650について家族と話す。ベトナム難民家族・グェン君のお母さんの思い出。 | メリーさんのブログ
30年近く前のこと。首相は中曽根時代だったと思う。
保育園には、後進国(主にアジア圏)から東大へ、国費留学&企業留学してきた未来の官僚、エンジニアの卵等のご子息(インド、フィリピン、インドネシア、中国等)が通園していた。

そして、ベトナム難民のご子息も通園していた。

あと、労働者として日本に来日していたパキスタン人のご子息。

クラスは国際色豊かで、日本人3割という状況だった。

私は、皆さんと分け隔てなく交流させて頂いた。
私もまだ若かったので、英検3級(笑)の単語が意識に残っていて、片言の日本国と英検3級の単語でコミュニケーションしていた。
英語が話せる方とは、英語が話せる日本人友人が通訳してくれたり…。
この交流で私は、もの凄く視野が広がったし、学ばせて頂いた。

特にベトナム難民の方から、「生き抜く」決意の重さを学ばせて頂いた。 彼女はベトナムから夫と1人息子のグェンちゃんと3人で難民として来日していた。
国から親子3人で脱出しなければならない状況、親族との別れ。私と同じ年代の彼女。ベトナム人で生まれたから、今、この状況で、こうして日本に難民としている。 彼女とご主人から「生き抜く」という覚悟・決意の重さを教えて頂いた。

彼女との交流が有ったから、私は、親は何がなんでも、何があっても、どんな状況になっても、絶対に我が子の命と人生(未来)を守り抜かないとならない!と、より強く決意した。


で、650。
もう、命がけで我が子を守る時代は終わっているので、家族には、このグェンちゃんのお母さん・お父さんのお話と、戦時中を生きていた両親、祖父母のことを話した。
650・フクシマが有るということは、いつ戦闘機が爆撃してくるか判らない戦時中と同じ。両親や祖父母もそういう不安の中を生きていた。
そして、そういう時代はより一層、1日1日を大事に生きなきゃね、と。
新しい家族とよく話し合って状況対応して生きていくように。と話した。


私は、もう55歳だから、「相当状況が悪くなったら動く。」で良いと考えている。
動く時は、身軽だから、3・11の時のように、即決断実行、仕事道具のハサミを持って西日本へ逃げれば、「なんとかなる」と思っている。

西日本経由で沖縄へ逃げてもいいかなあ~?っても思っているの。マスター頼って…。

沖縄プロジェクト。って話が有って、同年代、皆で沖縄へ移住して、定年無しの仕事(ガツガツしない仕事で)立ち上げたいね~。って。

皆は、メリーは沖縄行ってもすぐ仕事あるよ。って言ってくれる。ブライダル、エステ、美容室。就職してもいいし、店やってもいいし。って。

身体が沢山有ったら、「沖縄行き」もやりたいし。

各方面へガンガン「PTSD談判」したいし。

あと、憧れのクルージング船内美容師もやりたいし。

でも、今のところは、今、目の前にいらっしゃる、20数年間私を贔屓にして下さるお客様と過ごす事を有り難く、嬉しく、楽しく感じているので、現状維持の生活。


もう、ほんとに、PTSDが治ってほんとに良かったです。

今日は、2011年の未来の1日。PTSDが無い1日に成っている。凄く嬉しい。誠にありがとうございました。