やっと書き始めた
オールを取り戻すまでの話。
前回の話はこちらから
今回は、ちょっと長いです。
母親に抱っこされてる私。
ちゃんと大事に育てられました。
両親ともに教師で、共働き。
私と両親
父方のお婆ちゃんと
父の姉のおばちゃん
の5人で暮らしていました。
小さい頃の記憶が皆無な私。
このお婆ちゃんもおばちゃんも
一緒に住んでいた記憶は
一切ありません。
私が3ケ月の頃。
共働きだった両親は
私を預けて働きに行く事にしたそうです。
今でこそ
保育所とか託児所がありますが、
昭和30年代のあの頃には
そんな施設もなく・・・
この写真の女性のお宅に預けられました。
今の私の体形からすると
こっちが本物の母親みたいですが(笑)
私はこの女性のことを
「あっちに住んでるお母さん」
という意味で
「あっちママ」
と、呼んでいました。
あっちママは最初、
専業主婦だったのですが
うちの母親が知らない間に
「保険の外交」を始めていました。
この写真は、その会社の
飲み会みたいなところで
当時流行っていた
「おそ松くん」の「イヤミ」の
「シェー」っていうギャグをやって
大人たちを笑わせている写真です。
大人の間では人気者だったそうです。
私は、ずっと預けられていて
ちょっと大きくなってからは
あっちママと外交に出歩き
家の近くの子供と遊ぶこともなく
5歳まで育ちました。
成人するまで、
どうしたら同年代の友達が作れるのか
わかりませんでした。
親の仕事がお休みの日は
こうして笑顔で過ごしていたようです。
30歳を過ぎて自分探しをはじめた頃、
あるワークを受けた時の事です。
あっちママの家で
床に寝かされた感覚を
感じた時。。。
首に強烈な緊張を感じました。
首だけでなく全身が硬直した
そんな感覚です。
周りの世界が怖くて怖くて
母親も居ず、誰も誰も
私を守ってはくれないんだ、
という絶望と強い恐怖心。
今でも強烈な肩こり・首こりを
持っている私ですが
原体験はここにあったのかも
しれません。
小さな私が
母親と離れている寂しさ・恐ろしさを
感じていてもおかしくないなぁ~と
思いました。
でも、あっちママの家は
快適だったと思います。
いじめられたとか
殴られたとかの体験は皆無です。
そして5歳になった私には
弟が出来ます。
0歳と5歳。
うちの父親も教師でした。
中学校の国語と社会を教え
サッカー部の顧問をしていました。
良い意味で熱心な教育者だった父。
1年の360日くらいは
サッカーに燃えていたようです。
正月くらいしか家にいなかったし
毎日のように仕事を持って帰って
遅くまで机に向かっていました。
ですので、
育児や家事は全て母親任せ。
体が丈夫でスクスク大きくなった
私とはちがい
弟は、すぐに熱をだして下痢をして
痩せて、食べなくなるし、
ピーピーよく泣いていました。
強烈に残っている記憶の1つ。
雨の中。
弟を抱いて近くの医院に走って
向かっている母親。その後ろを
ちょこちょこついていっている私。
父の姿はありません。
当時、車もなかったので徒歩です。
泣きたいけど、私が泣いたら
母親が困るだろうと我慢していました。
それと、これは後々になって
わかったことですが
私と一緒にあっちママの家に
預けられた弟は、私と比べると
格段に手のかかる存在。
あっちママは
弟を乗せた乳母車を
市場の入り口に放置したまま
私と二人で買い物をしていた。
そんな有様だったようです。
私の記憶には一切残っていません。
きっと弟が可哀そうで辛すぎて・・・
なかったこととして
封印してしまったようです。
小さい頃は自分だけの力で
生きていくことはできません。
自分を愛してくれる人。
自分の世話をしてくれる人。
この人に大事にされなければ
生きていけない。
幸せになれない。
と、もしかすると私は
弟を見て
そんな風に感じていたのかも
しれません。
自分のオールを
1度も持ったことがないのではなく
世話をしてくれる人に
オールを渡してしまうのが良いんだ
と、自然とオールを手放して
いたのかもしれません。
自分で手放したことには
もちろん気づくはずもありません。
小さい頃に体験した
首がすくむほどの恐怖。
「自分の周りはこわいものが一杯」
それと
「誰も私を守ってくれない」
この2つの思い込みはその後の
私の人生に大きな影響を与えることに
なっていきます。
1年生のころの私。
恥ずかしがり屋さんでした。
友達、いませんでした。
ただ、ひとつだけ
自分から「やりたい!」
と言い出したことがあったそうです。
「ピマノが弾きたい!」
唯一自分から何かがしたい!
といったのがピアノだったそうです。
ピアノの発表会。
ピアノはその後の私の人生を
大きく揺さぶることになります。
今日はここまで。
続きはこちら。。。