70年代の狂乱物価が日銀の金融政策を変えた | 株えもんのブログ

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こんにちは



以前の記事で日銀の金融政策が日本経済を疲弊させていると書きました。日銀が経済に必要なマネーを供給しないため円高とデフレが継続して、日本経済の実力である名目GDP1991年と同水準に落ち込んでいる。



いつからそのような政策になったのか。調べました結果、1973年(昭和48年)にその答えのひとつがありました。



1973年と言えば石油ショックが起こり物価が急騰、いわゆる狂乱物価が起こり翌1974年には消費者物価が25%も高騰する事態となりました。



狂乱物価の責任は日銀の金融引き締めが遅れたのが原因だと日銀批判が巻き起こり、これ以後日銀の金融政策はインフレを押さえ込む方針になった。



これを示すデータとして日銀が市中に出すお金の量を示す、マネタリーベースが石油危機以前の半分になってしまいました。



ところで狂乱物価の原因ですが日銀の間違った金融政策が批判の的になっていますが、当時の記録を色々調べてみるとそれ以外の要因もたくさんあったことが確認できました。



まず1960年代後半から日本の貿易黒字、特に対米黒字が急拡大してきます。


アメリカは日本の輸出ドライブにより自国の産業が打撃を受けると言い出して、輸出ばかりに力をいれずに内需をもっとやれと、日本政府に圧力をかけてきた。



そこで1972年に当時の田中角栄総理は、持論の日本列島改造論を実現することも含めて、日銀に金融緩和を命じて同年5月公定歩合を引き下げた。



しかしこの時点でお金の動きを示すマネーサプライ(現在はマネーストック)の伸び率は前年比25%増と過剰資金が滞留していた。


通常こんなときに金融緩和すれば後で大変なことになることくらいは、総理や当時の日銀佐々木総裁もわかっていたはずだが、アメリカに言われるままに行動した。



過剰流動性の原因だが、60年代後半になり日本や当時の西ドイツはアメリカとの貿易で稼ぐ、アメリカから入ってきたドルは日銀が円に代える、これを続けたため円資金が増加します。



さらに米国経済の地盤沈下により為替を固定してたブレトンウッズ体制が維持できなくなると読んだヘッジファンドがドルを売り、円やマルクを買う取引を増やした。



日銀はこれに対して、1ドル360円体制を維持するため、あふれたドルを買い円を売る介入を行っていて、これらが円の過剰流動の原因となった。



あふれたマネーのおかげで、当時の日本経済は絶好調でした。経済の実力を示す名目GNP(現在はGDP)は1972年度で17.8%という信じられない高い成長を遂げています。1年で経済の時価が2割も伸びることなど今では信じられないですね。



それから日経平均株価は1972年は92%も値上がりして、これは戦後2番目の上昇率となっている。


率では2番目だが月足では12ヶ月すべて陽線となっており、これはこの年だけです。


ちなみに80年代後半のバブル期ですが、86年と88年が大きく値上がりしているが、それでも40%くらいです。



株式市場だけでなく不動産価格やゴルフ会員権まで高騰しています。



これだけ景気が過熱しているにもかかわらず、日銀が金融引き締めに転じたのは1973年に入ってからでした。


景気が過熱していたにもかかわらず、アメリカや田中角栄の圧力によって金融引き締めが遅れ、さらに同年秋に石油ショックが起こり、混乱が広がった。



石油ショックによりモノが高くなるとか、モノがなくなると連日マスコミが報道するから消費者がパニックを起こして、買占めに走る、売るほうは、在庫があるにもかかわらずモノはないといって売り惜しみをする、この連鎖が物価高騰に拍車をかけた。



つまり石油ショックを材料にマスコミが連日不安をあおるから、冷静な消費者も不安に駆られて買占めに走ったことが狂乱物価の一因になっている。



当時の映像で店先で主婦がトイレットペーパーを奪い合うのがありましたが、冷静に見るとマスコミの「やらせ」じゃないかとも思える。これは証拠がないので私の独り言としておきます。



こうしてみると狂乱物価はいろんな原因が重なっておきたことだが、日銀の金融政策はこれ以降一環して、マネタリーベースを減らしてインフレを押さえ込む方針に徹底している。



「馬鹿の一つ覚え」は、言いすぎかな。「あつものに懲りて膾を吹く」と言ったほうがいいか。



これにより日本は高度経済成長が終わり低成長時代に突入します。



日銀の金融政策の変化は1990年にもありますが、これは後日記事にします。