さる、8月6日、柄谷行人と久々に、会った、と言っても、話したわけではなく、新宮市の、佐野港緑地であった、中上健次原作、日輪の翼の、舞台を、見に行き、その会場で柄谷行人夫妻を見た、という程度。柄谷行人は笑顔で、夫婦でそろいの銀の日傘をさし、上機嫌そうだった。なぜか、とても安心した。

柄谷行人と初めて会ったのは、1994の熊野大学で、宴会から参加した田上は、一晩中誰かと話していた。飛弾五郎、島田雅彦、いとうせいこう、渡部直己、らがいた。
野球大会が終わり、新宮駅までの、タクシーに、飛弾五郎と、柄谷行人と、田上が同乗し、さらに、新宮駅から大阪駅までも、一緒だった。
柄谷行人は、タバコを、ひっきりなしに喫みながら様々な話をした。
1998の、熊野大学記念シンポジウムの講演会が、市民ホールであり、聴衆との、質疑応答になったが、誰も手を挙げなかったので、田上が、「もし、中上健次が、生きていたらどういう文学の可能性があっただろうか?」と、問うと、「時代や物書きは7年で変わる説があり、晩年の中上は、新人の頃に戻っていたのではないか、、、新しい人が初期作品を、違う読み方を始めているはずだ、それに期待をかけたい」と、柄谷行人は応えた。

やなぎみわ演出の舞台、日輪の翼が終演し、ヒカシューからのファンである、巻上公一を、まじかに柄谷行人を、探したが見つからず、タクシーを待つ、浅田彰と、田中康夫に、柄谷行人の行方を尋ねると、とっくに帰ったとのことで、田上は、新宮駅に戻り、大王新地やらで、一晩中飲み、朝イチの列車で、柴犬小太郎の待つ奈良へ、帰った。

柄谷さん、また、熊野で会いましょう。たくさん、話したいことがあります。