映画「ソーシャル・ネットワーク」を見る | 紺ガエルとの生活 ブログ版日々雑感 最後の空冷ポルシェとともに

映画「ソーシャル・ネットワーク」を見る

最後に映画館に行ったのがいつだか思い出されないぐらいの私だが。
この映画を見て、「もっと映画を見た方がいいかも」と思わされた。
でも、飛行機の中でタダで見ただけなんだけどね。

映画の質そのものについては、多分色んな意見があるのだろうが。
なんというか、生々しいエネルギーを他人に伝えるための手段として映画って凄いな、と単純に思った。
そして人を興奮させて、アニマルスピリットを駆り立てるための手段として。

私の働いている業界は、おそらく退屈とは無縁の世界のはずだけれど。
Facebookのように、全くのゼロから世界中にパンデミックするようなダイナミズムはない。
フレームワークを作れば、それが有機的にどんどん増殖して、対数関数的に自らその価値を上げていく。
そんなSNSの持つ「拡張可能性」は、金融などとは比べものにならないほど強い。
というか、SNSは「拡張可能性」そのもの、あるいは究極の「拡張可能性」かも。

タレブも言っていたが、いくら優れた医者やヘアスタイリストだったとしても。
彼らは拡張不可能。
どういう意味かというと。
「彼ら自身が物理的にその場にいて彼ら自身の手を動かさないと、彼らの評価の対象となる労働成果物は生まれない」。
違う言い方をすると。
労働時間に収入が比例する度合いが強い仕事ってのが、拡張不可能な仕事ってこと。
だって、天才的な脳外科の医者でも、彼もしくは彼女自身が手術して助けられる人の数は物理的に限られるし。
素晴らしいヘアスタイリストだって同様。

けれど、SNSのようなコミュニケーションのインフラを作るとか、(ある程度だが)金融(あるいは投資)とかは。
自分が物理的にそこにいて手を動かさなくても、拡張可能。
成果物は、時に爆発的なものになる。

しかし。
成功する人はごくごくごくごく一部だけ。
その人たちが極端に目立つから、誰もがそれを目指してしまうが。
実は失敗した人のことは誰も語らない。
何万、何十万、何百万という死屍累々の上に、マイク・ザッカーバーグ(Facebook創業者、「ソーシャル・ネットワーク」の主人公)が降臨している。
彼の映画はこうやって出来て、私のような人間でも飛行機の中で見ていて。
でも当たり前だが、失敗した人たちの話題が多くの人々の口に上ったり、ましてや映画になることはない。
(成功した人はまだ語られるだけましだが、世界を破滅させないように一生懸命地味な仕事をしているようないわゆる「縁の下の力持ち」的な人、すなわち「ネガティブな意味での」成功者も、失敗した人と同様なのがとても皮肉だが。)

ちゃんとアタマではそうやって理解しているのに。
「ソーシャル・ネットワーク」という映画を見終わると。
「自分も拡張可能性の高いことをやらなきゃ」、と思わされる。
そのリスクの高さは、アタマで分かっているのに。
アニマルスピリットを刺激させられる力が、映像にはあるってことなのだろう。
だから、もう少し映画を見た方がいいのだろうな、と強く思った。
だって、アニマルスピリットほど、人にとって大事なものはないから。

といいながら、もう一本映画を見るのではなくて、この文章を書いているのは凄く自己矛盾しているけれど。

(ちなみに某ソーシャル・ネットワークには私もアカウント持っていますので、暇な人は探してみてください)


余談になるが。
日本が停滞している一つの理由は、「拡張可能性」という概念の重要性についての認識が低いからではなかろうかと思う。
すぐに「物づくりがエライ」とかいうし。
労働コストが高いから、賃金の安いアジアの労働者に対して負けないようにもっと付加価値の高いことをすべきだ、とか言っているが。
本質的には、拡張可能性の高い仕事に従事する人たちを増やせば、少子高齢化しようが何しようが関係ない。
付加価値とは何か、ということの理解が浅薄で。

ウォークマンは失敗で、iPodが成功で、とか、簡単に言う人たちが多いけれど。

拡張可能性についての議論は、第二次産業から第三次産業に人的資源を移転する、ということとは本質的に違う。
サービス業でも、ウェイターや掃除してくれる人や介護をしてくれる人たちの仕事は拡張不可能な仕事。

クリエイティブな仕事、というだけでは必ずしも拡張可能な仕事であるということを意味しない。
音楽家だって、その人が実際に演奏しないと人を感動させられないのであれば、拡張不可能。
その人の音楽がダウンロードされたり、CDになったりして、その人がいなくても人を感動させられるようになれば、拡張可能。

拡張可能性という切り口でものを考えれば。
自ずと、何をすべきか見えてくると思うのだが。