これは書かなければならないと思う。
とある少女の生きた物語。
俺自身が忘れないためにここに記そうと思います。
今日はいつもより早く会社を出て帰宅した。
普段なかなか見られない時間帯のテレビ番組を何気なく見ながらくつろいでいたら、
あるチャンネルに切り替えたときにふと見入るように見始めた番組があった。
思った。今日はもしかしてこの番組を見るために俺の時間がスケジュールされてたんじゃないかって。
嗚咽するほど泣いたのはどれくらいぶりだろう・・・
「がんばって」の言葉が持つ両極端な意味。
本当の優しさってやつは真っ暗な絶望の中に咲く花なんだろな・・・
明るい場所にはそんな重い花は咲くことすら困難だろう。
俺はどうするかな。
家族を思い、自分の種を花開かせるためがむしゃらに突っ走らなければ。
生きている、生かされているものとしてがむしゃらに必死にならなければ。
じゃなきゃ、そうできない人たちに怒られちまう。
朝陽ちゃんの生きた物語を見て、嗚咽と共に笑いながら泣いた・・・
この物語は心の奥深いところに埋めておく。
そこに土をかぶせて固め、その上に新しい心を植えつけていこう。
それが彼女が命と引き換えに蒔いた希望の種だから。
空を見上げては自分の立っている位置を再確認する。
俺はここにいて、こんな物語を知って、それを心の中に埋め、そこに種を植えては花開かせていく。
「ありがとう」という言葉。
「がんばって」という言葉。
きっと「優しさ」や「残酷さ」って言葉も同じものを秘めた言葉だと思う。
その言葉を発したところではなく、受け取るところでその意味が決まってしまうんだね。
「優しさ」は「優しさ」をそのまま発するのではなく、
受け取る人によってそれを優しいと取るか残酷と取るかが決まる・・・
人が人に優しさを与えるなんてこと自体恐れ多いことなんだろう。
人によってではなく、自分自身の「生き方」に従って出る言葉や行動の一つ一つが結果的に「優しい」とか「残酷な」ってことに振り分けられていく。
ぶれない自分の生き方が本当の意味でその岐路に自分を立たせてくれるんだろな。
人に優しくしよう・・・なんて、俺には言えないな。。。
受け取る人のことまで自分が制御できないから。
だったらせめて自分の生き方でその道をまっすぐに行くこと。
それしかない。
その通った道に残るものを拾ってそれをどうその人が判断するかなんて考えながら生きることってできないよね・・・
この少女の生き様を今日知ったというのはきっとずっと前から決まってた運命なんだろう。
俺は知ったが故に、この後何かを背負って生きていかなきゃならないんだと思う。
でもね、何も背負ってないよりはマシかな・・・って思う。
人は少々何か背負うものがなけりゃどこまでも道を踏み外せる。
そのことを少し前に痛いというほど知った。
背負うことは後ろ向きなことじゃない。
背負って前に進むんだ。
人生ってのは白紙のページだけが準備された本。
運命ってのは白紙のページに書き込むために準備された物語。
どんな表現で、どんなふうに書き綴っていくのかは、きっとその本を手渡されて生まれてきた者たちの使命・・・だと思う。
・・・・・
重いなぁ。
ずっしりと。
生きるってのはほんとに重い・・・
・・・・・
その重みを背負ってちょうどいいって言ってる自分を想像したい。
いつもやってることだろ・・・
思い描く、それが第一歩。
だからいま言葉にするよ。
この重み、これくらい背負って歩かなきゃまっすぐに歩けない。
これくらい背負ってなきゃ道を踏み外しちゃうだろ。ってね。
あぁ・・・泣きすぎて目が痛い・・・
嗚咽しすぎて呼吸困難になりかけた・・・
こんなに泣いたのはほんとに久しぶりだな。
今日という日。
心の奥底に埋めてしまおう。
いつかそこから芽吹く種も一緒に。
そしてこの腫れた目が明日までに治ることを願って・・・
背負って生きる。
そう決めた今日の日に感謝します。
では。