求められていないものは必要ないのだろうか | ひよっ子マーケター、教壇を目指す。

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ベンチャー企業で働きながら中学校の教壇を目指していたら、何とか教壇に立てそうな雰囲気になってきた男のブログ。

そう、広告の事です。

極論で考えれば「いやいや、全部なくなっちゃったら困るでしょ」という話になるかなぁと考えてもみたのですが、果たしてそれが困るのは一体どうしてなのかも考えたいと思います。

まず表題の件に関して。拙著はNOと考えます。

例えば電車内の中吊り。広告がひとつもなかったら、それはそれは異様な光景でしょう(笑)。これはさておき、そもそも広告は求められていないものと受け取られがちですが、決してそんな事はなくて、生活者は「有益な情報」を求めているのであって、それがどんな形であっても構わないのです。マルイのバーゲンの広告があったら「あ、行かなきゃ」とか思うでしょう?人によって心の中で「知らせてくれてありがとう」と思うかもしれません。

前述はあくまで一例ですが、人は気づかぬうちに、広告からの情報を取り入れ、日々の生活に生かしていることは事実です。その一方で、広告撲滅論があるのもまた事実。それは、「そんな情報は求めていないよ」というミスマッチと「鬱陶しい」という美的嫌悪感があると思います。

これらはいずれも受け取る個人の最良に委ねられる感覚的なものであって、もし広告に対して嫌悪感を持つ生活者が多いのだとすれば、それは情報提供者側からのミスマッチ率が高い事に起因するものと考えられます。

故に、仮に広告が求められていなかったとしても、必要ないわけではなく、受け手が必要な情報に関しては受け取りたいということになります。

ここで「生活者が受け取りたいと考える情報は何か」ということを考えてみます。

この答えは「何らかの利を提供してくれる情報」なわけですが、掘り下げに関しては長くなって来たので次回エントリに続きます。

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