【経済的自立】自由な私たちの自由の行き先 | 52歳で実践アーリーリタイア

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52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

経済的自立をするにあたっての最初の問い

 

自分が本当にやりたいことって何だろう

 

については、4年前に哲学的観点から考えてみたことがありますので、その焼き直しとして以下、紹介します(以下4年前のブログ)。

 

 

私たち日本や欧米などの先進国の国民は、国際政治でよく使用される概念「普遍的価値(※)」を共通の価値観として共有しています。

※普遍的価値
外務省のHPによれば、普遍的価値とは「自由、民主主義、基本的人権、 法の支配、市場経済」のこと。

はてさて自由な私たち個人の「自由の行き先」について、哲学者竹田青嗣の「人間の未来ーヘーゲル哲学と現代資本主義」をベースに考えてみました。

 

⒈自由を支える社会基盤「普遍的価値」

西洋では、近代社会以前はキリスト教の価値観によって社会が形成されてきたが、近代西洋社会は「近代哲学」という新しい世界観の誕生によって、新しい意味と価値の世界を生み出しました。

 

近代社会では「個人の自由の追求と社会全体の福祉の実現との調和」の状態を「良きこと」として定義。

 

つまり、人は個別的な共同体の枠内でその固定的役割と習俗的ルールによって生きるのではなく「自由の相互承認」を基礎にした社会の普遍的な関係の中で生き、このことを通して自立した個人=近代精神となります。

 

これが私たちが共有する普遍的価値となる。近代哲学は、政治的には、

個人の自由と権利を認めた上で、個々人間の調整機能と暴力の制御を目的とする近代国家の概念を生み出します

 

一方で経済的には「自由市場経済システム」を生み出す。

 

これは人々の自由への欲望を根本動機とする「歴史上はじめて現れた持続的な拡大再生産を可能にする経済システム(=資本主義)」で、自由な市場における普遍交換・普遍分業によって富を持続的に増大していくしくみ。

 

このような環境で、私たち個人は、自由を享受する。

⒉個人の自由の行き先

こうやって獲得した「自由」の本質とは何か? ここからが「(自由な)個人の自由の行き先」となる。

 

自由とは、自己自身たろうとする「力」ですが人間においてはそれは「自己価値」、つまり自分が価値ある人間でいたい、という自分の欲望。

 

人間関係から逃れられない人間にとって自己価値」を求める自分の欲望は、必ず「他者の承認」を渇望してしまいます。

 

つまりヘーゲルによれば、自己満だけでは人間は満足できなくて、必ず承認欲求が必要だというのです。

 

「人間が自由を求める」ということは、単にある欲望の可能性を求めるという自律的な存在になることではなく、本質的に人間関係の中で自己価値の承認を獲得しようとする営みにならざるを得ません。

近代市民社会は、自由を獲得したことによって、自己価値の欲望の相克の関係として現れる

つまりゴールの定まらない自己欲望の自由の営み(竹田青嗣は「自己欲望のゲーム」と表現)となるのです。

 

具体的な「自己欲望の自由のゲーム」とは、


ロマン追求のゲーム=恋愛ゲーム、サクセスゲーム(金銭ゲーム、権力ゲーム、出世ゲーム)
正義のゲーム(革命や政治的信条)
真理のゲーム(自然科学、社会科学などの学問)
絶対本質へと向かうゲーム(芸術ゲーム、宗教ゲーム)

 

ですが、このゲームをプレイすることによって欲望が満たせられる人は、たぶん2割ぐらいだといいます。ちなみに私の場合は「真理のゲーム」をプレイするために早期退職した、ということか。

 

残り8割の人は挫折してゲームから降り、もっと狭い範囲の具体的な人間関係の中で承認欲求を満たす方向性に向かいます。

別途個人的には、承認欲求とは離れた「達成のゲーム」みたいなものもあっていいのではと思っています。フルマラソン完走だとか資格試験の合格だとか日本一周だとか、そのこと自身をやり遂げることの個人的満足感(=達成のゲーム)はあるのかなとは思います。

*もちろん人から評価されたり褒めて貰えばなおさら嬉しいわけですが、「達成のゲーム」を露骨に他人に披露すると人から嫌われる場合もあり。

ヘーゲルの提言する「もっと狭い範囲のゲーム」では、誰をも排除しないフェアで、もっと身近な人間相互の承認ゲームであって、個人の自由の表現としての作品(=真の表現的作品、営み)を互いに相互承認するような営み

 

それは、家族同士だとか、友達同士だとか、それぞれの個別の人間関係の中で成立していればよい。そんな大袈裟なものでもありません(私の解釈では)。

 

つまりそれぞれの人間関係の中で共有できるものをアウトプットしあって、お互いに相互承認していくような開かれた営みが人間にとっての自由の行き場ではないかということです。

 

単純な出世だとか、お金を稼いだとか、運動会で1等賞をとっただとか、いわゆる「富と名誉」とは別の、もっと多様でバラエティー豊かな、その人なりのゲームをプレイすれば良い、ということ。

 

ハンナ・アレントの「公共のテーブル」やカール・マルクスの「真の自由の国」も、おおよそは、このヘーゲルの「自由の行き場」の考え方に似ている部分もあるらしい。

 

現代に生きる哲学者岩内章太郎によれば「関係性の充足」。

 

関係性の充足とは、互いがあるがままに認められる空間を作り出すこと。岩内によれば、存在の肯定空間を支えるのは、特別な個性、能力、才能ではない、といいます。

過去のある時点から現在に至るまでの時間的共在関係と、共に世界に在ることを通した関係性の時熱が、互いの存在を無条件に受け入れることを可能にする。自己価値の承認ではなく、自己存在の是認。

『普遍性を作る哲学』岩内章太郎著282−284頁

ということだから、ある程度仲の良い信頼関係を育んだ人間関係が、お互いを認め合うような関係。そんな関係を家族だとか友人だとか、仕事仲間の間で作ることではないか、と思います。

 

その媒介機能としての現実的な「自由の行き先」は、法が許す限り何でもよい。平凡な家族との生活でもいいし、推し活でもいいし仕事でもいいし、趣味に興じるのでも良い。

 

以上、次回は、仕事を辞める辞めないに関わらず、経済的自立の第一歩「年間支出をみえる化」を紹介します。