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プライベートでのいつもをメモしていく日誌


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この後、高浜虚子に勧められ、衰弱した神経を改善するため漱石は「吾輩は猫である」を執筆します。これが夏目漱石の処女作となりました。そして、正岡子規門下の会である「山会」で作品が発表されたところ、とても好評だったと言います。1905年1月、「ホトトギス」に読み切りとして一回掲載されますが、好評だったので続編を執筆することになります。このあたりから夏目漱石は、作家としての自分をより意識し、作家として生きることを熱望します。そして、「倫敦塔」や「坊ちゃん」など、続けて素晴らしい作品を発表しました。これによって、夏目漱石は人気作家としての有名になっていきます。漱石の作品は「余裕派」と呼ばれていました。それは、せわしい世俗を忘れて、生きることをゆったりと眺める低徊趣味的要素が強い作品で、そのころ主流であった自然主義の作品とは全く違っていたからです。1906年、当時、夏目漱石の自宅には、小宮豊隆氏や鈴木三重吉氏、そして森田草平氏たちが頻繁に出入りしていました。鈴木氏が面会日を毎週木曜日と決めたことが、後の「木曜会」の元となっています。この門下には、野上弥生子や、内田百?、芥川龍之介、久米正雄などの小説家がいます。また学者では、阿部次郎や、寺田寅彦、また、安倍能成などもいました。そして、ついに1907年2月、夏目漱石は、勤めていたすべての講師職務を辞めて、池辺三山氏に頼まれ、朝日新聞社に入社したのでした。こうして本格的に作家の道を歩むことになりました。

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