性への罪悪感は、性的なトラウマがあってどうのこうのーみたいなことを理由にすれば、恐らく自分を一般的だと認識している人たちにしたらとても受け入れやすく、わかりやすいだろうなと思う。
だって自分とは違うってすんなり受け入れられるもんね。
可哀想な世界として位置付けられるから。
でも性への罪悪感はそれに起因するものではない。(もちろんそれもあるが、それは理由のひとつであって、原因ではない。むしろ派生したもの)
性を受け入れて開いて!恐れないで!
という言葉かけで開く人は多分、罪悪感そない持ってない。健全な自己愛を持った上での背中押し。
罪悪感と自己愛のバランスがいい人なんだと思う。
罪悪感が幅をきかせて、わずかにも自己愛を持とうとする自分すら罰して攻撃してしまうような性への罪悪感のある場合、それは愛着獲得期や反抗期などに育まれなかったものが原因だ。
親を乗り越えられないのに、ていうか、乗り越えたら傷つけてしまう、嫌いたくない、あんなんでも育ててくれた、ありがたい存在なんだ、という表層意識の下に巧妙に隠した、「親に嫌われたくない、嫌いたくない」という
本能。
その下に日の目を見ることがないように頑丈に蓋をして鍵がかけられた
「受けとるばかりで、ちっとも受けとらず、絶望的な見当違いしかしないまま恩を着せ続ける親への怒り」という潜在意識下に埋めた本当の気持ち。
パンドラの箱みたいなもんで、全部取っ払ったその一番奥には「お母さん大好き」があるんだろうけどね。
ここに書いたメカニズム、システムは恐らく本能だ。
国民性や文化の違いで多少の差異はあれど、人種問わず起きることと思う。
つまりそのパンドラの箱を開けることでしか性の罪悪感は減少しないのではないか?という意見を持つ。
表層意識を言葉で変えてどうにかなる気がしないのだ。
性に飛び込むのは、段階としてやはり親を通る反抗期の段階を経て次に進めるのではないか。
わざわざ反抗しては愛して!なんてのをいちいち一定期間受け止めてもらうようなしちめんどくさい、やっぱり親でなければできひん作業を超えて、その先に親との関係で一番タブーであるはずの性に飛び込むことができるんやないか。
私はそう分析する。
この愛着と反抗期という視点を得た今、数々の事象が立体的に見えてきた。
ここに絡むとするなら、扱いはより慎重にしなきゃだね。
鎮痛か根治か、みたいなことだよ。