「サウンド・オブ・ミュージック」は、実在したマリア・フォン・トラップさんが書かれた自叙伝をもとに作られたミュージカルです。











本物のマリアさんは、とても厳しい母親だったそうです。





彼女は幼くして、母親を失いました。





死別だったそうです。





母親が亡くなった後、すぐに父親に捨てられました。





父親に捨てられた後、親戚宅に預けられました。





その親戚宅で虐待に遭ったのです。





彼女は学校でも問題児と呼ばれるようになりました。











そんな彼女が修道女になりたいと熱望し、修道院に入ったのです。





入ったのはいいのですが、性格的に穏やかではなく、静寂な修道院生活には馴染めなかったようです。





口笛を吹いたり、歌を唄ったり…











彼女にトラップ家での家庭教師の話があり、修道院長の「神の御心です。」との言葉を胸に、トラップ家の家庭教師になったのです。











トラップ大佐は、第一次世界大戦でオーストリアの潜水艦の艦長でした。





その第一次世界大戦でオーストリアは敗戦します。





海軍はなくなったのです。





彼は働くこと、働く先を失いました。





そんな彼から、妻をも奪ったのが病でした。




この頃の彼は、自宅で子どもたちと悲しみに沈んでいました。




働くことも、全ての意欲を失っていたようです。





7人の子どもを残して、妻が病死したとき、一番下の子どもは、まだ1歳になった頃だったようです。





その妻の死から4年後に、家庭教師を迎えたのです。











家庭教師のマリアとは愛情に基づいた結婚ではありませんでした。





トラップさんは、「母親になってほしい」と懇願したのです。





「サウンド・オブ・ミュージック」のような恋愛感情は全く無かったそうです。





マリアさんは、修道院へ帰って相談しました。





その時も、修道院長は「神の御心です。」とのみ答えたそうです。





そうして彼女はトラップ大佐と結婚しました。





ゲオルグ・フォン・トラップさん47歳。





マリアさん22歳でした。











「サウンド・オブ・ミュージック」との大きな相違は、母親マリアさんが厳しく、父親である大佐は優しかったのです。











大佐が働かなくても、一家が生活に困らない莫大な相続(前妻の相続)と資産を持っていましたが、世界恐慌によって、無一文になってしまいます。





それから、マリアさんの奮闘が始まったのです。





一家が合唱団になったのは、それからでした。





オーストリアで有名になった家族による合唱団が誕生したのでした。





オーストリアはドイツに統合されましたが、それを当時のオーストリア国民は熱狂的に迎えました。





ただ、トラップ大佐だけは違っていたようでした。


ドイツ海軍の潜水艦の艦長にとの話しにNOと答えたのです。





ナチスドイツとの統合を喜んでいたのが事実でしたので、今も、オーストリアでは「サウンド・オブ・ミュージック」を歓迎しないようです。





事実との相違があるからです。











マリアさんは、アメリカに亡命後、子どもたちを引きこもらせました。





外部と接触出来ないようにしたのです。





結婚されると合唱団ではなくなるからです。





家族以外の人との接触を禁止しました。




それは、まるで監禁でした。





ステージの上から、家族以外の人の姿を見るだけの生活だったのです。





そんな家族がバラバラになるきっかけは、父親である大佐の死でした。





父親の包み込む優しさだけで、繋がっていた家族だったのかもしれません。











一人の女の子は精神疾患になってしまいました。





家族以外との接触を許されなかったからでした。





歌を唄えなくなったのです。





もう一人の女の子は、好きな人が出来て、家から逃げ出したのです。





その女の子が結婚してからは、男の子も家を出て結婚したのです。





一家の生活の糧である合唱団は、事実上の崩壊でした。











生活費に困窮したマリアさんに自叙伝を書くように勧めた人が居ました。





その通りに自叙伝を書き、それが売れたのです。





そして、ドイツの映画会社から映画化の話がありました。





「菩提樹」というタイトルの映画です。





映画化されても印税が入ってきませんでした。





全て自分で仕切ってきた彼女は、弁護士などに相談することなく、自分で決めたのです。





それで、印税が入らなかったのです。

















私はマリアさんの人生で、親が居ない子どもの悲惨な姿を思いました。





親が居なくなった場合に親戚宅へ預けられても、その家庭にとっては邪魔者でしかなかったのです。











日本でも昔の貧しい家庭の貧しさは、子どもを売るほどでした。





女の子は遊郭に売られたのです。4歳くらいで…





男の子も売られていきました。





製糸工場で女工として働いた女の子たちも、同じような家庭の子どもたちでした。





引きこもりが社会問題でなかったのは、引きこもることさえ許されなかったのではないかと思います。





「働かざるもの食うべからず」の社会でしたから…





引きこもる前に売られてしまった子どもたちも居たでしょうし…





売られた先が遊郭であれば、もう出られません。





出るときは死んでから…という若い女性が何人居たのでしょうか。











今の日本も社会保障(生活権、生存権)が、EU圏のように十分ではありません。





それでも、生活保護を受けられる。





まだ、十分ではありませんが、引きこもっている人たちへの支援にも目を向けておられる人が居る。





障害者へも十分ではありませんが、福祉が皆無だった昔の日本と比べると、まだマシです。





時代の逆行を許してはいけないと思います。











マリアさんが厳しい母親だったことは、子どもの結婚も、恋愛も認めなかったことからも分かります。





そのために一人は精神疾患になり、一人は家を出るときに怪我をしています。





怪我をしてさえも出たかった家…





実質の「引きこもり」状態に、親がしてしまうとは…




精神疾患になった娘が、そのような状態になったのです。





それほどまでにして、合唱団を守らないと、収入が無いことへの恐怖があったのではないかと思います。





それも、マリアさんの育ってきた環境によるものだと思うのです。











優しいマリアさんに憧れていた私。





でも、本物のマリアさんの人生は厳しい人生だったのだと思いました。




大佐は、アメリカでは海軍に志願したのですけど、断られたのでした。働きたかったのです。





働けなかった「ニート」のような大佐でしたが、大佐は子どもたちにとって存在感があり優しく包容力がある父親だったのかもしれませんね。





それは、マリアさんにとっても…














「引きこもり」の正しい定義で、私は記しませんでした。




理由は、貧しさのレベルの差です。




一時期『自宅から出ることもしなかった』大佐が、仕事をしなくても7人もの子どもを育てられたのは、裕福だったからです。




貴族で、マリアとの間に3人の子どもが出来てからも、働かなくても良かったくらいでした。




12人家族を働かずに生活させることが出来、そのうえ使用人も多数居たのです。









この時代の日本の農村では、小作人の家の子どもたちは、女の子なら女工になるか、遊郭へ売られるか…




男の子は長男以外は、兵隊さんになることが一番の出世だったそうです。




あとは…奉公へ出されるのです。




子どもたちは働かねばなりませんでした。




学校へも行かれずに…




「働けども、働けども、わが暮らし楽にならず」の時代でした。




そして、子どもは労働力でした。




日本の太平洋戦争直後も、大差がなかったと思っています。









この時代のオーストリアも、決して大差がないと思うのです。




何と言っても、第一次世界大戦の敗戦国で、第二次世界大戦も経験している国ですから…









そういう時代でしたので、第二次世界大戦の後、マリアが子どもたちを世間から隔離したことを「引きこもらせた」と記しました。




実際、精神疾患になってしまった娘が居たことも、その理由のひとつです。









どちらにしても、この酷い貧しい時代のように「子どもが労働力」の国が今もあるということも忘れてはいけないことだと思います。









そして、マリアさんのような子ども時代を過ごす子どもが少なくなるように願っています。