浅田真央とキム・ヨナとREGZAとLG | ただのオタクと思うなよ

浅田真央とキム・ヨナとREGZAとLG

 ようやくバンクーバーオリンピックが終わり、テレビも普通に戻りました。どうも昔から、オリンピック開催中は現地の時間に生活パターンを引きずられてしまい、どことなく仕事も落ち着かなくなるものです。

 そんなオリンピックで、やっぱり私自身も気になったのはフィギュアスケート女子シングル。べ、別に浅田真央もキム・ヨナもどっちかのファンということはないのですが、どっちがどう勝とうが負けようが、必ず結果が出たあとには“祭り”が発生することは目に見えていまして、それがどんな形ななるかが、私にとっての最大関心事でありました。

 そしてその祭りは、思わぬところへ、いやある意味正攻法なのかも知れませんが、ある現象となって現れました。それが、韓国人らによるこの2日間(正確には30時間くらい?)にわたっての2ちゃんねるサイバー攻撃。しかもタイミングが悪いことに3月1日は1年の中でも特に彼の国の反日感情が高まりやすい“独立運動記念の日”、日本史的には三一運動の日だったために、攻撃力に拍車がかかったようです。

 まあ、この一連の祭りに関しては“大人げない”のひと言でおわり。ただし半端じゃないほどに“大人げない”ことを、彼の国のネチズンたちはさらけ出してしまったということでしょう。それに対して一部の日本人が“復讐”を試みたようですが、この手の連中は日本人と思わないことにすればいいでしょう。

 恥ずかしい連中の話はこれくらいにして、キム・ヨナと浅田真央の競技とジャッジの様子を見て、面白い比喩を書いているサイトがありました。

浅田真央はソニー製でキムヨナがLG電子製なんだなと思ったと同時に日本のメーカーがiPodを作れなかったことを思い出した。

 iPod云々の話はともかく、今の日韓両国のエレクトロニクスメーカーの置かれている立場が、この二人の演技に象徴されているといえる点は我が意を得たり。

 浅田を「ソニー製」というか、「日本の家電業界」としてとらえると、女子として初のトリプルアクセル×2はCELLを積んだ標準小売価格100万円の東芝REGZAであるのに対し、キム・ヨナの突出した技がない中で表現力全般を極限まで磨き上げた演技は、あくまでコストと使い勝手の汎用性を追求した世界標準というべきLGやサムスンの10万円割れの薄型テレビ。

 どちらにも一長一短あって、一見甲乙付けがたいのだけれど、100万円の高級テレビは最終的に購入者が限られ売り上げに限界が見える一方、誰もが買える10万円割れのテレビの購入者は、ある意味無限に現れる。それが世界市場における日韓企業の立場の違いとなって現れていると言っていいでしょう。

 同じように、トリプルアクセルなど大技は1度の演技で出す数が限られ、いくら高得点が出るとはいえ、天井は見えやすい。これに対して全般的な表現力なら、時間の枠内はあっても、組み合わせ次第でいくらでもネタを盛り込むことが可能というわけですね。ショートプログラムで、キム・ヨナがやった一瞬の“指ぱっちん”さえ、0.7ポイントの加点があったというのですから、まさに抜け目のなさが勝利を呼び込んだといえます。

 もちろん、スポーツはビジネスではないのだから、トリプルアクセルや4回転といった極限の大技に挑むことを「無駄」切り捨ててはいけないと、私も思います。国の代表云々というひいき目はなしで見ても。でも、今回のオリンピックは極限より“究極の汎用性”が結果的に勝ったという、現代のビジネスを象徴するような形になったのは確か。それがこの先も続くのか、ジャッジ方法に変更が加わるのかはわかりませんが。

 で、キム・ヨナには引退説も出てると聞きますが、少なくとも浅田に限っては「ソチ」という言葉が繰り返しでていますので、戦いはまだ終わらない。でも、バンクーバーでの演技を失敗なしにやっただけで、他の選手に打ち勝てるなどとは本人も考えていないでしょう。ただ、キム・ヨナが成功させた“汎用性”を組み入れるのかどうかはわかりませんが。

 スケートではその点が難しいところですが、こと、ビジネスに関しては、相手のよいモノを取り入れて自らを強化するのは常道。日本のメーカーもサムスンやLGがなぜ勝っているのかを、下手なプライドをかなぐり捨てて受け入れる必要があると、私は思います。それが“大人げある”日本のとるべき対応です。

 思えば、昭和30~40年代、欧米に追いつかんと必死にやったのは、高級品を扱う相手に対抗して、いかに大衆に向けた究極の汎用品の追求だったはずです。そのたまものがカローラであったりウォークマンだったはず。そう、東京オリンピックのメダルラッシュと重なる日本人の輝いていたあの頃。スポーツもビジネスも、そして個々の日本人も、今こそその輝きを思い返す時期にきているのではないかと、今回のオリンピックを通して思い知ったような気がします。