032 東陲ネンゴロ庵  「神武は日向から東征したのか」を始めるにあたり | 東陲ネンゴロ庵

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032 東陲ネンゴロ庵

 「神武は日向から東征したのか

            を始めるにあたり

 

1 はじめに

・ ネンゴロ庵、庵主後聞です。今回から、「神武は日向から東征したのか」と題してお送りいたします。神武は始め、「ワカミケヌ」とか「サヌノミコト(さののみこと)」とか呼ばれていました。その後、大和に至り、住んだ場所から「イワレヒコ」と呼ばれたようです。そして、尊称として「カムヤマトイワレヒコ」となり、ついに神として祭り上げられることになったのでした。

・ 最後には、始祖王ということから、「」という名前の上に「」まで付けられて、「神武」と成りました。

・ 中国では、王朝の始祖を武王、武帝と諡(おくりな)したことが知られています。前漢の武帝(劉邦)や後漢の光武帝などが、それにあたるでしょうか。神武もそれに倣ったのだろうと考えられます。なお、
武以外にも、高祖や太祖などを使用する例もあるようです。それらについては、この稿とはあまり関係がありませんので控えたいと思います。

・ また、武王の父、つまり先代は、文王と呼ばれることもあるようですが、神武の父は、「ウガヤフキアエズノミコト」ですので、この例には含まれないようです。このことにも後に触れることになります。

・ それから、、神武や第十代の崇神天皇を「ハツクニシラス」、つまり初めて国を治めたとしたのも、秦の始皇帝(しこうてい)に倣ったものではないかと考えられます。始皇帝は、いわゆる戦国の七雄(七つの強国)を統一して、中国(華北、華中)を支配下に置きました。神武や崇神がどの程度の勢力であったのかということは、これから明らかにしていきたいと思います。「ハツクニシラス」だから、全国を支配したのではないかという方もおられると思います。果たしてそうでしょうか。様々な議論があると思います。私なりの考えを述べさせてもらいたいと思いますので、今後、ブログをご覧いただけたらと思います。よろしくお願いいたします。

・ なお、神武には、前述したように名前がいくつかありますが、混乱してはいけませんので、神武と呼ぶことに、このシリーズでは統一したいと思います。お断りしておきます。

 

2 どうして?孫と祖母なの?天孫降臨 

・ 下の写真は、長崎県対馬市小船越(こふなごし)にある阿麻氐留
32-1 (あ まてる)神社の鳥居に取り付けられた神社の名前です。以前は、ここがアマテラスの根元の地であるという議論がありました。しかし、天皇家のご先祖である神 がここにいるということは、いかがなものかという考え方が出てきて、アマテラスとは関係がないというように考えが変わってきたようです。

・ つまり、伊勢神宮にお祭りしてあるのに、ここがその原初の地であるとは、いかにもおかしいというので す。しかし、ご案内の通り、伊勢へはアマテラスは移ってきたということが言われています。しかも、途中で、丹後半島の付け根、天の橋立近くにある神社に一 時居られたということになっているのです。ここは、元伊勢と呼ばれています。そこへもどこからかやって来られたということになっています。つまり発祥の地 はわからないままです。それを対馬であるとする議論をすることさえはばかられているような状況にあるということが言えるでしょう。

・ さて、天孫降臨で知られるニニギノミコトは、アマテラスの孫にあたります。天をアマテラスとみて、その孫が降ってきたのですから、天孫降臨といわれるのです。

・ でも、不思議なことがあります。父親は一体どうしたのでしょう。もちろん、父親はいます。アメノオシホ ミミノミコトです。アマテラスとスサノオの「誓約」(うけい 神意をうかがう所作業)によって最初に生まれた正当な後継者なのです。もちろん、おばあさん の勢いが強く、一家を牛耳っているという状況は、まま見られることではあります。しかし全く外されているように見えるのはどうにも疑問です。

・ 私の結論としては、記録を著す者たちの手によってゆがめられたのではないかということです。つまりは、 オシホミミの存在を都合が悪いとする勢力があったのです。そのために、その影が目立たないようにされ、人々の記憶から消し去ろうとしたわけです。詳しくは 今後にご期待ください。

・ 下の写真は、長崎県壱岐市にある壱岐一宮である天手長男(あま
32-2 の たながお)神社の社殿です。延喜式に記された神社です。アメノオシホミミノミコトが主祭神となっています。社殿が新しく感じられると思います。詳しいこと は、今後考察していきたいと思います。江戸時代、壱岐島は、平戸藩領だったよう ですのでそちらの記録も探して、参考にしていきたいと考えています。

 

3 調査の余録

・ 半分に折れた墓石。これは、何だと思われますか。写真が小さく
32-3

すみません。よく見ると刻まれた文字は、
「賢翁宗臣居士」と読むことができます。場所は、長崎県壱岐市、勝本の湊の背後にある丘の上です。

「春霞 湊見おろす曾良の墓」

  作:後聞

・ ここに眠っているのは、松尾芭蕉の弟子で、「奥の細道」を共に旅した曾良なのです。70を過ぎてから幕府の役人と共に此の地を訪れ
客死したようです。当時としては相当な高齢になってから渡海して島を訪れた曾良。その詳しい経緯は分かりませんが、病床に伏し、ここで亡くなったそうです。元々の墓石を立て、背後には立派な標柱が立てられています。

・ 近くには、句碑も立てられています。「ゆきゆきて たふれ伏す
32-4 と も 萩の原」と書かれています。旅の途中、体調を崩し芭蕉と別れねばならなくなった心境が描かれています。加賀の国でのことだったようです。「腹を病ん で」とありますので、当時の衛生環境のことを考えると、食中毒だったのかもしれません。水が合わなかったのかもしれません。曾良は芭蕉と別れ、伊勢国の長 嶋というところの縁者を頼って療養に赴いたようです。私は壱岐を数度訪れています。曾良の墓もその時お参りしました。調査旅行の途中での邂逅ということに なります。この先も時々、お知らせしていきます。

 

 

4 おわりに

・ 今回は、新たなシリーズを始めるにあたり、先触れとして思いつくままに書き連ねました。この先、天の岩戸、天孫降臨の真実について考察していきたいと思います。それでは失礼します。