大名行列の秘密 | ただのオタクと思うなよ

大名行列の秘密

安藤 優一郎
日本放送出版協会
発売日:2010-03-06


江戸経済を支えていた意外な仕組みとは

 最近は民主党政権になったからということもあるのか、公共事業を増やして景気をぶり返させるというやり方は減ったようですが、ちょっと前までは「土建国家」などと皮肉を込めた言葉もあるくらい、土木事業がある意味、この国の経済の中心ともいえる状況がありました。

 もちろんエレクトロニクス産業の成長はあったわけですが、すそ野の広がり方から言えば土木・建築事業の与えるものは非常に大きいし、内需を肥やすにはこれが一番だったわけですね。

 でも、そういう仕組みが出来上がったのはやはり戦後になってからでしょう。明治から戦中にかけてのこの国の経済を支えていたものはといえば、繊維やおもちゃといった軽工業や、農村部などの第一次産業が中心でした。そんな細い産業構造の中で、欧米と渡り合う戦争をやろうとしたこと自体、どだい無理があったわけですねえ。なまじ、日清・日露の明治の戦争で、運の良さから勝ってしまったことが、この国から冷静な経済認識を奪っていたのかもしれません。

 では、それより前、つまり江戸時代の経済は何を中心に回っていたのでしょう。実は意外な制度が、この国の経済を動かしていたのです。そのことを詳しく書いたのが、今回取り上げる一冊「大名行列の秘密」です。

 そう、江戸時代の経済を動かしていたのは、あの時代劇などに良く出てくる「下にー下にー」と街道を進む大名行列にあったのです。

 そもそも大名行列とは、3代将軍家光の頃に始まった参勤交代に伴うもの。徳川幕府が各藩の大名に自らの力を示すと同時に、必要以上の蓄財をさせず、有力藩の対抗勢力化をそぐことをねらったのが参勤交代という制度でした。つまり早い話、代々妙に金を使わせることが大きな目的だったわけですね。

 ということは、国元から江戸に向かう(国元に帰る場合も)過程で使われるお金は、途中の街道筋の宿場町に落ちていたわけです。これが、江戸からもっとも遠方にある薩摩藩の場合、国元から江戸藩邸(今の御殿山の当たりですね)まで長いときには18泊19日かかったというのですから、それにかかる数百人規模の宿泊費、食費などを考えるだけでも莫大なものになります。

 それに、何しろ移動手段は基本的に徒歩(薩摩の場合途中まで船を使ったはずですが)。しかも進み方にも独特な作法もあったようで、なかなか前に進まず、大名行列の渋滞、などということもしばしばあったようです。さらに、大井川のような今でいう一級河川の手前では架橋が許されていなかったため、大名行列といえども川越人足のお世話になるわけですが、わざと川の前で足止めさせて、手前の宿場町、西から来る場合なら島田になりますが、ここを潤わそうといったずるがしこい手段も時に取られたようです。

 街道沿いの町というと、宿場町よりも神社仏閣を抱えた門前町の方が賑わっていたようなイメージがありますが、落とされる金の規模からいえば、宿場町、とりわけ江戸により近い東海道の品川、甲州街道の高井戸、北なら浦和、千住の方が羽振りが良かったようです。

 ところが、幕末になり、幕府の威光ががた落ちの状態にになって、参勤の機会が減るとこうした大名行列特需で潤った町はたちまち勢いをなくしていったとか。まさに江戸の経済とは街道とともにあったといえますね。

 しかし、民間経済の泣き笑いはともかく、各藩ともよく、こんな窮屈な参勤交代という制度に200年も耐えていたなというのがこの本を読んでみての率直な感想です。遠路はるばる十何日もかけて江戸を往復し、進化の礼を尽くさなければならない殿様たちに不平はなかったのかと。いや、少なくとも江戸の初期にはそういう考え方の大名は少なくなかったはずです。

 果たしてそれが、日本人の気質なのか、家康や秀忠ら草創期の将軍が築き上げた幕府の威光によるものなのかはわかりませんが、このような「人の移動」という形で経済が回る国の存在は、世界的・歴史的にきわめて珍しい例だったといえるのでしょう。