 

シェイクスピアのマクベスに登場する、魔女のセリフです。

「いいは悪いで、悪いはいい。」(小田島訳)
  「きれいは穢い、穢いはきれい。」(福田訳)
  「輝く光は深い闇よ、深い闇は、輝く光よ。」(木下訳)

1つの物事には、アンビバレントな側面があることを意味するのにも、よく引用されていますが、シェイクスピアの書くセリフそのものも、解釈が演じる側にも受け取る側にも任されています。マクベスは、魔女の予言を自分に都合のいい方にのみ解釈したものの、それに翻弄される結果となりました。




「不条理劇」「問題劇」と呼ばれる、「ヴェニスの商人」も、あたかも勧善懲悪な風を呈して、モヤモヤが残る芝居です。金を貸して不当な要求をしたシャイロックが、やり込められて大団円で終わるのですが、ユダヤ人の金貸しだからと普段差別されていることへの復讐劇だったとすると、また違った見方が生まれてくることでしょう。シェイクスピアの芝居は、誰もが共感する、人間が持つ欲や心の葛藤を鋭く描いているからこそ、普遍的に愛されているのだと思います。

この心の葛藤は、「自分が正しいと思いたい」というところからも大いに生じています。自分が正しくないのではないかという不安や嫉妬、自分は正しいと証明したいという欲求、そこから「他が間違っている」と断罪する。

ところが、これを続けると、いつか良かれと思ってしたことが裏目に出たり、裏切られた、という瞬間に出会うことがあります。それが「悲劇」を生むことに繋がるのです。

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さて舞台は学校。あなたも登場人物の1人です。あなたにとって、周りはどのように見えていますか。そこから「あなた自身がかけているメガネを通した、世界の見え方」がわかってきます。

自分が受け入れがたい価値観、受け入れがたい人がいたり、出来事が起こります。あなたは自分の思いこみから一生懸命演じていますが、思うように行きません。

人生の舞台において、自分は「欲」とか感情を持つ存在なんだと改めて気づく。「自分ってそうなんだね」としっかり受け止める。そうすると、決められた役柄から脱し、あなたはあなたらしく、人生の舞台の上に立ちながらも、登場人物に共感しながら舞台を観る、観客のような視点が生まれてきます。

To thine own self be true.
自分に誠実であれ。 (「ハムレット」)

人のことを評価ばかりするのに時間をかけるのをやめて、あなた自身の感情と目的に寄り添うのに時間をかけること。かつその自分の果たしたい目的が共同体にも繋がっていることが確認できた時、「裏切りの世界」から抜け出ることができるでしょう。


 
現役教師であった時代、ありとあらゆる仕事をしながら、「私は何をしたいのだろう」といつも自分に問いかけていました。

教師は常にマルチタスクに追われています。だからこそ、「自分の仕事とは何だろうか」とふと立ち止まることもあるかと思います。

私がそれを感じた時に、今からもう7年近く前によく読んでいたのが、西村佳哲さんの「自分の仕事をつくる」という本でした。

ところで「教師」という職業に就いていて、仕事は何をやっているのですか、と聞かれたら、一体どう答えますか。

「◯◯ (教科名)を、何年生に教えています」とか、「何年生の担任をやっています」でしょうか。

もう一歩深く考えてみましょう。あなたの仕事は、何を生み出し、何を変え、何に貢献し、どんな影響を与えているのでしょうか。あなたの人生と、それはどんな関わりがありますか。あなたにとって、仕事とはどんな存在でしょうか。

そして、今やっている「作業」(仕事ではなく)は、あなたの「仕事」とどう関連付けられるのでしょうか。

この前、学校の「働き方改革」で、「仕事を作るな」という言葉を聞いてびっくりしたことがありますが、どうやらよく聞くとこれは、「作業を作るな」ということのようです。本来教師の仕事は、デザイナーに負けず劣らず、クリエイティブな仕事だと私は思っています。

この本、デザインの仕事だから関係ない、と思われる方も、是非一度手にとって見てみてください。ちくま文庫になっています。今思うと、今流行りの「デザイン思考」にも繋がるかと思います。




よく、「何だか楽しそうですよね」と言われることがあります。昔だったら、「いや、私もそれなりに大変でι(´Д`υ)」と返したでしょうが、今はむしろ、そう言われると嬉しくなります。何せ私の人生のテーマは脱力。力が抜けている時ほど、「頑張って」も苦になるわけではないのです。

さて小さい頃から、「我慢しなさい」「我慢が大事」「我慢できない子はダメ」と私達は言われて育ちます。有名な「マシュマロ・テスト」のように、我慢ができ、自制心がある人が成功する実証実験結果を見ると、「我慢できるように訓練しなければ」と思う親や教育者が多いかもしれません。

しかし、このマシュマロ・テストをよく読んで欲しいのです。画期的な理論は、つい単純化されて一人歩きをしてしまう恐れがあります。ちょっと長いですが、引用します。

https://wired.jp/2011/09/15/「我慢できる人」は脳が違う?/

ミシェル氏の研究はさらに、意志力の再定義にもつながった。われわれはふつう、意志力とは、歯を食いしばって誘惑に耐えることだと思いがちだが、ミシェル氏は研究を通して、これは逆だということを明らかにしたのだ。「満足を遅延させる」ことは、「関心を戦略的に配置する」(マシュマロから気をそらす方法を科学的に説明した表現)ことができるかどうかにかかっている。子どもたちの欲求は、克服されたのではなく、そらされ、忘れ去られたのだ。満足を遅延できた子どもは、「自分の意志力が限られたものであることを理解していた。マシュマロのことを考えてどんなにおいしいかと思ったりしたら、それを食べてしまうだろう。まずはそれを考えないようにすることが鍵なのだ」とミシェル氏は語った。
 (同サイトから引用)

これは、ある意味感情のコントロールを意味します。どのように認知し、自ら行動を選択していくかの過程ではないかと思うのです。

振り返って、私達は、もしかしたら子供に、その場その場で単に「我慢を強いて」いないでしょうか。我慢とは、ここで言う、「歯を食いしばって誘惑に耐える」方の我慢です。これは、この研究が定義する「忍耐力」ではない。とすると、本当は認知を変えるような働きかけが必要となるのです。

この「歯を食いしばって」という我慢は、弊害ももたらします。大人で振り返ってみましょう。こういう我慢をしながら働いていると、「私は我慢しているのに」という気持ちを重ねていくことになります。「本当はやりたくない」という気持ちを抑えようとすると、「他が決めたからイヤイヤやっているのだ」という風になります。これは、自分で選択しているのではなく、他の人に強いられてやっている、という認識です。

さて、これが進んでいくと、いつもイライラしながら仕事をすることになります。とてもテキパキ仕事はこなすけれど、眉間にシワが寄ってため息つきながら仕事をしている人はいませんか。「自分は我慢をしているのに!」といわんばかりの人は、見ていても辛そうな感じです。本人も自分でコントロールしている感もなく、実際に辛いと思います。そして周りにもその空気は波及していくのです。

こういう人がカチンとくるのは、「やりたいことだけやっているワガママ(そうに見える)人」です。そういう人を見ると、自分がやりたくないことは人に押し付け、自分はやりたいことだけやる。こんなことは許されてはならぬ‼︎💢 という感じでしょう。自分は沢山仕事を抱えているのに、定時に帰る同僚。自分は気を使ってやっているのに、あの人はしない!と、心の中で糾弾しながら、過ごしています。そう、自分のイライラした感情を、「よしよし」となだめて受け止めることなく、ひたすら相手をジャッジすることに労力を使っているわけです。

では、そんな人の本当の願いはなんでしょう。本当は自分だって我慢したくない、本当はやりたくないことはやりたくない、やりたいことをもっとしたい、というのが本音です。その気持ちに気づいていますか。そしてそれをやらないで、我慢しているのはなぜでしょう。

「私がやるべきだから」
「きまりだから」
「我慢する人が偉いから」

こんな風に我慢をする理由を挙げて、自分を納得させるのではなくて、「やりたいことを叶えるための過程」だと認知を変えてみる。だから、本当にやりたいことに、「我慢しないで」目を向けることが大切なのです。

「そんなのはワガママだって言われるから恥ずかしい」

そう思うかもしれません。でも、本当にしたいことを追求し、「我慢する」ではなくて、あらゆることを、そこに至るまでの「過程だ」と捉えて楽しんで頑張る人には、誰ももう、「ワガママな人だ」とは言わなくなるのです。






新年度から1ヶ月。新たなクラス経営を手がけ始めた方が多いと思います。

1年後のゴールをどうしようか、クラスの特色をどう出そうか、いろいろ悩む方もおられるかもしれません。

今日は、そんな先生方に手にとって頂きたい本があるので、ご紹介します。

岩井俊憲・永藤かおる著 「子どもを勇気づける教師になろう!」

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雑誌「児童心理」に連載された記事が元となっています。

この本で提案されているのは、アドラー心理学ベースの学級の構築。

教師側から見て、1.自己肯定感を高め、2.劣等感を味方につけさせ、3.「共同体感覚」のある集団を育み、4.良好な人間関係を築かせ、5.リーダーシップとフォロワーシップの技術を身につけさせ、6.「勇気づけの連鎖」を起こす、というステップが、順に各章に収められています。

ひとつだけ注意があります。こういう本をノウハウ本として読もうとすると、肝心なことを見落とし、結局うまく行かない、ということがあります。

私が実践して思うに、ここに書かれている順番は飛ばすことはできません。特に第1章は、教師自身の自己肯定感にも触れられていますが、教師が自己肯定感が低いのに、生徒だけ高める、というのは無理なんです。なぜならば、自己肯定感が低いと、自分にも他人にも出来ていないことに目を向けて、それを受け入れられなかったり、ダメ出しをしてしまうか、あるいは逆に自信がなく、生徒に同情(共感ではなく)してしまいがち。

「聖人君子」にならなくていいのです。それよりも、等身大の自分に帰り、生徒と一緒に先生も自分の自己肯定感を上げることにチャレンジすることが大切だと思います。

感情や劣等感などをコントロールすることを経て、信頼も学びます。その先に、アドラー心理学で目指す大切な概念、「共同体感覚」を目指していきます。この「共同体感覚の育成」というゴールが、クラス経営のゴールと重なる一年になって行くようにしてみてはいかがでしょうか。
みなさんは、自分が好きですか。

「自分が大好き、めちゃくちゃ愛している!照れ」という人も、「まだまだ自分が好きだなんて言えないなぁ、あんなことも、こんなこともできないしショボーン」という人もいると思います。

「自分が好き」と堂々と言えない時、頭の中では色々考えています。

「自分が好きだなんて、ナルシスト?いるいる、自分勝手な人のことよね。だからそんなこと言ったら、そういう人だと思われちゃう。えー」とか、

「自分なんてまだまだ。私の理想は、こんなこともできて、あんなこともできる自分。だから今の私は不満なの。プンプン」とか。

こんな風にわたしたちが、「自分が好き」にたどり着けないのは、自分の感情に蓋をしているからです。

「え? いつも素直に感情は感じているつもり。昨日だってあんなに怒ったし、笑ったし。蓋なんかしていないっおーっ!」と思われるかもしれません。

では、その感情が起こった時に考えていることを思い出してみましょう。

「○○だから、私は怒っている」「○○だから、私はイライラしている」

大抵、「○○だから」「○○のせいで」と必ずつけています。

つまり、自分がその感情になる時、「理由を必要としている」のです。裏を返せば、理由がないと、その感情になってはいけない、と思い込んでいます。

これが、「感情に蓋をする」ということです。その感情になるのに、何か理由がなくては許可できない。そう思っているのですね。理由が見つかれば、「○○だから」と理由にフォーカスして、感情は置いてけぼりになります。理由も言いたくないとなれば、感情を感じることを抑えつけ、「いいえ、淡々と何も感じずにやります」と答えるでしょう。

感情の蓋を開くことが怖いと感じるのは、その感情になった時に、他の人にどう思われるかとか、負の感情のスパイラル、「だからダメなんだ」と自分にダメ出しをし続けることになる気がするとか、そういう恐怖があるからです。

そして、その状態を続けると、人や環境をジャッジし続けて、いつまでも自分にOKが出せないまま苦しい思いをします。


では、怖くない感情の蓋の開け方をしましょう。

まずは、「○○だから」を切り離して、感情だけ見ます。「あのダラダラして仕事をしない人を見ると、イライラするε-(‘ヘ´○)┓」だったら、「あのダラダラして仕事をしない人を見ると」を置いておいて、「イライラするε-(‘ヘ´○)┓」だけを感じます。

次に、そのイライラに向かって、「イライラするよね、わかるよ、それでいいよ」と声をかけましょう。イライラ君、イライラちゃんをぎゅっと抱きしめて、「そうだよね、いいんだよ」と声をかける感じです。


2ステップです。

1. 感情の理由は置いておく
2. 出てきた感情に、「そうだよね、いいんだよ」と言って、ハグする。




このステップが、ジャッジを手放して、負のスパイラルから抜け出すきっかけを作ってくれます。


私の母は教師で、母方は明治時代に設立された学校を経営しています。そのため、学校というものを、現場から、また経営側から、母を通して見て育ちました。

さらに私が通った学校で、私のいた学年は、「神武以来の底辺学年」と呼ばれ、先生方からはあまり好かれない学年でした。私達から見ると、少しでもごまかそうとしたり、子供扱いしたり、裏表のある先生だと感じた瞬間、さっさと背を向ける可愛げのない学年だったのです

そんなわけで、教免は持っていたものの、どんなタイプの教師がいるとか、生徒がどんな目で教師を見るかを知っていた私は、そうやすやすと「学校の先生」になる気が起きませんでした。実際、現場に入るとかつての自分と同じく、生徒がいかに教師をよく観察しているかがわかります。

「あの先生は熱心そうだけれど、私達のためじゃなくて自分の名誉のためにやっているよね」とか、「あの先生はああいうタイプが好みで贔屓するんだよね」とか、「あの先生は、いつも威張っているけど、いざという時は逃げるよね」とか、廊下で通りすがりに話しているのが聞こえて来ることもありますガーン

実際、生徒の方が大人なこともあり、わかっていて何も言わずに知らないふりをしてくれていることもあり、気づかない人は気づかないままでいることでしょう。

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結局私は、自分としてどうしても伝えたいことが出来て、また日本はなぜシステマティックな論文の書き方を教えないのかに疑問を持って、教師になると決意したわけですが、そこで一番に立ちはだかった壁が、やはり「自分の在り方」でした。自分が相手をとことん信頼し、相手も自分が信頼できるまで、自分を限りなくオープンにできるのか。教師という立場で、生徒とどこまで対等な存在になれるのか。生徒をジャッジしない、フラットな見方をいかにキープするか。相手に適切な行動を促す時には、どうすればいいのか。

そうして生徒と自分のチャレンジの共同作業で、やっと「自分が伝える」ことばかりでなく、全ての生徒一人ひとりが持つ個性や資質を見出して、引き出すことへと関心を持てるようになっていったと振り返れば思うのです。

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今までの人生で、権力を振りかざさずとも、信頼を勝ち得ている人に多く出会ってきました。

教師とは何だろう。一度全てをリセットして考えたことがあります。専任だから、担任だから、講師だから、部活の顧問だからという立場に甘んじることなく、生徒から人としての尊敬を得るのは、常に楽しんで学んで努力する人、どんな相手にも共感をする人、本当の自尊心をもつ人。勉強は辛くても我慢しなさい、ではなくて、その先生自身が勉強を楽しんでいて、その楽しさを教えてくれる人。経験から押し付けるのではなくて、経験があるから視野を広げてくれる人。

そういう人はいつまでもきっと完璧さを気にするのではなく、単にそこに向かう勇気がある人。

つまり、「聖人君子」で出来上がることが目標なのではなく、むしろユニークな人格を自分で大切にしていて、学ぶことの意味や、自分が生きるということを体現していくことの方なのかもしれない、と今でも思っているのです。

「でも、学校がこうだから」「生徒がこんなだから」「自分だって大変な思いをしているし」といって、何もできないと諦めて、自分をどこかに置き去りにして、周りの状況に自分の生き方を条件任せにし、言い訳で生きる先生と、時には同じようにこぼしつつも、周りの状況がどうであろうと、誰に対してであろうと、諦めないで自分から人を信頼することにチャレンジしつづけることを選択する先生がいます。

それはとてもとても勇気がいること。私も歳を重ねるまで持てなかったその勇気。チャレンジをしたい先生のお手伝いをしています。


個別講座の体験会、及びコーチングをご希望の方は、adlercoach※outlook.com (※を@4に替えて下さい)まで、お問い合わせください。


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男の子を見ていると、いわゆるマウンティングの行動に出ることがあります。…と書いたところで、「マウンティング女子」なるものも話題になっていることに気づきました。以前はこのタイプが面倒で、正直苦手でした。何かと挑発されたり、ことあるごとに説教をされたり、「いかに自分の方が正しいか」とか、「いかに自分の方が優れているか」を滔滔と述べる人、単発ならまだいいのですが、気になるのかしつこくマークされたりすると、これは面倒としか言えません。

さて、「人間関係が面倒だな…」という場面は多々あります。特に教師は人間相手の仕事ですから、人間関係なしに成り立ちません。例えば若い先生は、どこかで「生徒にナメられる。」などというフレーズに直面することがあります。自分で思い込んでいることもあるでしょうし、ベテランの先生から言われることもあるかもしれません。

あるいは、保護者対応が苦手な方もいることでしょう。以前聞いた話では、「あなたにはお子さんがいないからわからないでしょうけれど。」と面と向かって言われた教師もいます。

さて、私が自分で実践してきた中で、自分より上に立とうとする人から学んできたことがあります。

1. 自分の弱みを見せたくなく、大きく見せようとしている。自分の弱みを見せるのが怖い。

2. 自分の価値観が正当である、と認めてもらえないと、自信がなくなる。

3. 人を自分より貶めることで、自分の優位さを保とうとしている。そのため、自分が優位に立つことができる、とても狭い世界に生きることを望んでいる。

4. 感情のコントロールが苦手である。特に自分が触れられたくないところになると、過敏に反応する。

5. 身近な人にこのタイプがいて育った。あるいは身近な人に勇気をくじかれることが多かった。

など。

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さて、ではどう考えたら良いのでしょうか。あえてその人と付き合わなくてよいなら、放っておけばいいのです。でも自分の中でモヤモヤすることがあったり、その人とどうしても関係性を作らなければならない時には、このように考えます。

1. そういう人に会って困っている人は、「ああ、この人は自分の中に課題があってそうするのだな。」と理解して、決して「自分が悪いからナメられる」などとは思わないこと。

2. そういう人は、もっと自分が認められたいから、その行動に出ます。でも、それがうまく行かなくて自分の中の課題に気づき、「変わりたい」、と思えば必ず変わります。でも他の人がダメ出しして変わるのではなく、その状態から変わりたいと思えるような勇気づけによって変わる可能性がある、ということ。

3. そして、そういう人にでも誰にでも、対応するのには「自分も相手も俯瞰する見方や、技術」が必要だ、ということ。人をジャッジする前に、自分のこともよく気づいてみること。

その上で、「あぁ、この人はそうなんだね、そうか、それはそれでOK、私ももちろんOK」と受け止めて、受け流す。そして人間関係に緊張がなくなると、もっと本音で話し合えるようになります。

人間関係は面倒なもの。でも、その面倒さを越えて、世界は広がり続け、自分も大きくなっていくのだと思っています。


「学校生活を楽しく過ごして欲しい。でも勉強は辛いけれどしっかりやらないとね。」

そう考えて指導する人も多いのではないでしょうか。

楽しいこと vs. 勉強

どちらかをやると、どちらかがおろそかになる。

大人だと、

プライベートライフ vs. 仕事

どちらかに偏れば、一方が犠牲になる

二項対立の考え方で言うと、そうなります。
いわゆる、「ライフ・ワーク・バランス」です。

でも、これってなんだろう。
何年か前からモヤモヤしているのは、ライフとワークの時間の取り合いみたいな構図。どこまでをライフといい、どこまでをワークと言っているのか。そもそも対立するものなのか。

それから、バランス、という言葉。このバランスって、何で測るもの?時間の長さなどのデータ?それとも主観的なもの?

というのも、今打ち出されている様々な施策は、まずは時間。仕事の時短は、確かに無意味に長過ぎるものや、到底こなせない分量の作業、そういったものを無くしていくことは大切。でもどんなに「減らして「も、減らすことだけではダメなんです。


例えば買い物に出かけてワクワクする。
旅行に行ってリフレッシュする。
みんなと飲んで、ワイワイ語る。

楽しいことをすればいい、と言われて、それをやっているはずなのに楽しい気持ちが持続しない。

「楽しい」が持続せず、それが終わるとまた、「楽しくない」の日常に戻る。心からワクワクして人生を楽しんでいるかと聞かれた時に、「いやぁ、楽しいこともあるけど、大変なことが殆どですね。」と答える。

こんな時に気づいて欲しいのは、ライフにもワークにも、自分にとって共通の軸があるということ。


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自分の人生の目的、人生で叶えたいことがある。だから、ライフ・ワーク・バランスとは、ワークとライフに共通する軸を見つければ、おのずとバランスが取れてくるものだ、とも言えるのではないでしょうか。

みんながその「軸」が見つかれば、シーソーゲームのような「バランスを取る」という事に終始しなくても済むと思うのです。

生徒との進路面談の例を取りましょう。
生徒が叶えたい夢を、職業名や大学名など、「方法」ではなく「目的」を感情レベルで引き出します。
それから、そこに向かう方法、つまり職業や大学名を挙げてもいいでしょう。
そして、モチベーションが高まったところで、日々の勉強の目標が決まってきます。
こうやって生徒にとってのライフ・ワーク・バランスは、こんな風に導くことができます。
世間を騒がせる、「学校」や「教師」の話題。
そこに付け加えて、自分が受けた教育の経験。

教育を語る人の多くは、もしかしたらそんなふうに、「学校」と「教師」のイメージを持っているかもしれません。

「画一的なことしか教えない教師」
「ルールに従わせようとするだけの学校」
「カリキュラムが悪い」
「教科書がおかしい」
「教師の人格に問題がある」
「教師には働き方改革が必要」

世の中色々騒がしく、おかげで生徒から、「うちの学校はブラックではないですよね。」と聞かれる始末。「教師です」と言うと、憐れみの目で「大変ですねぇ」と必ず言われる今日このごろ。

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会社もそうですが、組織というのは人で出来ています。「会社」とか「学校」とか、入れ物が勝手に何か決めているわけではありません。様々な選択と決定は、その中の人が行っています。

つまり学校は、教師、職員、(私立は経営者。しかし学校法人として公益に従事する)、生徒、保護者、地域の人々で出来ているわけです。

そして、組織の質というのは、その「中の人」で決まります。

今、自分が勤務する学校がどうであれ、もしあなたが「中の人」なら、何をすべきかというと、「自分の能力を発揮すること」、それにつきます。

「うちの学校はブラックだ」などと言っている場合ではなく、どうなったらいいのか、またどうしたいかを考えて、中外とも連携をしていく道を探すのです。困った時は、「困った」、とオープンにして、助けを求めればいい。うまく行かないことを隠しながら、見て見ぬふりをすることからも、何も生まれません。

また押しつぶされそうになって、自分で選択出来ていない。そんな時は、「先に」自分が選択したらどうだろう、と考えてみることも大切です。

問題点の列挙だけではなく。あれだけのことを日々こなしているのです。教師の能力を、自分達で過小評価せずに、もっと生かしていく道を、皆さんと考えていきたいと思っています。