来月2月10日(土)、NPO法人高島藤樹会の主催で、

『真の「代表的日本人」中江藤樹に学ぶ』

と題して講演をさせて頂きます。

会場は、滋賀県高島市安曇川町ふじのきホール。

 

 

 
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◆勝田銀次郎は、陽明学を奉じるキリスト教徒の本田庸一の影響を受けた

 11月30日に放映された
「アンビリバボー、歴史に埋もれた実話 800人を救った日本人」
 で紹介された感動的な実話は、以前からある程度のことは知ってはいましたが、番組の最後の最後になって、このエピソードを発掘したのが、誰あろう、かつて親しくさせて頂いこことのある書道家・北室南苑(きたむろ・なんえん)さんだったという事実には、正直驚かされました。
 北室さんは、以前、昭和の陽明学者で、北大路魯山人の師でありパトロンでもあった細野燕台(ほその・えんだい)についての著書
『雅遊人 細野燕台―魯山人を世に出した文人の生涯』(里文出版)
 を世に問われ、忘れ去られつつあった細野燕台をよみがえらせるという、素晴らしい業績を残してくださった方でもあります。
 この『雅遊人 細野燕台―魯山人を世に出した文人の生涯』をきっかけに、私と北室さんとの交友が始まったのでした。
 折も折、1997年8月11~13日に開催された「国際陽明学京都会議」(主催・将来世代総合研究所)へ北室さんにご出講頂き、細野燕台について話をして頂く事が出来たことは、忘れられない思い出となっています。
 北室さんは、本年春に
『陽明丸と800人の子供たち』(並木書房)
 を刊行され、ベストセラーとなり、大変ご多用中のようです。

 前置きはこれぐらいにして、「アンビリバボー、歴史に埋もれた実話 800人を救った日本人」についてです。
 今から100年ほど前、ロシア革命後の混乱期に800人の子供難民を救った日本の船がありました。その船名を
「陽明丸」
 といいます。
 この「陽明丸」の持ち主が神戸の船会社の勝田銀次郎、陽明丸の船長という危険な任務を任せられたのが茅原基治(かやはら・もとじ)でした。
 陽明丸という船名が陽明学と無関係であろうはずがない、そう確信して、私なりにいろいろ調べてみました。今回は、その第一弾です。

 勝田銀次郎(かつた・ぎんじろう。1873~1952.享年79歳)は、明治24(1991)年、18歳のとき、たまたま東京英和学校(現・青山学院大学)の本多庸一(ほんだ・よういつ。よういちも可)院長と出会って影響を受け、同校に入学したとありますが、本田庸一と言えば、キリスト教徒であると同時に陽明学を奉じていた事でも知られる人物でした。

 そして、我が国の明治30年頃から昭和初期までの約35年余の間は、幕末維新期を上回る未曽有の陽明学ブームの時期で、中国人留学生たちを含む向学心旺盛な若者たちの多くは陽明学の影響を受けていたのです。

◆「いつしか朱子学に飽き足らなくなって、陽明学を研究するようになった。すなわち、王陽明の『伝習録』『陽明文集』や、日本の陽明学派の中江藤樹の著書、熊沢蕃山の『集義和書』『集義外書』などを読んで、思想も大きく変化した」

 本田庸一についてです。
 本多庸一(1849~1912)は、新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造、本間俊平(ほんま・しゅんぺい)と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる人物です。
 庸一だけではなく、内村鑑三も新渡戸稲造も、やはり陽明学に傾倒していたことで知られています。
 弘前藩の上級武士(300石)の家に生まれ、5歳から父に就いて『孝経』を、7歳頃から弘前藩の藩校・稽古館(けいこかん)の典句(教師)・工藤儀郎に師事して、『大学』『中庸』『論語』『孟子』『礼記』等の素読を学び、10歳頃までにはマスターしたといいます。

 10歳で藩校稽古館に入学し、『易経』の素読を学び、櫛引錯斎(くしびき・さくさい)に師事、深く傾倒して朱子学を学びました。
 さらには剣術・馬術・砲術・槍術を学び、16歳頃から、山鹿流の兵法、陽明学、蘭学、英学に興味を持つようになり、研究し学んでいます。後述しますが、中でも、特に陽明学の影響を強く受けています。
 そのあたりのことは、岡田哲蔵『本多庸一伝』にこうあります。読みやすくするために書名には『』を付け、「、」を増やしました。

「其学問は、もと経書学、即ち徳川時代の正統派といふべき朱子学派の説であつた。稽古館には、経学者・櫛引錯斎儀三郎(くしびき・さくさい・ぎさぶろう)ありて、教授であつたが、徳蔵(庸一)は之を敬慕し、毎朝特に其宅に通ひ教を受けた。
 然るに、いつしか朱子学に飽き足らずなりて、陽明学を研究するに至つた。即ち、王陽明の『伝習録』『陽明文集』や、日本の陽明学派なる中江藤樹の著書、熊沢蕃山の『集義和書』『集義外書』等を見て思想も変動した。
而して、更に蘭学を医士佐々木元俊に学んだ。其頃、石郷岡(いしごうおか)三吾、佐藤弥六等、江戸の慶応義塾に学びしもの帰郷して、英語学が行はるに至つた。
 また漢文の旧約と新約及び支那発行の基督教小雑書の類も輸入されたが、其等は極めて秘密に見られた。」


◆「案の定、彼は、陽明学の書を読んで、まず邪教に陥ったために、更にキリスト教に陥ってしまったのだ」

 また、朱子学から陽明学へと転向したことを、後に評論家・歴史家の山路愛山(やまじ・あいざん)に次のように語っています。読みやすくするために、書名を『』でくくり、「」や〈〉()や「、」を多用しました。

「余が藩は、朱子学を以て〈士人の学〉と定めたれども、余は朱子学に満足する能はざりき。余は、固より朱子学の宇宙観(コスモロジイ)の如き高尚なる哲理に就て深く味ひたるには非ず。さる哲理は、余の教へられたるもの非ず。余は唯、洒掃応対(さいそうおうたい。若者が学ぶべき、掃除と来客の接待)の末節に汲々たる朱子学の煩瑣(はんさ)なるに満足する能はざりしのみ。
 されば余は、藩学校の庫(書庫)中に在りて、学生の容易に見ることを許されざりし『陽明文集』『伝習録』等を辛ふじて借り得て之を読みたり。余は又同じ理由に依って、熊沢蕃山の「集義内外書(『集義和書』『集義外書』)」を読みたり。而して、陽明学の、朱子学より多く自然(ナチュラル)なるを喜びたり。
 余が基督教徒たるに及んで、藩の故老は曰(いい)ひき、
〈果然(かぜん。案の定)、彼れは、陽明学の書を読んで、先ず邪教に陥りたるが故に、更に基督教に陥れり〉
 と。」(高木壬太郎『本多庸一先生遺稿』二)


 庸一は、「自然」という語に、わざわざ「ナチュラル」と、ルビを付けています。
 陽明学の本を読んだ庸一の感想は、
「朱子学よりずっと自然、ナチュラルだった」
 というのです。
 陽明学では、実際、心の本体である「良知(りょうち。明徳、仏性)」を「自然」に置き換えています。理屈っぽくて観念的な朱子学に比べて、陽明学がはるかに実践的で自然であるのは、言うまでもないことです。
 
 驚いたことには、陽明学の本は、弘前藩の書庫に置かれていたものの、禁書扱いだったのです。
 また、庸一の話によれば、藩の古老は、
「案の定、彼は、陽明学の書を読んで、まず邪教に陥ったために、更にキリスト教に陥ってしまったのだ」
 と語ったと言いますが、明治・大正期になっても、陽明学やキリスト教を邪教とみる人々がいたことに、少なからず驚かされます。

 庸一は、小野派一刀流の兵法・剣術の達人としても知られ、幕末期には脱藩するなどして官軍と闘い続けました。明治3年にキリスト教と出会い、以後、キリスト者として活躍することになります。
 
◆松山市生まれの銀次郎が、未曽有の陽明学ブームの中、生まれ故郷に深く関わる中江藤樹のことを、むしろ知らない方が可笑しいくらいです。

 勝田銀次郎は、愛媛県松山市の生まれとありますが、実は、この松山市柳原(旧河野村柳原)は、かつて大洲藩の飛び地の風早(かざはや)郡だったところで、日本陽明学の祖・中江藤樹がその少年時代の約3年間をこの地で過ごしていたのです。

 中江藤樹(1608~48)に関しては、拙著『評伝・中江藤樹、日本精神の源流・日本陽明学の祖』 (三五館)に詳説しましたので、ぜひご一読ください。

 祖父母の養子になっていた中江藤樹は、10歳の年の冬、祖父が大洲藩(現在の愛媛県大洲市)の飛び地・風早郡の郡奉行(こおりぶぎょう)になったことから、この地に移住してきたのでした。郡奉行とは、今でいえば、「市長兼市警察署長兼市裁判所長」のこと。

 翌年、藤樹11歳のとき、初めて儒教の経書(経典)『大学』を読み、そこに
「世の中には、上は天子様から下は庶民に至るまで、身分の違いはそれぞれあるけれど、人間として根本的に大事なことは、身を修めることである(天子より庶人にいたるまで、一にこれ皆身を修るをもって本となす)」(第1章)
 とあるのに感激し、
「人として、心と行いの正しい人になることが一番大切だ」
 という気付きを得て、「聖人になるぞ」との志を立てたのです。
「聖人」になる、とは、言い換えれば「真の善人」になるぞ、「一流の人格者」になるぞ、ということ。

 事実、松山市にあるその屋敷跡には
「中江藤樹先生立志之地」
 という石碑が建てられています。
 松山市生まれの銀次郎が、未曽有の陽明学ブームの中、生まれ故郷に深く関わる中江藤樹のことを、むしろ知らない方が可笑しいくらいです。
 
 最後に、これは余談です。
 キリスト者で敬和学園高校(プロテスタント系。新潟県新潟市)の初代校長の太田俊雄(1911~88)は、陽明学を奉じる私立中学岡山黌(岡山県岡山市)の藤井豁爾(かつじ)校長の影響を受け、中江藤樹らの書を読み、その晩年に至るまで江戸後期の陽明学者・佐藤一斎『言志録』を愛読したといいます。
 明治期にキリスト教徒に改宗した人には、かつて陽明学を学んでいたり、キリスト者となってから後も、傾倒していた人が多かったのです。


【愛媛の海偉人(かいじん)、「ロシア革命の混乱期、ロシア難民の子供たち約800人救出に尽力した海運王、任侠の男、勝田銀次郎】
http://dayzi.com/a-izinkatuta.html

▼ 神戸市長時代の勝田銀次郎(昭和10年頃)

mayor-ginjirou 市長時代の勝田銀次郎(昭和10年頃)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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◆痛風に懊悩する私を気遣う母から、「私より先には死なないでよ!」と言われてしまった。

 10月末頃か11月に入ってからのことかは記憶が定かではないけれど、久々に痛風が発症して、尿酸値を下げる薬を飲んでいるのだけれど、日増しに悪化して2週間が経った。
 薬の飲み合わせに問題があることが分かり、4,5日前から、持病の肝硬変の薬の服用をいったん中止して、痛風の治療に専念してきた。
 もちろん、肝硬変の薬を止めたこともあり、今まで以上に食事には気を付けた。好きな豆乳オレも飲むのを激減した。コーヒーの利尿作用は有難いので、1、2杯は飲んでいる。
 医師の話では、
「痛みがなくなるのに、通常2週間から20日はかかる」
 と言われていたので、そのつもりでいるのだが、13日は、ずっと痛み止めを飲んでいたために、好転したものとばかり思いこんで、家事や仕事に手を出してしまってつい無理をしてしまったこと気づいたのは、念のためにと、痛み止めを飲むのを止めてみた12日のこと。
 超激痛ではないにしても、激痛に襲われ、前日の無理がたたったことを自覚、14日は、「陽明学研究会・姚江(ようこう)の会・東京」の日であったにもかかわらず、初めて会への出席を断念した。
 私が、私主宰の会を欠席したのは、30歳代のルドルフ・シュタイナーの研究会の頃からのことを含めて、生まれて初めてでは無いだろうか。
 それも、2、30万円の講師料での講演依頼を頂戴させて頂きながら、
「その日は、私主宰の陽明学の研究会の開催日ですから」
 と断ってでも、先約最優先を貫いてきたにもかかわらず、である。

 さて、気が付いたら、私は、私が私淑する、日本陽明学の祖・中江藤樹(40歳)、陽明学の祖・王陽明(58歳)、人智学の創始者・ルドルフ・シュタイナー(64歳)、アーティスト・ヨーゼフ・ボイス(64歳)を超えて、65歳になっている。
 とはいえ、もう一人、私が20代で私淑した作家・コリン・ウィルソンは、82歳で没している。とはいえ、私の健康状態化からして、82歳まで生きる自信はゼロと言っていい。
 数日前、母に電話した時、痛風に懊悩する私を気遣う母から、
「私より先には死なないでよ!」
 と言われてしまった。
 そんな母は、もう80代後半である。
 四方山話はこれくらいにしておこう。

◆「藤樹先生が、かつて次のようにおっしゃいました。『私が良知を知ってからというもの、出世や蓄財についての興味はまるでなくなりました』 と。藤樹先生は、大悟されていたのです」

 9月に、6年ぶりの新著
『評伝・中江藤樹』(三五館)
 を刊行させて頂いて、その後1か月も経たないうちに、版元の三五館が営業停止になるという悲しい出来事を味わったが、編集段階で、『評伝・中江藤樹』に漏れた記事は数えきれないほどあるので、今後、少しづつ披露させて頂くことにする。

 まず、藤樹の二大高弟のひとり、淵岡山(ふち・こうざん)の残した言葉に、こんなのがある。

「先師曾(かつ)ての玉(たまわ)く、彼事(良知)を知てからは侍の望も知行の望もなきこと也と仰(おお)せられき。先師は御見得(ごけんとく)なされての御事(おんこと)ならん」(「岡山先生示教録」)

 現代語で意訳する。

「藤樹先生が、かつて次のようにおっしゃいました。
『私が良知を知ってからというもの、出世や蓄財についての興味はまるでなくなりました』
 と。
 藤樹先生は、大悟されていたのです」


 「見得(けんとく)」
 とは、仏教用語で、その意味は
「自らの智慧(ちえ)を働かせて真理を悟ること」
 です。

 立身出世や蓄財(必要最低限の収入を超えるお金儲け)への興味は、雲散霧消したというのは、私も良知を実感して以来、大いに共感するところです。
 良知を信じ切るということは、日々小善や陰徳を積むだけで、後は運を天に任せるということなのですから。

51Yuy+e+ixL__SX344_BO1,204,203,200_ 評伝・中江藤樹

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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