特殊音楽祭2014


 筆者にとってこれはある意味で最も書いてみたかった、そこにいかなければわからない「一夜限り」の音楽の祭典。


 書き留めることは決してできないほどディープだからこそ、書いてみたい、そそられる体験。



 そもそもこの音楽祭は主催者の作曲家山本和智さんが「個人的な興味と遊びの延長という動機の下、和光大学を舞台に音楽評論の西耕一氏と共にスタート」したものだそうです。


 「様々なゲストお迎えし、敏感な学生達の好奇心に応える形」とありますが、決して単なる興味本位では有り得ない非常にディープな演目の数々。


 まさに「特殊」を銘打つことでかろうじて社会に認知を得ることが可能であるような、中身の濃い音楽祭であったと思います。



 筆者自身の都合により、すべての演目を見聞することができなかったことが悔やまれますが、筆者にとってとりわけ印象深かった点に絞って以下に記してみたいと思います。



まず、「孤高の作曲家」ロクリアン正岡氏による特別講義「不可知の何様と、クラシック音楽の贓物」


ロクリアン正岡氏の思想はそのブログからも知られるように独自のターム使用のために通常理解が非常に困難であり、また色々と誤解を招きがちであると思います。今回も「不可知の何様」という表現からして昨今の風潮に対する否定的なタームなのかと思いきや、「人間にとって最も本質的な精神世界」という趣旨の非常にポジティヴな意味で用いられていました。


そこで、第三者による不毛な要約を避け、敢えて筆者自身が氏の思想の神髄、芸術に対する態度について理解し得たと思うところを記してみることにしましょう。(あくまで、以下は筆者の想像であり、氏の許可を得た理解ではないことを断っておきます。)



「作曲の本質とは、決してエクリチュールの内的な意味連関とか、書法上の発展とか、モチーフの多様で複雑な組み合わせにあるわけではない。作曲家が作曲した作品において本当に問われているのは一切の「歴史」以前に「一切を超越し、時代の淘汰に堪え得るだけの力と魅力を備えているのか」ということなのであり、このことを本当に問題にしなくなったところにこそ現代芸術の退廃と野蛮とがある。たとえば、「無伴奏人体ソナタ」を単に「特殊」なパフォーマンスの披露としてしか理解しないなら、それは完全に本質をとらえ損ねている。各人は最も内的で、如何なる社会的な制約も受けないような自ら自身の「声」に従って歌うべきなのであり、その内的な声の表現こそが、このソナタの法外な意図なのである。外的な形態に囚われたところに、真実はない。自ら自身の自然に従わず、超越を目論みもせず、ただ相対的な価値評価の中で本質を見失った作品が如何に多いことか。ロクリア旋法にしても、それを単に「作曲技法」としてしか理解しないなら、その使用の意図を見抜くことはできないだろう。現代において、最も忘れられている「クラシック的価値観」を大胆に、真一文字に主張すること、それこそが「ロクリアン」の極意である。」


やや、おどろおどろしい表現になってしまいましたが悪しからず。レクチャーでは、トスカニーニのロッシーニや、フルトヴェングラーのトリスタンと合わせて氏のこれまでの最高傑作である「異次元航路」の音源による紹介もなされました。





(この映像は3月の府中での初演時のもの。レクチャーでは打ち込みの音源が披露されました。)




この「異次元航路」は筆者も今年の3月の府中での初演に立ち会う幸運に恵まれましたが、「熱く聴衆に訴えかける精神」に溢れた素晴らしい作品です。そのことは何よりも演奏していた桐朋生たちの「やる気」に現れていたと思います。これは決して無視できない点であり、ロクリアン氏が自らの限界に挑戦し続け、今なお新たに生き続ける驚異的な精神の持ち主であることを物語っていると言えるでしょう。


レクチャーにおいても、自らの世界に没入しつつ、一つ一つ言葉を語りだす氏の姿に直に接することができたことは大変貴重でした。



続く、木部与巴仁さんによる、そのロクリアン氏の無伴奏人体ソナタ及び狂人日記は、筆者のこれまでの「アート体験」の中でもおそらく指折りに奇想天外であり、ディープなものでした。



内容が内容だけに不特定多数の公的な場での描写が難しいのが極めて残念ですが、あまりにセンセーショナルな演出に(時折笑が起こるものの)会場には緊迫感が漲っていました。



「人体のアート化の極限」ということが一つ、そして、「笑わず嘆かず」現実そのものをそのままに表現しきるそのすさまじさに圧倒されました。



とりわけ狂人日記においては原発問題など政治的な主張を織り交ぜながら真面目に語りつつ、動作は女性用のパンツを十数枚重ねて履き、履ききると今度は脱いでそれを頭にかぶり重ねていくという動作の繰り返しはまさに「狂気」ですが、それは決してアイロニーと言う様相を帯びることはありません。


そうではなくまさに、これは現実そのもの。如何にバカバカしくともまさしく現実そのものが、強烈なインパクトで迫ってくる、そういう印象でした。



芸術は特定の価値の押し付けではなく現実そのものの象徴的表現であり、美であり、カタルシスであるというまさしく「ド直球」の演目。迫真のパフォーマンスを披露して下さった木部さんにはただただ拍手を送るしかありません。今回、全体としてこの演目に一番大きなインパクトを多くの方が感じたことは間違いないでしょう。



川上統さんの「エビエビカニカニエビカニエビエビカニカニウデムシエビカニカニエビビネガロンエビカニエビエビカニヒヨケムシエビカニエビカニカニ」はタイトルのディープさとは裏腹に非常に素敵な作品でした。


川上さんと言えば何と言っても特定の生物の形態を音楽化した「生物シリーズ」の作品群が印象深いですが、今回の作品ではその川上さんのライフワークの良さも味わいながら、川上さんの得意の即興をも存分に味わえるまさに「いいとこどり」の演目となりました。様々なノイズと共に繰り出されるピアノの即興もセンスに優れた素晴らしいものでしたが、後半なんとチェロに持ち代えられ、チェロの素晴らしいパフォーマンスを披露して下さったことには驚かされました。この多彩な作曲家の様々な側面が詰まった充実した作品でした。






(この作品は川上さんの「動物シリーズ」の代表作の一つグリズリー。まさにグリズリーで、爪で叉木を引っ掻く音まで豊かに再現されています。今回の演目でも川上さんのチェロはどことなくこの演奏の模様を回想しているかのように感じられるところもありました。)





音楽祭の締めくくりは、篠田浩美さんのマリンバによる山本和智さん作曲「Trance-media Ⅰ-Oracle- for Marinba and tape(2012)」


この作品はもう篠田さんの魅力が存分に引き出された「一夜限りのお祭り」の締めに相応しいとても「セクシー×カッコいい」作品。後半の盛り上がりと掛け声も非常に素敵でしたし、低音から高音に突き抜ける終わり方もバッチリ決まって居りました。会場が沸き上がったのは書くまでもありません。












会場では魚系料理研究家の四分一耕さんの「特殊飯」も販売され、筆者はマグロの心臓が入ったカレーを頂きました!! 写真を取り損ねましたが非常に美味でした☆



他では絶対に体験することのできないアート体験。芸祭でも、桐朋祭でも絶対に無理で、和光のこの空間だからこそ実現できる音楽の祭典。あたかも、大海原から巨大マグロを一本釣りする漁師のような主催者の山本さんと和光大学の皆様の爽やかな笑顔が忘れられません。



とにかく「すごいもの」がみられます!!



これをお読みになられている皆様も是非来年足を運ばれることをお勧めいたします。(ただし、非常にディープです!! 注意☆)