僕は当時、二か月に一度は愛知県にある実家に帰っていた。

僕だけでなく寮生のみんなそれぐらいのペースで地元に帰っていた。

それは会社が毎月申請すれば新幹線の往復の代金を払ってくれたからだった。

これはいい制度だと思った。

だいたいは高校時代や大学時代の友達に会って遊んだり、食べたり、飲んだりする為だった。


その日はゴールデンウィークの連休で実家に帰っていた。

前日に友人と酒を飲んで、昼近くに起きて新聞を読んでいた。

今の会社を辞めて実家に近い会社を見つけたいと思っていた僕は、新聞のある求人広告に目が釘付けになった。

それは実家の近くにあるそこそこ大きい食品会社の求人だった。


これだ!


地元に帰って就職したいが、大阪にいては求人情報も少ない。これは千載一遇のチャンスなんじゃないか。

今日の夜には大阪に帰らなくてはならない。

直ちに行動しなくては。


すぐにその会社に電話した。

こちらの事情を話すと、一時間後に面接するから来て欲しいという事だった。

慌てて履歴書を書いて、スーツを着て出掛けた。

両親は外出していて夜にならないと帰らない。


担当者は40代ぐらいの眼鏡をかけた真面目そうな人だった。

健康食品のブームに乗ってその会社の食品がとても売れていて人手が足らなくなった、という事だった。

求人は食品工場の製造員で交代勤務があって、正社員の採用だという。

給料は新卒者と同じ額は出すという事だった。

悪い話ではないと思った。


ただ先方は、もし採用になったら少しでも早く来て欲しいというのが一つの条件だった。

僕からのお願いは、夜には大阪に帰らなくてはいけないので、今日中に合否の連絡が欲しいとお願いした。

面接される身でありながらなんとも厚かましいお願いだった。


家に帰って二時間後、電話があった。


「採用したい、できれば二週間後ぐらいには出社して欲しい。」と言われた。


やった!

でも、あまりにも急過ぎた。


まだ両親にも相談してない。

いまの会社にだってちゃんと筋を通したい。

できれば8月の初めからにして欲しいと言ったのだが、とにかく人が足らないから6月の早い時期に来て欲しいと言う事だった。


混乱していた。

まさか手探りの会社面接でいきなり採用が決まるとは思わなかった。

夕方には家を出て大阪に帰らなくてはならない。

出掛けている両親とはすれ違いだ。

僕は慌てて今日あった事を手紙に書いて両親あてに残した。

いくらなんでもここまで一人で勝手に決めていいものだろうか?

お前は焦りすぎているんじゃないのか?

帰りの電車の中でそんなことを何度も自問自答していた。

会社の寮に着くとまず家に電話した。

父は驚いていたがなんとか納得してくれた。


まず、親は納得してくれた。

後はどうすればいい?


寮には小野田さんと新入社員の柴田君がいた。

小野田さんに誘われて「樹海」に飲みに行った。

柴田君は目立ちたがりの積極的な面白いやつだった。

3人でカラオケを歌ってはしゃいだものの、僕の心はこれからどうしたらいいか揺れ動いていた。

僕は「大阪で生まれた女」を歌った。

いままであまり歌わなかった曲だったけど、

もしかすると近いうちに大阪を離れる事になるかもしれない、そう思って自分に言い聞かせるつもりで歌った。

二人はそんな気持ちも知らずに、

「いよ!名調子!」

と笑顔で拍手をくれた。


1時頃に寮に帰って、

寝る間際に小野田さんを呼び止めた。

ドキドキしていた。


「実は僕、会社を辞めようと思ってるんです。」

やっとの思いで、胸の中の異物を吐き出した気持ちで言った。


小野田さんは、「えっ!」というような驚いた顔をした。


だが、しばらく考えて、

「もう一度よく考えたほうがいいよ。それから自分の思うようにした方がいいよ」

と言ってくれた。

僕はただ頷いて頭を下げた。


布団に入っても僕の胸のドキドキは止まらなかった。

どうするんだよ!お前は!







その頃僕は、

仕事を辞めたいと思っていた。


辞めたい理由はいろいろあった。
小売店を回る営業にやり甲斐を感じることができないとか、
自分の性格がいまの仕事に向かないとか、

自分は長男で、いずれは両親の面倒を見ないといけないのに、この仕事は北海道から九州までの営業所にいつ転勤になるか分からないとか、

だった。


だったら、初めからうちの会社なんか受けなければ良かったのだが、

沢山の会社を回ってこの会社を選んだのは、この会社に魅力を感じたからだった。


こうした事は全く予想していなかった訳ではなかった。

むしろ自分にとっては冒険だと分かっていたのだが、自分の中の弱さを変えたいと思ってこの仕事を選んだのだった。


だが、それは理想論で、

精神的に僕は限界を感じていた。


先輩達に仕事の悩みは相談できたが、辞めたいとは言えなかった。


この頃は4人で飲みに行くことはあまりなく、中井さんと二人で飲みに行く事が多かった。


ある時、中井さんとダンボに行った時に、


「あんたと飲みに行くと、心が落ち着ける。いろんなところで知り合った人と飲みに行ったけど、本当に心が落ち着ける人は10人いても、せいぜい2〜3人だ。でも、あんたは別よ。オレはあんたのいいところを分かっているけど、みんなはまだ知らない。そこはあんたが努力せにゃいかん。だから、頑張りなさい。」
と言われた。


自分の尊敬する先輩にそう言われた事は嬉しかった。

「ありがとうございます。頑張ります。」

「あんたは、他の人よりもっと大きくなれる人や。」

中井さんは笑ってそう言った。

中井さんは4月に結婚する事が決まっていた。
お相手は大学時代から付き合っていた人だった。
結婚するという事は、

中井さんが寮から出ていくという事だった。
つまり、これまでのようにしょっちゅう飲みに行けなくなる、という事だ。


ケイちゃんも言っていた、

「もうすぐ中井さんも結婚するやんか。そうしたら、今までみたいにみんなでワイワイ遊ぶこともできんようになるやんか。私もそろそろ結婚を考えたいし、せやから去年は本当に自分のやりたい事をいっぱいやってきたんや。ボーリングにしても、ゴルフにしても、今までやった事なかったのに、やりたいようにやってきたんや。でも、これからはそうはいかん。」


楽しい時間は長くは続かない。

そろそろ、いろんなものが変わろうとしていた。


2月の終わり頃に、

久しぶりに中井さん、小野田さん、細井さん、それに会社のナオミちゃんとケイちゃんのマンションで食事会があった。

ケイちゃんの友達のエイコちゃんも来ていて賑やかだった。

ケイちゃんが張り切っていて、中井さんの結婚のお祝いをして笑顔の溢れる宴会になった。


珍しくケイちゃんはハイペースで飲んでベロベロに酔っ払ってしまった。


「オマケちゃん、飲んでるか?」


「うん、飲んでるよ。」


「そっか、ならいい。オマケちゃんはうちのダーリンや。今日からダーリンって呼んでええか?」


「えっ、ダーリン?」


みんながそれを聞いて笑った。



「いいよ。僕はケイちゃんのダーリンな。」


「うふふ、私のダーリン。ダーリンもっと飲んで。」


「わかった。じゃあ、もう一杯。」



こんなに酔っ払ったケイちゃんを見るのは初めてだった。

ビール、日本酒、ウイスキーをずいぶん飲んで、僕も酔っ払ってしまった。



「今日は楽しかった。みんなハッピーになろうな。みんなハッピーになろうな。」


ケイちゃんが最後にそう言って宴会は終わった。


みんなでワイワイ楽しく騒いだ季節はそろそろ終わりに近づいていた。


そんな予感を感じていたせいか、いつも以上に飲んでふらつきながら寮に帰った。

一度は布団に入ったが、気持ち悪くて夜中に目を覚ました。

たまらず起き上がるとにトイレに行ってゲーゲー吐いた。

頭がガンガンしながら布団にくるまって無理矢理寝た。








季節は巡り冬になった。


出張から大阪に帰るとケイちゃんのいる「ダンボ」や「樹海」を交互に行くような感じに変わっていた。

「ダンボ」の行き帰りはタクシーを使って行った。

いつも4人ではなく、僕と中井さん、僕と小野田さんという組み合わせが多くなった。

「ダンボ」はケイちゃんの他にもう一人若い女の子と陽気なマスターがいた。

繁華街に店を出すだけあって、マスターの会話は洗練されていて盛り上げ上手だった。


1月の終わりに小野田さんと「ダンボ」に行った時に小野田さんが

「寮の中が寒くって、電気ストーブを買おうと思ってるんだ。」

というので、ケイちゃんが、

「ほんなら、家に使ってない電気ストーブがあるから貸してあげようか?」

と言うので、店が終わるまで飲んで一緒に帰る事にした。


小野田さんはずいぶんと酔っていて、ケイちゃんのマンションに行って少し喋ってるうちに寝てしまった。


「ええやんか、少し寝たら起きるで。」


「ごめんね。すぐ帰るつもりだったのに。」



なんだかんだ話すうちに、

「今までジブン(僕のこと)がおらへんかった時に、他のメンバーが飲みに来てくれたり、遊びに来てくれたんや。でも、そんな時に、何か足りんな、何か足りんな、と思ってたんや。それでな、ジブンがおらへんからや、って気がついたんや。ジブンは特別騒ぐ訳でもないし、大声をだす訳でもないんやけど、そこに居るだけでホッとするんや。だからな、それに気がついてからは、いつもオマケ早よ帰ってきいへんかな、早よ帰ってきいへんかな、っていつも思ってたんや。」


思いがけない言葉に驚いてしまった。

「ありがとう。そんな事言われた事がないからビックリした。でも、本当にそうかな。」


「ジブン達のメンバーはわたしも色んな人達と話してきたけど、一番いいメンバーだと思ってるんや。四人それぞれの持ち味は全部違うやんか。でもみんなで一つになってるんや。オマケちゃんもその中でええ味を持ってるんや。以前、中井さんと話してる時に私言ったんや、[オマケは絶対にいいもんを持っている。ただ、あの子自身まだまだ自分の持ち味を分かってないし、伸ばし切ってない。だから中井さんはオマケのそんないいところを引き出してやらにゃあかんのや。もしかするとそれは中井さんより上に行くもんかもしれん。それだけのものがあるんや。だから、それを引き出すまで、時には鬱陶しく思われても、嫌がられても、引っ張り出してあげなあかん。]そう言ったんや。中井さんも、[僕もそう思ってる。]って言ってたわ。」


「そんなの褒めすぎだよー。僕のどこがそんなにいいの?」


「第一にジブンは人を不愉快にさせへんのや。それは凄く大切な事なんや。まあ、うまいこと言えへんけど、わたしは絶対そう思ってる。」


心の底から驚いた。

彼女はただ陽気に騒いでいた訳じゃなかった。

一人一人の人間の中身をしっかり観察していたんだ。

それにしても、自分はそんなに立派な人間ではない。

不愉快な事を言われたら頭にくるし、怠け者だし、頭が固い。

でも、こんな風に自分を励ましてくれた人は初めてだった。

不思議に頭の中のモヤモヤがスッと消えていくような気持ちになった。


ありがとう。

ケイちゃん、君は大切な親友だ。



小野田さんは相変わらずイビキをかいて寝ている。


それからケイちゃんはいろんな話しをしてくれた。


「ダンボ」での悩み、

なんで「樹海」から「ダンボ」に店をかわったのか、

30歳ぐらいの男の人から交際を申し込まれて悩んでいる事、

若尾文子に似た叔母さんの話…。


彼女は心の中にある全てを打ち明けてくれたような気がした。

胸を打たれた…。


いろんな話しを結局朝の6時までしていた。




小野田さんが突然ムックリと起き上がった。


「ごめん、知らん間に寝てた。帰るわ。」


ケイちゃんはニッコリ笑って僕らを見送ってくれた。

僕も笑って手を振って返した。


清々しい気持ちの朝だった。