i am aki-nyam. ( art + science + life.... )-nawakohei_from

観てきてから1週間。
画像をTumblrの方にあげました。→ [ i am akinyam. ]

感想などはあとから…。なかなかまとまらなくてw

(9/21 記)

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ということで。

名和さんが何を思ってこの作品を…とかは、今更言うことでもなくて、
彼が「表皮」「Pixcell」と学生の頃からずっと表明していたコンセプトの極みだな、と。
どんな流れなのかは、作品集『SYNTHESIS』でご本人がきちんと書いてらっしゃる:)
あいちトリエンナーレ公式ガイドブックの名和さんのページには、
2003年のPixcell-Whiteの写真が掲載されていて、私はこれの実物は見ていないけど、
あの作品は「水と界面活性剤」で、今回の「Foam」はその進化形ですよ、
というのがちゃんと示されているのだよね。

「ループ/循環」。名和さん自身が語っていた制作の動き。
でも同じところを回っているのではなくて、横から見ると螺旋階段のように昇っていってる。

「流体は流体のままに」、「素材が自主的に振る舞うこと許す」。
Liqidが枠を必要としなくなり、水は絶えず変化するのにそのものとして存在し続ける川のような作品。
だけども泡はゆっくりと消滅していく。作品を何周かするわずかのうちにさえ、
さっきはあった泡のドームが無くなっているのに気づく。
今まさに生まれ出た粒(cell)と、今まさに消えようとしている粒(cell)。
わずかな風に切り離されて、小さな小さな粒(cell)が目の前を浮遊していく。

あの泡を手にとったとしても、たぶんすぐに、ただの洗剤の液体になるだけ。
幻みたいに意味もコンセプトも形も消え去ると思うと、あのスケールで存在しながら、
まるで実体が無いかのようだ。 (…っていうか無いのよね)
前にも書いたけど、名和さんの作品を見たときの、感覚の奥底が揺すぶられる感じは、
自然を見たときに感じるものによく似ている。
あれだけ感情や物語を排した作品なのになぜ?というその感覚は、
こちらの情動とは切り離された現象である自然に圧倒された時のあの感じに似るのだ。

「中性洗剤とグリセリン」
名和さんは「時間」をコントロールした。生まれて消えるまでの時間を。
行ってみたけど泡しかなかったという感想があったけど(笑)、
泡があの大きさ高さでキープされているのことに何の不思議も感じなかったんだろうな。
たまに起こる風でゆらりと揺れるときがあったけれど、あの塊のままで動く様は驚くよ。
ちょっと怖いと感じるくらいに。(※作品に故意に息を吹きかけたりすることは禁止)
DIRECTIONも、斜線があるだけとしか見えないかもしれないけど、
キャンバスを歪みもなくまっすぐ均一に絵の具を落とすには粘度をかなり調整しないと難しい。

9月29日にあいトリのパブリックプログラム、スポットライトに登場して、
「Foam」についてのレクチャーをするそう。
ライブ中継は無いみたいだけど、1週間くらいするとアーカイブが公開されるはずなので楽しみ:)
きっとまたおもしろいお話が聴けることでしょう。

※追記:ライブ中継あり。14:00スタート→ aichitriennale-ch2


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