◆「日本では、私のいわゆる『55人の明治建設者』のことごとくが、その信奉者であったと思う」ウィリアム・エリオット・グリフィス

山元学校の山元雅信氏をご縁に、ウイキペディアの「陽明学」の記事の一部を修正する必要に迫られました。 ウイキペディアの「陽明学」の「幕末での陽明学の信奉者」の部分は、以下のように修正するべきと思っています。
今後、直接、ウィキペディアの記事を修正するかもしれませんが、一所懸命に書いて下った方の事を思うと、流石に躊躇します。
以下の記事が物足りない人は、拙著『志士の流儀』(教育評論社)や『真説「陽明学」入門』(三五館)をご一読ください。『志士の流儀』の内容は、幕末の志士と陽明学についてです。

【幕末での陽明学の信奉者】

幕末・明治維新期、我国では、陽明学者たちが大活躍をしました。
明治初期にお雇い外国人として来日したアメリカ人のウィリアム・エリオット・グリフィス(1843~1928)は、

「新政府設立当時、明治大帝の周囲にあれほど多くの有力者がいたことは、確かに驚異であった。・・・王陽明の哲学は、あまりにも進歩的であるために、シナでは深く根をおろしたことはないが、日本では、私のいわゆる『55人の明治建設者』のことごとくが、その信奉者であったと思う」(『キング11月号附録「明治大帝」』大日本雄弁会講談社)

などと語っています。
外国人でありながら、明治天皇との謁見を数回許されたほどのグリフィスです、多くの明治政府の元勲達との交友がありましたので、その言葉には説得力があります。

幕末・維新期の陽明学者と言えば、ざっと思いつくだけでも、以下の人々をあげることができます。

●昌平黌の教授で『言志四録』の著者・佐藤一斎
●松下村塾で門人たちを育成し、その晩年に倒幕論を唱え、安政の大獄により刑死した長州藩士・吉田松陰
●長州藩の藩論を討幕に統一し、第二次長州征伐では全藩を指揮し活躍した、吉田松陰の高弟・高杉晋作
●吉田松陰の高弟で「禁門の変」で自刃した久坂玄瑞(くさか・げんずい)
●大久保利通と共に倒幕に奔走、明治政府を樹立、日本の近代化に尽力した西郷隆盛
●山田方谷の高弟で長岡藩の藩政改革を手掛けた河井継之助(かわい・つぐのすけ)
●西郷隆盛が高く評価した福井藩士・橋本左内
●坂本龍馬の政治思想の師として知られ、福井藩で活躍した「維新十傑」の一人・横井小楠(よこい・しょうなん)
●当時、東アジア一と言われた佐賀藩の西洋近代化に手腕を発揮した佐賀藩主・鍋島直正(なべしま・なおまさ。閑叟)
●「北海道開拓の父」と呼ばれた佐賀藩士・島義勇(しま・よしたけ)
●備中松山藩の藩政改革に手腕を発揮した山田方谷(ほうこく)
●慶応4年、「討薩檄」を書いて薩摩の横暴を批判、やがてその活動が明治政府ににらまれ、政府転覆の不穏分子として処刑された漢詩人として知られる雲井龍雄
●中江兆民の師として知られる、土佐陽明学の開祖・奥宮慥斎(おくのみや・ぞうさい)(奥宮健之の父)
●佐藤一斎の門人で、横井小楠が高く評価した広島藩士・吉村秋陽
●官途に就くことを嫌い、郷里の但馬に青渓書院を開いて人材育成に努めた池田草庵
●維新後、私塾を開いて人材育成に努めた岩国藩士・東沢瀉(ひがし・たくしゃ)
●吉田松陰とも親しく交友した肥前平戸藩士・葉山左内
●森田節斎に師事、安岡正篤の陽明学の師として知られ、維新後は小中学校の教師をつとめた岡村閑翁(かんおう)
●尊王攘夷を主張する志士として活躍。西郷隆盛が高く評価、維新後は奈良県知事をつとめた春日潜庵
●勤王の志士としても活躍した漢詩人・梁川星巌(やながわ・せいがん)
●葛飾北斎のスポンサーとして知られる信濃国高井郡小布施村(幕府領・松代藩)の豪農商で儒者・浮世絵師・高井鴻山(こうざん)
●久坂玄瑞らと禁門の変を起こし、敗れて山崎天王山で自刃した尊攘派の志士・真木保臣(まき・やすおみ)
●明治3年、東京集議院門前に征韓論議反対論の「時弊十条」の建白書をかかげ割腹した薩摩藩士・横山安武(森有礼の実兄)
●尊攘の志士で、維新後は堺県知事、宮内省御用掛などをつとめた豊後岡藩士・小河一敏(おごう・かずとし)
●西郷隆盛の信頼を得ていた名古屋藩士で、維新後は名古屋藩大惨事となった田宮如雲
●陽明学を奉じた軍人・広瀬武夫の父として知られる豊後岡藩士・広瀬重武
●尊攘派の志士で、吉田松陰らを教えた儒学者・森田節斎
●備中庭瀬藩の藩医、後に儒者をつとめた森田節斎の実弟・森田月瀬(もりた・げつらい。葆庵)
●土佐藩の開成館、維新後は土佐商会に勤務。三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎
●「道徳経済合一説」を主張した実業家で、「道徳ある経営」を実践しているとしてドラッカーが絶賛した「日本資本主義の父」渋沢栄一
●佐藤一斎に師事、後に一斎の養子となり、維新後は神奈川県藤沢市で私塾・耕余塾を開き人材育成に努めた元・姫路藩士の小笠原東陽



◆山田方谷の陽明学理解が深まったからでしょうは、その晩年には、相手が誰であれ、最初から陽明学を教えるようになっています。

ところで、陽明学と言えば、すぐに
「行動哲学だ」
「革命哲学だ」
などと言って、口角泡を飛ばす勢いの血気盛んな人がいますが、それは一面的な評価でしかありません。
大塩平八郎や吉田松陰や高杉晋作や河井継之助、さらにはその晩年に
「革命哲学としての陽明学」
というエッセイを書いた三島由紀夫らのイメージから、陽明学は革命哲学だという理解をする人が多いようですが、陽明学のバイブルと称されている王陽明の言行録の『伝習録』をきちんと読んでいない人の意見に過ぎません。
幕末・維新期は、内憂外患の動乱期であり、陽明学者ではなくても、多くの人々が政治の時代を生きていたのです。

特筆すべきは、備中松山(岡山県高梁市)藩士・山田方谷のことです。
方谷と言えば、拙著
『財務の教科書、「財政の巨人」山田方谷の原動力』
に書かせて頂きましたが、
「貧乏板倉(藩主の名前が板倉勝静)」
とまで言われた備中松山藩の財政を立て直したことで知られています。
「山田方谷自身は陽明学者だったが、彼は陽明学の持つ危険性も承知しており、弟子には先に朱子学を学ばせ、センスの良いものにのみ、陽明学を教えた」
などという意見もありますが、確かにそういう時期もありましたが、山田方谷の陽明学理解が深まったからでしょうは、その晩年には、相手が誰であれ、最初から陽明学を教えるようになっています。
山田方谷の陽明学の師は、新見藩儒者の丸川松陰と昌平黌の教授・佐藤一斎でした。佐藤一斎は昌平黌の儒官として、立場上朱子学を教えていましたが、自分の私塾では、陽明学を教えていました。
そして、西郷隆盛の愛読書として知られる佐藤一斎の代表作でエッセイ集『言志四録(げんししろく)』は、大塩平八郎の『洗心洞箚記(せんしんどうさっき)』と共に、幕末の志士たちに大きな影響を与えました。



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◆苦悩や不安やストレスのない安定した伸びやか心を実現するには、思いと行動の間にギャップ(乖離)がないことが重要で、そのためには、後悔や後ろめたさなどの要因となる諸々の私欲を減らすこと、これしかないのです。

年明け早々、自民党の新年会での挨拶で、安倍首相は、江戸後期を代表する陽明学者・大塩平八郎と王陽明の有名な言葉
「山中の賊を破るは易(やす)し、心中の賊を破るは難(かた)し」
に触れて下さって、これには大いに驚かされました。
そんなところへ、今度は、グロービス経営大学院の堀義人学長の
「リーダー論に通ずる陽明学、心の陶冶を学ぶ」
と題する一文が、日本経済新聞に掲載されましたので、更に驚かされた次第です。

安倍首相の挨拶については、すでに私のこのブログでも取り上げさせて頂きましたので、今日は、堀義人学長の一文について触れさせて頂きたいと思います。

堀学長が影響を受けたと語られている密教については、本を読んだり松長有慶氏のご講演を聴いたりした程度で、私の専門とすることではありませんので、ここでは陽明学について述べさせて頂きます。
堀学長の場合は、密教と陽明学に出会ったのは、今から20年ほど前のグロービスを起業して間もない頃のこととあります。
つまり、ただ単なる好奇心や知識欲からというより、サラリーマンから実業家としての道を歩み始める中、悩み多き経営者の一人として、真摯に心に目を向けた結果、出会った、ということなのでしょう。
真摯な経営者であれば、誰もがそう思うのでしょうが、堀学長の場合も、無意識のうちに、揺れない心、「不動心」を求められていたものと思われます。
堀学長は、特に「知行合一」「心即理」に注目されたそうですが、その事実が、そのことを物語っていると思います。
苦悩や不安やストレスのない安定した伸びやか心を実現するには、思いと行動の間にギャップ(乖離)がないことが重要で、そのためには、後悔や後ろめたさなどの要因となる諸々の私欲を減らすこと、これしかないのです。そして、その為には、「内観」が必要となります。

どれほど頭脳明晰で、語学にも長けていたにしても、自分本位で人望が無ければ、人は引き上げてもくれなければ、応援もしてはくれません。
また、運よく経済力に恵まれたり、出世できたにせよ、誘惑に負けて罪を犯してしまい、人生を棒に振る人も後を絶ちません。心が弱かったのです。

拙著『真説「陽明学」入門』には、紙幅の都合もあり、「内観」の重要性を含め、心の陶冶の方法について具体的に述べることができませんでした。
実は、心の陶冶の具体的な方法論については、江戸時代初期に、陽明学を日本に根付かせた中江藤樹を先駆とするその門人たちの工夫と努力によって明らかにされ、「日本陽明学」として結実したのです。
「日本陽明学」の実践体得の教えが、今でもとても有効であることは、幕末の志士や明治の元勲達の偉業が証明しているのですが、私や
「姚江(ようこう)の会・群馬」
で、私と共に約4年かけて『伝習録』を読破した
「姚江の会・七人のサムライ」
たちが実感していることでもあります。

「日本陽明学」によって明らかにされた陽明学流の心の陶冶の方法については、昨年11月に脱稿しました私の新著『評伝、日本陽明学の祖・中江藤樹(仮)』(三五館)に詳説させて頂きましたので、どうか刊行迄もうしばらくお待ち下さい。
諸外国のみならず、昨今の我国でも、数字ばかりに目を向けて、心に目を向けることのない経営者のほうが圧倒的に多いと思いますが、そういう意味で、心に注目された堀学長は、日本人らしさを牽引する稀にみる経営者であると思います。

以下は、日経に掲載になった堀義人学長の記事です。

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リーダー論に通ずる陽明学、心の陶冶を学ぶ
グロービス経営大学院学長 堀義人氏(49)
2017/1/13付

僕が最も影響を受けた思想が、陽明学と密教である。
僕が密教に興味を持ったきっかけは、尊敬する起業家である斑目力昿氏(ネミック・ラムダ=現TDKラムダ=の創業者)との出会いだ。斑目氏は高野山大学で学び、僧侶の資格を持つユニークな起業家だ。20年ほど前に、斑目氏と高野山の宿坊に泊まり、密教思想に触れる機会を直々に頂いた。その後、真言密教を大成した空海の著書や空海に関する書物を、僕は乱読し続けた。
陽明学に出会ったきっかけは、内村鑑三の「代表的日本人」を読んだことだ。この本に出てくる西郷隆盛と中江藤樹の2人の偉人に影響を与えたのが陽明学だ。その後、陽明学と名がつく本を可能な限り読破した。当時、僕は30代前半でグロービスを起業して間もない頃だった。
陽明学の代表的な教えが「心即理」と「知行合一」である。僕の解釈は、とてもシンプルだ。「心=理」、「知=行」であり、仮に「理」と「知」とを同じものと捉えると、心=理・知=行とイコールで結ばれる。つまり、心のあり方がそのまま思考となり、行動に表れるのだ。
思考と行動が違うと、言行不一致となり、信用を失う。心で思ったことと頭で考えたことが違うと、心と頭が解離した状態となり、心にストレスが生じる。心・思考・行動の一致が最も重要となる。その全ての起点となるのが、「心のあり方」だ。陽明学は、心学とも呼ばれ、心を陶冶することを勧めている。
しかし、陽明学の始祖である王陽明が「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」と唱えたように、心を律することは難しい。そもそも、自らの心を認識することすら、とても難しいのだ。僕自身、自らの心のありようが分からずに、部屋の隅っこでうつむきながら、悩んだ時期もあった。ヒントを与えてくれたのが、陽明学と密教だった。自らの「心」が察知できないのは、「欲望」と「頭の作用」という2つの邪魔ものがあったからだ。
名声欲や金銭欲、権力欲などの欲望があると、「お金をもうけたいから」「有名になりたいから」「権力が欲しいから」という理由で、自らが心で欲しているものではなく、欲望に流されてしまいがちになる。
一方、頭の作用が強過ぎると、自分の心を、頭で誘導しがちになる。受験戦争を繰り広げて、「良い大学に入り、良い会社に入ることが幸せだ」と頭から信じていると、本当の幸せを見失うのと同じ道理である。
心はほのかな光しか発していない。欲望と頭の作用がギラギラと光り覆い隠してしまうから心が見えにくくなるのだ。心を察知するには、その2つの邪魔ものを除去する必要がある。
欲望をそぎ落とし、頭の作用を止めるのに役に立ったのが、密教の思想だ。座禅などを通して、空(くう)の状態になることで、欲望をそぎ落とし、頭の作用を止められる。

心を察知できれば、心を陶冶できる。心の中の恐れ、怒り、ねたみ、不安など悪い心を打ち払い、希望に満ち、明るく、前向きな善い思いを心に満たし、心を強くできる。心を陶冶することを日々の業務の中で意識して行い続ける。すると心・思考・行動が一致し始め、心即理、知行合一を実行できるようになる。
密教と陽明学の教えは、僕の「心のあり方」のよりどころとなった。良い教えは、可能な限り多くの人に教えたい。密教は宗教的教えなので、経営大学院では教えにくい。だが、陽明学は可能だ。グロービスでは、「真説『陽明学』入門」(林田明大著)を経営学修士(MBA)学生の必読書として定めている。
陽明学の教えにより、心が陶冶された良きリーダーが日本から数多く輩出されることを心より願っている。

[日経産業新聞2017年1月13日付]

堀義人(ほり・よしと)1986年京大工卒、住友商事入社。米ハーバード大経営大学院で経営学修士号(MBA)取得後、92年にグロービス設立。「ヒト・カネ・チエの生態系を作り社会の創造と変革を行う」ことを目標に、経営大学院の経営、ベンチャーキャピタルの運営、経営ノウハウの出版・発信を手掛ける。茨城県出身。54歳。


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◆「山の中の賊を退治するのは簡単だが、心の中の賊を退治するのは難しい」

前回は、安倍首相が新年の挨拶の中で触れられた陽明学者・大塩平八郎と陽明学の創始者・王陽明のことについて触れさせて頂きました。
今回は、安倍首相が新年の挨拶の中で触れられた王陽明の言葉、
「山中の賊を破るのは易(やす)し、心中の賊を破るのは難(かた)し」
についてです。

この言葉は、王陽明の遺した言葉の中でも、
「知行合一(ちこうごういつ)」
「事上磨練(じじょうまれん)」
と共に特に人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)した言葉といっていいものです。
通常は、「の」を省いて
「山中の賊を破るは易し、心中の賊を破るは難し」
という言い方をしています。
意味は、文字通りで、
「山の中の賊を退治するのは簡単だが、心の中の賊を退治するのは難しい」
です。
「心の中の賊」
というのは、
「私欲(私心・人欲)」
のことです。
心の中に人欲があると、心の本体であるところの
「良知(りょうち)」
言い換えれば
「天理(明徳。本当の私)」
が働かない、発揮されないのです。
それも、ほんの少しの私欲であっても、良知を発揮することができなくなるというのです。

そのことを、王陽明は、次のように述べています。

「省察克治(せいさつこくち。内省し私欲を克服すること)の修養は、途切れてはならない。人欲に対して、まるで盗賊を徹底的に掃討するように、徹底しなければならない。
何事もない時であっても、色を好み、財貨を好み、名声を好むなどの私心を、一つひとつ追及して探し出し、根っこからその病根を抜き去って、二度と起こらないようにしなければ、十分とは言えない。
だから、普段から、猫がネズミを捕らえるときのように、じっと眼を凝らし、耳を澄ませて、ほんのちょっとでも私欲の芽が萌(きざ)したならば、釘を切り鉄を截(た)つように、一気に、相手に手段を講じる余裕を与えたり、逃げ隠れさせてはならない。
これでこそ、始めて本当の修養をしたことになり、私欲を徹底的に取り除くことも可能となり、やがては、もはや克服するべき私欲もなくなり、そうなれば、自己の自然のままに振る舞っても良いことになる」(『伝習録』上巻40条)


陽明の省察克治の修養を実践するとなると、とてもとても、人の欠点を見つけたり批判している暇などありませんね。
まさしく
「己に厳しく、他人には寛容に」
なるしかないわけです。

◆「もし、君たちが、我が心の底に仇をなす私欲を残らず掃除することができるならば、これこそ本当に男子たるものの、この世にまたとない偉丈夫の偉大な業績と言って良いであろう」

「山中の賊を破るのは易し、心中の賊を破るのは難し」の言葉は、1517年、陽明46歳のときのもので、福建省南部の汀州・漳州(ていしょう・しょうしゅう)地方の匪賊(ひぞく)討伐の陣中から、門人の楊仕徳(よう・しとく)に与えた手紙に見ることができます。その後、門人・薛侃(せつ・かん。尚謙)に与えた手紙でも同じ言葉を引用しています。
陽明は、この前の年の秋に都察院右僉都御史(とさついんうせんとぎょし)に任命されて、高級官僚でありながら、文武両道のその才能が評価されて、武人としての新たな生活がスタートしていました。
都察院右僉都御史とは、今でいう検察庁長官に相当するポストで、各地を見回り、地方官吏の不正を正し、暴動や反乱などを取り締まる仕事で、まさに命がけの日々となっていたのです。

そして、これが、陽明が47歳のときに、門人の薛侃に与えた手紙です。陽明は、1518年に、江西・広東両省の境にある三浰(さんれん)の賊を平定するのですが、その戦いの途中で、書き送ったのでした。

「私はすぐその日、竜南(江西省贛州府竜南県)に到着した。明日、賊の根拠地を攻撃する。味方の軍は、四方から作戦通りに進撃しており、賊を必ず打ち破る態勢をとっている。
私は、横水(江西省崇義県)にいたとき、楊仕徳(よう・しとく)に手紙を出して、
『山中の賊を破るは易し、心中の賊を破るは難し』
と言ったことがある。
私が、盗賊を退治したところで、何も不思議に思ったり驚いたりするようなことでもない。もし、君たちが、我が心の底に仇をなす私欲を残らず掃除することができるならば、これこそ本当に男子たるものの、この世にまたとない偉丈夫の偉大な業績と言って良いであろう」(『王陽明全集』巻4)



◆「私に秘策などないのです。ただ平生、自ら信じているのは良知です。およそ機に応じて敵に対したとき、ただこの1点の霊明(良知)が霊妙に感応し、いささかも生死利害に動かされなかっただけなのです」

陽明は、その晩年に、反乱鎮圧に東奔西走する武人としての日々を約6年間過ごして57歳で亡くなりましたが、驚くべきことには、その間、一度も負けることが無かったのです。
用兵の秘策を、後に門人の王龍溪(おう・りゅうけい)に質問されて、こう答えています。

「私に秘策などないのです。ただ平生、自ら信じているのは良知です。およそ機に応じて敵に対したとき、ただこの1点の霊明(良知)が霊妙に感応し、いささかも生死利害に動かされなかっただけなのです」(『真説「陽明学」入門』第1部第3章)

デビュー作の『真説「陽明学」入門』を刊行させて頂いて約20年余が過ぎました。これは、その間、私自身が、良知の自覚と良知を信じる工夫と努力を継続してきたからこそ言えることですが、良知には、物事や出来事の兆しを直前にキャッチする働きがあることからすれば、良知のおかげで数々の危機を潜り抜けて来たであろうことは充分理解できます。

かつて、私がお世話になった九州大学名誉教授の岡田武彦先生によれば、
『大塩平八郎は、陽明の名言「山中の賊を破るは易し、心中の賊を破るは難し」の語を、印章に用いたと聞いたことがある』(『岡田武彦全集3、王陽明大伝③』第13章、参照)
とのことでした。
最後になりますが、というわけで、「山中の賊を破るは易し、心中の賊を破るは難し」は、大塩平八郎の座右の銘だったということになりそうです。

 

 

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