昨年の福島第1原発事故後世論は脱原発か原発維持かで割れている。中にはすぐさま国内全ての原発を廃炉にすべしという意見から、無条件で原発を推進すべしという意見もあり今後も原発の是非を巡って論争が続くであろう。


ただ、原発維持を唱える意見の中でどうも賛同できない主張がある。それは「原発は核兵器に転用可能であり原発を保有することが潜在的な核抑止力になるから原発を止めるべきではない」という主張だ。


特に保守壇論の中でそのような主張が多く、長谷川三千子氏は「核兵器への転用を含む原子力技術は日本が今後も世界に伍してやってゆくために不可欠 」と言い、元航空幕僚長の田母神俊雄氏も「反原発は我が国の核武装を封じようとする反核運動でもある」と言って原発の維持を主張する。


また、政界きっての防衛通であり安全保障に詳しい石破茂氏も「核の潜在的抑止力を持ち続けるためにも、原発を止めるべきではない」と言っている。


このように原発の技術が核兵器に転用可能であると言う理由で原発維持を唱える声は今も多い。


しかしこのような原発が潜在的な核抑止力になるということは幻想にすぎない。なぜなら日本の原子力政策は核拡散防止条約(NPT)に完全に従うことによって成り立っているからである。


NPT体制下では日本の原発や核燃料の再処理施設は国際原子力機関(IAEA)の厳重なる監視下におかれており日本が原発の技術や核燃料を核兵器に転用することは不可能なのだ。もし、日本が核開発に乗り出そうとすれば協定により日本への核燃料の供給が停止される。


すなわち、NPT体制下で日本は「絶対に核武装をしませんから発電だけをします」という条件付きで原発を推進できるのだ。言いかえれば核武装の放棄を条件に原発で発電をさせてもらっていることになるのである。


NPT体制やIAEAの監視網がそもそも核武装国をこれ以上増やさず国連常任理事国の5大国のみで核を独占するという極めて政治的な色が強いことをみてもそれは明らかである。


日本が核開発に乗り出すことによって核燃料の供給がストップするのであれば電力供給が止まる。つまり日本が原発に電力供給を依存し原発を推進する限り日本は絶対に核武装できないのだ。


したがって保守壇論によくみられるように「原発を持っていればいつでも核武装は可能であり、原発を手放してはならない」という主張は幻想に過ぎないことが分かる。


つまり日本が今後も原発を推進するのであればそれは、日本は永久にNPT体制の制約を受け5大国に従属するしかなくなるのである。


日本が核武装しようとして核燃料供給が止められれば核武装を断念せざるを得なくなり、アメリカに追従するしかなくなる。つまり我が国の生殺与奪をアメリカを始めとする5大国に握られることになる。それは原発への依存度が高ければ高いほど5大国のコントロール下に入ることを意味する。


その点を考えれば「原発は資源の無い日本において自主的なエネルギー供給源である」という主張も的を射ていないことになる。NPT体制に原発政策が束縛されるから、とても自主的なエネルギーとは言えない。


だから原発を推進する限り日本は永久に真の独立を達成することは出来ない。原発を核抑止力にすべきだから今後も推進しろという保守派の意見は逆に言えばアメリカへの従属度を高めろと言っているようなものなのだ。


この手の盲点を日本の政界きっての防衛通の石破茂氏までもが理解していないのはなんとも残念なことだ。また石破氏は原発を持つこと自体が「日本はその気になればいつでも核武装できる」というメッセージになり潜在的抑止力になると言っているが、上記で述べたように核兵器転用は物理的に不可能だし、その程度の中途半端な覚悟ではとても潜在的抑止力にはなるまい。


自分は日本が核武装することは賛成であり、核武装をどう進めるべきかを具体的に検討するべきであると考えている。その上で障壁になるのが電力供給を原発に依存しそれが結果的にNPT体制に束縛されることになるということである。


だから将来的に原発を無くした上でNPT体制から脱退して核武装を行うべきだと思う。つまり脱原発と核武装をセットで行うべきなのだ。


福島第1原発事故後、保守派では西尾幹二氏や藤井厳喜氏、小林よしのり氏なども脱原発をした上で核武装を行うべきだと主張するようになった。


特に核武装が日本に必要だと思っている人には西尾幹二氏や藤井厳喜氏の主張にしっかりと耳を傾けてほしい。決して脱原発と核武装は矛盾しない。


しつこいようだが、日本が原発を維持・推進する限り核武装は不可能だし、永久に5大国に従属することになる。今こそ原発が潜在的な核抑止力になるという幻想と決別し、エネルギーの自立と核武装による5大国のコントロールから脱却し真の独立を達成することを真剣に検討すべきであろう。